第18話 急に、悪いことがしたくなった


 終業のチャイムが鳴り響く。


 ぼんやりと間延びした音はあくびのようで、教室に開放的な空気が広がっていく。六限目が終わればあとは掃除、それから帰りのホームルームを経て放課後。ある意味、一日の中でもっとも活気づく時間帯だ。


 生徒用玄関の掃除を任されていた僕は年季の入ったほうきを片手に、チリやホコリを掃き出していく。


 じき五月になろうかという頃ではあったが、時折、外から吹きこんでくる風はかすかに肌寒い。先週は夏のように暑い日もあったというのに、春の印象がどっちつかずに染まっていく。


 冬と夏に挟まれたこの季節は、年々肩身が狭くなっているように感じられた。


 下校中に眺める空はまだ明るく、夕方と呼ぶには少し早い。


 スマホがあればすぐ連絡を取り合えるのに――ないものねだりを踏みつけて、僕はまっすぐ駅中にあるカフェへと急いだ。


「……あっ」


 淡い金髪に薄水色の、ワンピースのような制服のシルエット。絶え間なく人が行き交う構内でも、その特徴的な輪郭は色褪いろあせない。


 小春さんはカフェ近くにある柱に寄りかかりながら、スマホに落としていた顔を上げる。ぶつかった視線に僕は軽く手を上げて応え、


「もしや海外の方ですか?」


 ななめ上の切り口に思わず聞き間違いを疑った。


「日本人です。……でも、なんで?」

「ここへ来るまでに三回、海外の方に道を聞かれました。みんな別の国の方です。それでちょくちょく呼び止められるのに腹が立ったので、全員牛丼チェーン店の方に案内してやりました」

「はた迷惑が過ぎる……でもなんていうか、災難だったね。いろんな意味で」

「まったくです。全員が口をそろえて『牛丼屋はどこですか?』と聞いてきたので、やむをえず……」

「逆だったよ小春さん。やる事なす事ぜんぶ親切で驚いてるよ、僕は」


 不服そうな表情を浮かべていたが、むしろどこに気に食わない要素があったのか。それは見事なまでの道案内を務めた、小春さんにしか分からない。


 カフェに入って飲み物を注文する。


 小春さんは相変わらず期間限定のドリンク――今回はマンゴーと柑橘系を組み合わせたフラペチーノらしい――を頼み、僕はいつも通り抹茶のフレーバーが含まれたドリンクを。時間帯も手伝ってか、店内には学生の姿が目立つ。


 なんとなく事情が伝わっている四ノ宮さんはともかく、もしかしたら長田くんがいるのでは――自意識過剰に負けて視線を巡らせてみたものの、幸いそれらしき姿は見当たらない。二人とも部活動の最中なのだろう。


「おや、あれは時生さんと同じ制服」


 肩が跳ね上がりそうになる。


 しかし小春さんの視線の先を見ればなんら面識のない、クラスか学年が違うだけの生徒が談話しているだけだった。


「……びっくりした」

「一方私たちは、お互い他校の生徒同士。なんだか密会している気分になりますね」

「場所的にかなりオープンだけどね……」


 壁や衝立ついたてのように、僕らと周りを隔てるものはなにもない。強いてあるとすればガラス窓ぐらいなものだが、それも外からは見え放題だ。


 心地の悪い緊張感を味わったところで、ドリンクを含んで息をつく。テーブルの向かい側ではクリームと、柑橘系特有のビタミンカラーがストローで攪拌かくはんされてゆく。


 混ざり合った白とオレンジは夏を先取りしたような色合いを作り、僕は窓の外を一瞥いちべつして言葉を置いた。本題には、まだ踏み込まないまま。


「小春さんは体調、崩さなかった?」

「特に何もなくといった感じですが」

「そっか。僕は風邪で一日寝込んでたから心配になって――」


 小春さんが飲もうとしていたドリンクから口を離し、


「それはお大事にしてください。もし体調がすぐれないようなら、日を改めますが……」

「ああいや、もう大丈夫だよ……! 薬飲んだし、全然平気だから」

「まじですか?」

「まじです」

「まじはまじでも、なまじは許すまじですが」

「そんなまじまじと見つめなくても……本当に、本当だから……!」


 僕の顔色を見て判断しようとしているのか、小春さんは一言発するごとに顔を近づけてきた。


 そのたびに背中に感じる背もたれの感触がきつくなっているのだが、同時に童顔の整った顔立ちが、これでもかと言わんばかりに視界に飛び込んでくる。


 陶磁器のように白い肌、うさぎのように丸くて綺麗な黒い瞳。


 至近距離で見る小春さんの表情はいつになく真剣で――


「……信じるゲージが最大になったので、信じます」

「それって、顔を近づけないと溜まらないやつだったりする?」


 すっと元の位置に戻った瞬間、忘れていた呼吸を思い出す。


「どうでしょう。でも自分のせいで誰かが怪我をしたり、具合を悪くしてしまうのを見るのは嫌いです」


 自分が傷つくことよりも、誰かが傷を負うことに耐えられない。そこに共感を覚えてしまったのは、決してご機嫌取りの為ではないと信じたい。


 小春さんの体を抱えて雨の中を走っていた時――心の奥底では僕も、似たようなことを考えていたから。


「そういえば、クーポン券の裏は見ましたか?」


 ゆったりとしたリズムのジャズからボーカル入りの洋楽へと、店内の音楽が切り替わる。時生さんに話したいことがあります。小春さんに会いに来たのはもちろんその内容を聞くためであったが、危うく忘れかけていた。


「うん。それで……僕に話したい事、って言うのは?」

「保健室登校と、それに関わる話です。前にもちらっとだけ話した気がしますが」


 覚えていた。記憶違いでなければ、その話をしてくれたのはたしか初対面の時だった記憶がある。


 と言っても、それこそちらりと単語をこぼされただけだったので、深くは掘り下げていなかったはずだ。小春さんは口を湿らせる程度にドリンクを含んでから、


「私の学校では保健室登校が出席扱いにならないのです。なので、ゆくゆくは教室に戻らないといけません。もし留年になったら一大事ですから」

「そうだね……何か、戻れない理由があるとか?」

「いえ。戻ろうと思えば、たぶんいつでも戻れるのだと思います」


 小春さんらしからぬ歯切れの悪い言葉に、僕は返答にきゅうしてしまう。


 病弱、寒暖差アレルギー。保健室登校になったきっかけとしてはどれも妥当であろうはずなのに、なぜだか今は、すべて的を外しているように思えてならない。


「私が保健室登校をしている理由……“何となく”だと言ったら、驚きますか」

「何となく、って……」


 空から降る隕石のように言葉が胸に落ちてくる。さらに小春さんは、いまひとつ要領を得ていない僕にこう続けた。


「よりわかりやすく言うのであれば――。そんな感じになるのでしょうか」


 急に、悪いことがしたくなった。


 頭を殴られたような感覚だった。その言葉は鉛のようにやたらと重い既視感を引き連れていたが、まさか忘れるはずがなかった。


 なんとなく学校に行きたくなくて。

 なんとなく歩くスピードを送らせて。

 結果的に僕は、学校を半分サボった。


 小春さんもあの日の僕と一緒だったのだ。


 僕らは互いにレールを踏み外し、日常から遠ざかろうとした経験がある。遠ざかったからこそ、今、こうして出会えている。


 溶けかかったクリームはストローを動かすだけで、簡単に抹茶と混ざり合った。

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