第26話

 体育祭まではあっという間で、新学期が始まった今、イベントの当日まで残り二週間となっていた。


 真夏の炎天下の中、蓮が河野沿いを走るのを眺めながら小岩井はむず痒さを抱えていた。


 ――植田も頑張っとる……。けど私なんも出来てへん……。いっつも植田に抱えて貰っていて、今じゃただ植田の足を引っ張ってるだけやな……。


 きっとこの心の奥にあるモヤモヤを植田に相談してしまえば、彼は私の望む言葉を言ってくれるだろう。けれど、それじゃ今までと変わらない。


 ――私も!私の力で好きなことを見つけたい……!


 十五年間もの間、自分の好きが分からなかった。


 親に強制されたピアノも続かず、新年度の始まりに書かされた自己紹介カードの欄でずっと空白だった「趣味・特技」が酷く私を傷つけてきた。


 まるで「お前には何も無い」と言い切って来るような、そんな感覚。


 けれど今目の前には、好きを見つけて一生懸命になれている植田がいる。


 そんな彼は私の知る周りの誰よりも輝いていて、「私も変わりたい」と心の奥底の声が「私も変われるかも!」と震え声ながらに湧き上がる。


 そんな自身の叫びを私は無視できなくなっていた。


 今の私じゃない何かに成りたいと思った。


「小岩井ー。とりあえず五キロ走ったけど、動画見せてもらってもいい?」

「んえ!?お?え、ええで!」


 汗だくの植田と小岩井は2人でひとつの画面を覗き見る。


 ほのかにする匂い。

 柔軟剤の匂いだろうか?

 嫌いではない。


 意識し始めた刹那から、鼓動のリズムは加速して顔に血が通うのを強く感じた。


 ――絶対今顔赤い……。


「付き合ってくれてありがとね。」

「ん?ええねん!ええねん!私もなんかしたかったし!」


 蓮は心ここに在らずといった状態の小岩井を見て申し訳なさそうに発言した様だが、小岩井にとっては自分が変わるための活力となっていたため忖度なしに自分のためにもなっていた。


 けれどそんなことはすぐに調子に乗る植田には口が裂けても言えずにいた。


 その日は結局夕方まで走っては駄べり、笑っては鍛えて過ごしていた。


 二人は家へ一度帰ると、小岩井は植田を見送った。


 素直に少し寂しさも感じたが、そろそろ父の帰ってくる時間だったため、そうも言っていられなかった。


「んじゃまた明日やね……。」

「おう!また明日ね!」


 関西ではあまり聞かない標準語の植田。


 クラスじゃ女々しいや、イキリがってると馬鹿にされていたが、ただただ可愛らしく感じる瞬間が多々ある。


 けれどそれを言えば植田が傷ついてしまうであろうと考え、小岩井は何も言わずにいた。


 一人薄暗いリビングで夕飯を考える。


 キッチンの電気だけをつけて、自分が好きなこと、やりたいこと、成りたいものを考えながら料理を作る。


 ――なりたいもの。


 漠然と考えても浮かばないため、小岩井は植田が走ることを始めたきっかけを思い出す。


「あの時は……たしか、告白されて……。んで……。」


 植田は「もう逃げない」と言っていた。


 これまで植田は何から逃げてきたのだろうか?


