『フェンリル』その②

 トンネルに入って、光の入らなくなった窓から陰鬱な顔が映る。首が据わっておらず、淀んだ焦点はおぼろげで。

 身なりも、灰を被ったようにぐちゃぐちゃだ。

 他人事のように空気を冷やす弱冷房が頬の引っ掻き傷に刺さる。

 がらがらの席の、端の仕切り板のところに寄りかかって、がたんごとんと揺れる度にされるがまま打ち付けられ。

 リビングデッドのようなそれが、私である。

 嘆息とともに、髪をがさがさするとその隙間から砂粒と、小枝の皮や落ち葉の破片が零れ落ちた。

 まつ毛や唇に降りかかるそれらを除く気にもなれず、行き場のない感情をふとももの上に揃えた指先に込めて、そして自分を殺してもさえいいとまで思ったのに。

 鬱血と伝線によって簡単に、ぼんやりと可視化されてしまう。

 人差し指の爪が欠ける。

「ちくしょう」

 前日は碌に眠れなくて、興奮冷めきらないまま勢いだけで空回りし、爪弾きにされてこれだ。

 私は躊躇った。

 私は、また失敗したのだった。

 


 その時私は件のキャラバンの中で泥になっていて、朧気な意識を彷徨させ連絡を待っていた。

 氷嚢で冷やし続けた脚はそれなりに痛みも引いてきて、多少無理すれば探しに行けるだろうかとぼんやりと思考する。

「っ……!」

 耳元で、鈍く着信音が木霊する。

 ああ、と呻いてそれを止めようとするが上手く掴めず。

 背もたれに手があたったところで違和感に気がついて目が覚めた。

 ここはパンケーキのキャラバンで、そして発信先はーーやはり。

 飛び起きて、不意に跳ねて痛みが伴う右足に顔を顰めながら電話に出る。

「珠火は見つかったっ!?」

「うん。中華街で迷子になってたよぅ。今は少し落ち着かせてるとこさ。ええと、……さっきのベンチのあたりにーー」

 そこまで聞いたら身体が動いていた。後ろを一瞥するとシルクワームちゃんも仮眠を取っていて、一応起こさないようにそっとキャラバンを降りる。時間を少し置いたからか冷やしていたからか、いずれにしろ痛みは落ち着いてきてそれに起因する、制御不能な類の声を我慢する必要はなかった。

 雲が薄めた頼りない月明かりと星屑、遊歩道を誘導する電光に照らされて公園を進む。

 駆けようとする心と半身がいろいろを追い越して、転がっていって電灯の下。霞がかって光る妖精の家具のようなそこに人影を認める。

「しゅ、珠火っ」

 息も絶え絶えでしょうがない。

 膝に両手をついて、呼吸を整える。

 珠火は、パンケーキに抱き寄せられてベンチに据わっていて、見たところ私のように怪我をしたとか、そういうのでもなさそうではある。

 だとするとそれはそれで問題で。

「手ぇ、出してたりとか……」

 まさかとは思うが、そんな虎を喰ったような事をするわけが。

 いくら、あの女とはいえ。

 ひとまず安心して歩みを進めようとすると、不意に視線を上げたパンケーキと目があってしまう。

 声が届く距離でもなく、暗くて、なにより私は小さいから知っていなければまだ気がつくことはないはずだ。しかし現実問題としてパンケーキはこちらを見つめていて、呆然とした私に笑いかけて。

 これ見よがしに、髪を掻き上げる。ふわり宙を舞ったそれは月光と電灯を平等に反射した。

 その仕草が、その顔が。

 この女が何を仕出かすかを私は知っている。

 二人の間に投げれている甘酸っぱい空気を破壊するには私の情動は空に切り裂かれていて、

嗚咽と一緒にバラバラに溢れ出て血肉を動かすに至らない。

 ただ、私の心を止めてしまうであろう致命傷を受け入れることしか出来なかった。

 蕩けきった珠火が、パンケーキの影に重なって隠れてしまう。

 その邪悪な皆既日食から私は、反射で目を逸らしてその場から離れた。 

 何が起きたのか、反芻して整理することを脳が許さない。その光景を思い出すか、想像しようとすると強いモザイクが処理されたように思考が揺らぐ。

 分かるのは2つだけだ。私は躊躇った。

 私はまた失敗した。

「それだけ、それだけなんだ」

 何を間違ったのかはわからない。泣けやしないから余計に救いがない。

 その後の記憶も、あやふやではっきりしない。

 入れ代わり立ち代わりとぼとぼ、おそらく珠火がそうしようとしていたように適当な宿を求めて、空いていたネットカフェに転がり込んだ。

 そこで夜を明かして、地下通路をよろよろと彷徨って、夢遊病のように口を開けていた電車に流れて、そして今に至るのだ。

 珠火が今なにをしていて、そもそも今日家に帰ってくるのかとか。考えたくないことは相変わらず考えられないまま思考が上滑りして、その深部への出力も、入力も受け付けない。

 がたんと大きく身体が揺さぶられて、電車が止まったのだと気がつく。言われてみればさっきから頭上がうるさかった気がした。

 不自然に明るい構内に吐き出され、去っていく列車が起こした風に身を震わせる。

 すこぶる時間が早いという以外何も変わらない一連の光景に嫌気が差して、ため息が出るがそれでも、そういう大きな流れには逆らえないもので。

「ちょっと、待ってくれてもいいじゃんか」

 目的意識を感じないベンチはひどく冷たくて、私は改札を目指した。

 鞄を開いて定期を取り出してかざし、開いた扉を抜ける。

 皮肉なことに散漫した意識のほうが生活には向いているらしく、気がついた頃には家の鍵を開いて、上着を放ってソファの上で丸まっていた。

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