第23話 君の鼓動
「は……? えっ?」
トレーを掴む手に入っていた力が抜けかける。その言葉を聞いたのが飲み物をテーブルに置いたタイミングで良かったと思う。でなければ、今頃はきっと大惨事だ。
さっきのあれは、告白の言葉だったりするのでしょうか。
いったいいつ、僕の発した言葉がそう聞こえたのだろう。慌てて記憶をさかのぼってはみたものの、肝心の記憶までが散らかってしまいすぐには見つけ出せない。
まさか悪ふざけのつもりなのではと、湧き起こったわずかな疑いに負けて小春さんの表情をうかがってみる。しかしその瞳は、天井に灯る小さな照明をぼーっと見つめていて、何を考えているのかわからない。
普段から見慣れたポーカーフェイスが、先の言葉と並んで僕を
「……ごめん。さっきのって、いつの?」
「マチネに着く前です」むくりと体が起こされ、「私と会ってから世界が変わったとか、私と会う前の自分を考えられないとか、ずいぶん前のめりな事を言っていたので」
呼び水があれば探していた記憶は簡単に見つかる。たしかにアーケード街を歩きながら、僕は小春さんにそう告げていた。
小春さんと会ってから、世界の見え方が変わった気がする。これは大げさでもなんでもなくて、僕にとっては本当に大きなことだった。今じゃもう、小春さんと会う前の自分が――
自分としては、ありのまま素直な気持ちを伝えたつもりだった。
だが一言一句、あらためて己の発言を振り返ってみたところ、なるほどそういう意味にも捉えられるなと遅まきながらに合点した。
誤解を招きかねないことを口走ってしまったのは、もはや疑いようがないだろう。
「ええと……」
ごめん、あれはそういう意味じゃないんだ。ただ友達として感謝してるって意味で伝えただけで――そんな言葉を悪びれもせず口にできるほど、僕はもう、人に対し無関心ではなくなっていた。
空調の効いた室内は快適な温度に保たれている。なのに僕の体だけが、抗うように熱を帯びていくのがわかる。カラオケで一緒に歌を歌っていた時とは違う、別の熱。個室に二人きりでいるというシチュエーションまで同じはずなのに、今になってやたら過剰な自意識が芽生えてくる。
後ろ手に腰を触り、視線を逸らす。
空調の立てるかすかな音以外に耳を震わせるものはなく、
「よいしょ――」
あぐらをかいていた僕の膝に、小春さんの、小さな頭が乗せられる。
なすすべなく固まる僕をよそに、小春さんは頭のポジショニングを始めた。
「クッション、そこにあるけど……」
「ありますね」
「じゃあなんで?」
「そこに膝があったので」
「山なの? 僕の膝」
「いえ、ランクとしては林くらいかと」
「木でも森でもない……」
「過ぎたるは及ばざるが如し。動かざること私の如し――これでよし、と」
どくん、どくんと、種火のようにくすぶっていた鼓動に油が注がれる。いったいなにが「よし」なのか、屈託のない瞳がただ僕を見つめていた。
きめ細かでつややかな肌は彫刻か、絵画か。布越しに感じる体温はもちろん、さらさらと
脳裏をよぎった予感と期待は紙一重で――呼吸に動いていた薄桃色の唇が、沈黙を破った。
「私は、時生さんのことが好きです」
小春さんは、僕のことが、好き。
心臓を掴んだ言葉に、どうしてだろう。彼女と出会った日に青空を漂っていた、桜の花びらを思い出す。
「今日一日、私を気に掛けてくれている事には気付いていましたよ。日影を歩いたり、人混みの多いところを避けたり……私が過ごしやすいように空調もいじったり」
「……ありがとう。でも当たり前だよ、そんなの。特別な事じゃないし」
「でもそれを、あえて表に出すことはしませんでした。そういうところが好きです。……違いますね、そういうところ“も”好きです」
二回目の好きを口にした時、小春さんの頬が紅葉に色付いたもみじのように、ほんのりと
「時生さんとする、なんてことのないお喋りが楽しいです。あんなふうにつらつらと返しの言葉が思いつく人なんて、私の周りにはそうそういません。将来有望ですね。お笑い方面に」
「……どうかな。でも、波長が合うのかな」
「たぶん、きっと。――私が体調を崩した時に走ってくれたことも、うろ覚えですが覚えています。困っている人の為に体を張って動ける人を、私は無関心だとか、冷たい人間だなんて思いません」
「……小春さ――っ?」
僕の体があおむけにがゆっくりと押し倒される。とても柔らかな力ではあったけれど、抗おうとも思わない。
そのまま小春さんは僕の手を握り、今なお高らかに鐘を打ち続ける心臓に耳を当てる。
「この音とぬくもりがある限り、時生さんは人に無関心でも、物事に興味なしなし人間でもありません。時生さんの優しさは……触れればちゃんと、伝わってきます」
――他人や物事に興味、関心がもてないんだ。
小春さんに打ち明けた
いつしか僕は僕の事を、そういう人間だと、そういうキャラだと、狭い箱の中に押し込めていたのかもしれない。所詮それは、誰かが勝手に張り付けたラベルでしかないのに。自分はそうなんだと思い込んでいた。
「私を大事にしてくれて、ありがとうございます」
長く深く、心に刺さっていた
何が「そういうキャラ」だ。古いクラスメイトがかけた呪いを、僕は石ころのように蹴り飛ばす。
これでやっと――小春さんの気持ちに応えられる。
「僕も、小春さんのことが好き」
「最初は……本当は、変な子だなって思ってた。でも小春さんは、僕を知らない世界に連れてってくれた。サボって、遊んで、一緒にいると楽しくて……面白かった。小春さんとしたことはひとつひとつ、なんでも覚えてる」
バスで会話を交わした時間、半分飲まれた僕の抹茶ドリンク。僕に対してだけやたらと現金な猫たちが揃う猫カフェに、今日観た映画やマチネでのひと時。僕一人だったら作れない思い出ばかりで、そのどれもに小春さんの姿がある。
友達、サボり仲間、恋人同士――いいや、肩書きにきっと意味はない。
僕が大事に想っているのは小春さん、ただ一人だけなのだから。
「これからも大事にするよ。小春さんはもう、僕にとって……大切な人だから」
「……はい」
しおらしく漏れ出た声に僕まで照れくささを刺激され、
「国宝か、重要指定文化財くらい大切にしてください」
「小春さん、規模、規模」
とんでもない好待遇の要求に不安を抱きつつ、今はただ、胸を満たすあたたかさに笑い返す。
終わりかけの四月。
木曜日から見えていたのはあと一日の平日と、月を跨いだ先にあるゴールデンウィーク。今日が終われば、僕らはまた日常という名のレールに戻ってゆく。小春さんも教室に――
ふとある事を思いついた僕は小春さんを起こし、静寂な部屋に鍵をかけて街へと繰り出した。
小春さんのために出来る事を、ひとつだけ見つけたかもしれない。
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