 今の私は何から逃げているのだろうか。


 ――心当たりが多すぎんなぁ……。


 植田の影に隠れ虐めから逃げ、中学時代の部活からも逃げ、父の存在からも逃げている。


 なら今の私ができる最初の「逃げない」は、なんだろうか。

 そんなことを考えていると、玄関のチャイムがなった。


「もうこんな時間やったんや……。」


 小岩井は玄関の扉を開けて父を家に入れる。


「風呂は。」

「入れてとる……。」

「喋り方……。」

「はい……。」


 父は関西に住んでいるのにも関わらず、関西弁を使うとすぐに不機嫌になる。だから小岩井は家家にいる時だけ標準語で喋るようにしていた。


 小岩井はいつものように長い前髪で顔を隠し、俯きながら眉間に皺を寄せる父が通り過ぎるのを待った。


「夕飯は」

「温めとく。」


 父が風呂に入る間、小岩井は作った料理をあたためながら左手で溝内まで伸びる長い髪を触っていた。


「何から変われば……。」


 ボーッと何かを考えていると父が風呂から上がった音がする。


「やっば!味噌汁沸騰しとる!」


 小岩井は急いで食事の準備を整えた。


 通りかかる父に怒られないよう前髪の奥に逃げて、小岩井は部屋に入ろうとする。


 小岩井は何かに気が付いて立ち止まるのだった。



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 体育祭まで残り一週間となった九月中旬。


 空は入道雲からいつの間にか羊雲が並ぶようになっていた。


 月曜日の朝。


 今日は張り切って学校へやって来たが、張り切り過ぎて教室は空いてすらいなかった。


 仕方なく鍵を取りに、職員室へ向かう途中。教室のカギを持った大空がやって来た。


「あ、せんせ!」

「んあ?おは……。んあ……!?」


 大空はまさに開いた口が塞がらない様子。眼球が飛び出るほどに目を見開いて驚いていた。


「ま、まさか……植田と別れたのか……!?」

「ちゃうわ!」


 まさかのリアクションに笑いが込み上げてくる小岩井。

 植田がやってくるのが楽しみだ。


 ――植田って見かけの割にリアクション芸人やからなー……。


「植田はどんな反応するのか……?」


 植田が来るまで教室で黄昏ていよう。そんなことを考えている中だった。


 自分が楽しみのあまり気が付かなかったが、大空先生の顔色がやけに悪い。


 バツが悪そうに右手で後頭部を擦る大空は小岩井と目を合わせようとしなかった。


「せんせ?」


 先生はそのまま首元を伝うように手を下ろし、誠実な態度で口を開いた。


「今日植田は休みだ。」

「なんでです?私のとこ連絡来てませんよ……?」

「その……。朝走ってるところ事故ったらしく今は病院にいるらしい……。」


 心臓が飛び跳ね血流が加速するのを感じた。

 気管と瞳孔が開き、呼吸が浅くなる。


「……病院は?」

「東病院だ。でも……、おい!」


 次の瞬間小岩井は駆け出していた。

 全力で駅まで走る最中、何度か電話の着信音がなっていた関係ない。


 無我夢中で走っていた。


『私が虐めに立ち向かわなかったから?』『私がちゃんと声かけてあげれてなかった?』


 涙すら出ない。ただ頭に浮かんだのは自責と緊張と困惑の二文字ずつ。


 何とか駅まで辿り着き、電車に乗って駅まで向かう。


 病院は駅から近いため電車に乗ってしまえば後は待つことしか出来なかった。


 何もしていないのは落ち着かなかった小岩井はスマートフォンを開き、連絡の主が誰かを確認する。

 予想通り大空からの電話ばかり。


 携帯を直そうと画面を消したその時、ブブッと音を鳴らして誰かからメッセージが届いた。


「植田……!。」


 乾ききった硬い唾を飲んで恐る恐るポップアップをタップする。


 植田:事故った笑


「ナニ……!……わろ!とんねん……!?」


 思わず電車の中で地団駄を踏んでしまった。


 けれどこれで一安心だ。小岩井は汗を拭いながら電車を降り、植田のもとまでまた走り出した。


 駅までたどり着くとクーラが聞いていて涼しい。


 辺りを見回して植田を探す小岩井。

 すると見慣れた灰色のジャージを着た後ろ姿を見かける。


 小岩井は手すりに捕まってゆっくり歩く彼をみて、その姿に抱きつかずには居られなかった。


「植田ぁぁぁあ!」

「んがぁぁぁぁぁあ!?」


 手すりに捕まっていた植田はその場でしゃがみ込んでうずくまる。


「あ!ご、ごめん!?怪我しとるもんな!?」

「んな!?こ、小岩井!?な?か、え!?髪……!?」


 言いたいことが纏まっていないことが伝わってくる。

 そして自分自身髪を切ったことを忘れていた。


 ――ゆーてみれば走りやすかったかもしれへん……。


「ど、どう?」


 小岩井は恥ずかしがっていつものように前髪で顔を隠そうとしたが、前ほどの毛量は無いことに加えて今植田はしゃがみ込んでいたため顔は隠しきれなかった。


「へ?し、失恋したか……?」

「お前もか……!!」


 植田といい大空といい、女性が髪を切れば失恋だと思っているのだろうか?


「似合うかどうか聞いてんねん!?」


 いつもみたいに叩いてツッコミを入れれず、代わりに地団駄をふむ小岩井。


「んはは、冗談やって。ちゃんと可愛いよ。」


 それを聞いて紅潮する頬を見て、植田は二ヘラと悪戯な笑顔を見せた。


 恥ずかしがって胸元で髪を弄ろうとしたが、首元まで切った事を思い出した。


 髪を見失った右手は地べたに座ったままの植田の頭まで持っていき、存在を確かめるように頭を撫で回した。


 ――良かった……。


 植田は明日には学校へ戻れるらしい。


 虐めによってわざと辺りに行ったなんて訳ではなくひとまず安心する。


 小岩井は立ち上がる植田を見てとある違和感に気がついた。


「植田……、足……。」

「ん?ああ、ちょっと捻ったみたいでさ。恐らく骨折はしてないみたいだってさ。」


 植田が千五百メートル走を心待ちにしており、そのためにこれまで練習を怠らずに続けてきたことを知っていた。


 次の目標を見つけ焦り続けながらも藻掻く姿をずっと見ていた。


 ――きっと植田なら「出れなくても、そう言う縁だっただけだよ」なんて言って前向きに受け入れそうやけど……。


 それでも、もし神様がいるのなら酷いことをするものだ。とそう思った。


「いやー、なんだかんだで2日もすればすぐ治るらしいし!明後日には最低限の練習は出来そうだな!ギリギリで良かったぁ!」

「え?でも首元のガーゼは……?」


 植田の首元には大きなガーゼが貼っていた。


 普通に喋れている当たり、深くは無いのだろう。


「嗚呼、これ?一週間は傷開くかもだから、運動するなだってさ。7針縫った!かっこいいでしょ?」


 走る気である植田を見て、心配する気持ちよりも応援したいという気持ちが大きくなった。


「わかった今聞いたことは先生には黙っとくわ。」


 話の区切りがいいところで、再び小岩井の携帯が震え出す。


「やっば!せんせーや!?」

「そうじゃん!小岩井!学校!」


 小岩井は踵の向きを百八十度曲げて再び駅へ向かおうとする。すると背後から植田に「小岩井!」と呼びかけられ、小岩井は振り返る。


「さっきは茶化してごめん!似合ってるよ!」


 院内で遠くからそう告げられ、多くの人がこちらを見ている。


 恥ずかしくなって再び髪で顔を隠そうとするが、その髪がない今となってはもう逃げることは出来ない。


「ありがとう!」


 小岩井は満面の笑みを作ってそう言った。


 きっと、ほんのちょっとだけ、髪を切って素直になれた。そんな気がする。

 きっと、ほんの少しだけ、今の自分が好きになれた。

 そんな今日だった。

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