第19話 回り道


 校門をくぐるまでは、良かったと思います。


 いつも通りの時間に起きて、いつも通りに通学する。学生という身分を授かってからほぼ毎日のようにこなしてきた、日常のルーティン。その歯車が狂いだした原因がなんなのか、私にはとんと見当がつきませんでした。


 心当たりが多すぎるのです。


 生まれながらにして体は弱く、小学校低学年の頃には寒暖差によるアレルギーをわずらっている事が分かりました。命に関わるような病気ではないよと白髪の目立つお医者さんは言ってくれましたが、問題は別の所にありました。


 欠席が増えた同級生のことを、周囲が放っておくはずがありません。


 子供ながらに私は「ずる休みだ」「先生、小春ちゃんだけずるい」と言葉の石をぶつけられ、そのたびに心が重たくなっていったのを覚えています。


 ――自分ではどうにもできない、どうにもならない事で休むのは、どうやらいけない事らしい。


 肩身の狭くなった私はみんなとは別の中学を受験し、受かります。これで石のような心に、羽が生えたように軽くなる。


 しかし、そう上手くはいかないのが現実というものです。


 私が受験した中学は、ほとんどが同じ小学校から繰り上がってきた子供たちでした。

 グループは既に出来上がり、数える程度にいた私と似たような同級生たちも、もうその子達同士で仲良くなっていたのです。会話は――うまく、できませんでした。


 波長や感性が合わず、人に合わせようとしても難しくて、それが余計にぎこちなさを際立たせる。


 そうですね。

 大丈夫です。

 ありがとうございます。


 みっつの言葉しか話せない私がみんなから遠ざかってしまうのは、至極しごく当たり前のことでした。頭の中ではぐるぐると、絶えず言葉が浮かんでくるのに。


 その他大勢に分類されながら過ごした中学校。

 高校生になった現在の私も、学校ではおおむね変わりありません。


 さすがに語彙ごいは増やしましたが、当たり障りのない事しか話す気にはなりませんでした。


 ですがある時、ふと思います。


「……あら。あなたはたしか……」

「おはようございます。二年生の、槇島まきしま小春です」

「どうかした? ホームルーム、もうすぐ始まるけど」


 教室から、私がいなくなったらどうなるんだろう。


 深刻な事を考えていた訳ではありません。言うなればこれは、子供が抱くいたずら心や好奇心のようなものでしかなく。


「しばらく、保健室に通いたいです」


 教室に足が動かなかった日。

 そこから始まった、保健室登校の日々。


 あの時はただ魔が差しただけなんだと結論づけようとしたその日に、私は出会ってしまいました。


 自分と同じく、レールを外れてしまった人間に。




「私は、教室に戻らないといけないのでしょうか」


 それが小春さんの抱えている命題である事は、問いかけるまでもなく分かった。


 ゆくゆくは教室に戻らなくてはいけない。


 けれどたった今口にしたような疑問が浮かんでいるという事は、心のどこかで拒んでいるのではないだろうか。正論と疑問はせめぎあい、彼女の中でどうしようもない矛盾に置き換わる。


「困りましたね。どうしましょうか……」


 容器に飲み物はすでに無く、ストローが空気となけなしの水分をすすっている。フタを外してこびりついたクリームをかき集めようとしたところで、小春さんはため息をついてやめた。


 語られた過去を咀嚼そしゃくしながら、僕は視線を落としたまま相槌を打つ。


 小春さんにかけるべき言葉は、いったい何が正しいのだろう。


 これまでの人生で堆積した砂の中に、はたして答えは眠っているだろうか。いいや、そんな事はまだ十何年かしか生きていない僕には分からない。


 けれど「戻った方がいいよ」だとか、「このままでもいいと思う」だとか、そんな月並みで投げやりな言葉をかける事だけはどうしてもしたくなかった。小春さんの中には、僕がいる。


 そして彼女の力になりたいと思ったのは、きっともう友達だからではなく――


「……僕も、そうだった」


 テーブルの向かい側、からっぽの容器に落とされていた視線が持ち上がる。


「小春さんにあったあの日は……僕も急に、悪いことがしたくなってた」

「……時生さんも」

「あの時は手を引いてくれてありがとう、って、お礼はもう言った気がするけど。あれからいろいろ、吹っ切れたなって思うこととか、気付けた事もたくさんあって……だから今度は、僕から誘うよ」


 僕は励ますよう笑みを作り、


「明日は丸一日、学校をサボろう」


 小春さんの目に驚愕の色が満ちる。


「まじですか」

「うん、おおまじ。好きなように過ごして、一緒にやりたいことをして……気分が晴れたら、何かが変わるきっかけにはなるのかも」


 教室に戻ることと、保健室登校を続けること。一般的な常識で考えれば正しいのは前者であったが、人の抱えている問題は正論で片付くほどシンプルじゃない。


 何より僕は、いや僕たちは、そんなものを振りかざせるほど真面目な人間ではないだろう。


 いつの日か、クラスメイトに言われた言葉が頭をよぎる。


 小春さんは変な子だけれど――僕だって、“そういうキャラ”なのだから。


「……逸材を発掘してしまいました。まさか時生さんが、そこまでのワルだったとは」

「それ、この間クラスメイトからも言われた」

「であれば、この道に引きずり込んだ責任を取らねばなりませんね。私がボスなら、時生さんはサブボスです」


 小春さんの表情にともる、柔らかな笑みに笑い返す。僕らは空になった容器を捨ててカウンターへ、同じ注文、同じ席に着いて話を再開する。


 明日を如何いかにしてサボろうかという、世にもちっぽけな密会が始まった。

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