第11話 集団心理が傘をさす


 普段のユニークな言動が、行動に表れたというだけならどんなに良かっただろう。


 体を揺すりながら小春さん、小春さんと、特に二度目は強めに呼びかけたが反応がない。頬には髪が張り付いて、伝い落ちる汗が僕のつま先を濡らす。かすかに開けられた唇は言葉を紡ぐためではなく、ただ弱々しい呼吸を繰り返す為に動いている。


 その吐息と同じくらい、ともすれば気のせいかと勘違いするほど弱い力が、僕の腕にしがみついていた。


 今にも遭難してしまいそうな意識を、必死で繋ぎ止めるかのように。


「……ちつけ」


 落ち着け、落ち着け、落ち着け。

 ここで僕まで慌てたら、小春さんはどうなるんだ。


 今、自分がやるべき事なんて――ひとつしかないだろうが。


「きゅ、救急車呼ぶから……! そのまま掴まってて!」


 はっと息を吐きだし、つとめて冷静に思考を切り替える。救急車なんてそんな大げさな。冷笑する自分を頭から追い出して、僕は震える指先でボディバッグのジッパーを開ける。力がうまく入らない。


 手が汗ばんでいたせいで何度か掴み損ねたが、底の方で眠っていたスマホをようやく取り出すことができた。


 119、119――空から落ちてくるしずくが液晶画面を冷たく濡らす。こんな時に、うっとうしいんだよ。


 キーパッドに頭の中で反芻はんすうしていた数字を打ち込めば、すぐに電話がかかるはず。


 わらにもすがる思いで発信ボタンを押そうとしたその時、


「っ――!」


 一瞬なにが起きたのか理解が追い付かなったが、手元を見れば明白だった。


 スマホが、ない。


 肘に後ろを歩いていた通行人の腕がぶつかり、滑るようにして僕の手から逃げてしまったのだ。通常であれば、ああもたやすく抜け落ちたりはしないだろう。しかし発汗と雨に濡れた手では、少しの不可抗力にも抗えない。


 急いで取りに行かなくては。

 柵を越え、道路に突っ伏したスマホが雨ざらしにされている。拾うためにと踏み出した一歩は、そこで止まった。


「うわっ!?」


 無慈悲に通り過ぎていく轟音の前に、僕はあまりに無力だった。


 水を切りながら悠々と走り去っていく大型のトラック。クラクションを鳴らされることも無く、それはまるであざ笑うように、事も無げに、路傍のスマホを物言わぬガラクタに変えてしまった。


「っ、あ、あの。すいません……!」

「――――」

「すみません、ちょっとの間スマホを貸してほしくて……! 今、大変なんです!」

「――――」


 きらきらと、砕け散った液晶が街の光を反射している。他人から見たら、僕の姿はどんなふうに映っていることだろう。


 誰彼構わず声を掛け、人を惑わそうとする新手の詐欺師か。それとも不幸を装って同情を誘い、あまつさえ女の子を使って目を引こうとする、滑稽こっけいな若者か。焦燥感の見せる幻影が心を刺す。


 駄目押しとばかりに強く降り始めた雨も、傘に顔を隠したまま立ち止まらない人たちも――今の僕には、何もかもがたちの悪い皮肉に思えてしかたがなかった。


 けれど、


「くそっ……!」


 を責める資格を、僕が持ち合わせているはずがない。

 あの人たちは、僕自身だ。


 黒、紺、雨粒を乗せたビニール傘。誰もが顔を隠していて、誰もが見ないフリをしている。


 必要がなければ何もしない。

 誰に対しても、どんな事柄に対しても。


 ずっと思ってきた事じゃないか。

 そういう風に人と接してきたじゃないか。


 そんなことを、初対面の女の子に打ち明ける奴がどこにいる――ここに、いる。


「……けほっ、けほ……」

「大丈夫、小春さん……!」


 厚顔無恥にも程があるし、大丈夫じゃないと分かっていても、口に出さずにはいられない。小春さんを雨からかばいながら、僕は横断歩道の前で止まる。


 向こう側に見えるアーケード街には屋根がついている。これ以上、負担をかけさせる訳にはいかなかった。


「っ、ごめん! ちゃんと掴まってて!」


 小春さんの体を両腕で持ち上げ、正面で抱きかかえるような姿勢になる。こうすれば僕の体を傘代わりに出来るから、小春さんが濡れる面積を減らすことができる。


 信号が赤から青に切り替わった瞬間、僕はのろのろと動き出す人波を飛び出した。


 小春さんが体調を崩した原因はなんなのだろう。


 足を動かし、酸素を肺に回しながら頭も回す。少なくとも今日会ったばかりの頃には――あくまでも僕の主観でしかないが、不調には見えなかった。だとすると原因は、僕と行動を共にしてからのどこかにある。


 カラオケに行き、昼食を食べ、街を散策した後に猫カフェへ向かう。記憶を順にさかのぼり、行動を逐一思い出していく。


 ふと視界の端を、洋食店の店先に置かれた看板がよぎった。


「……アレルギー……」

 

 “食品等にアレルギーがある場合は気軽に店員にお申しつけください”。


 何故だろう。ありふれた洋食の写真よりも、隅っこの方に添えられた一文に目がとまる。


 小春さんが何らかのアレルギーを抱えている可能性。たとえば昼食に食べた中華料理の具材や、さっきまで触れ合っていた猫に対してそういった症状が出たという話であれば、経緯としては納得できる。


 しかし仮にそうであるなら、小春さんは僕か店員のどちらかに、あらかじめそのむねを伝えていたのではないだろうか。


 入店前後の段階で、申告する時間も余裕も十分にあったはずなのだ。なのにあえてそうせず、アレルギーのあるものを摂取する。あるいは触れてしまうような危険な真似を、常識的に考えてするとは思えない。


 もっと単純に、熱や風邪であるという可能性も――


「っく、やっばい……!」


 アーケード街をしばらく走ったところで膝をつく。息が苦しい。腕と足腰が悲鳴を上げている。帰宅部の、スーパーで品出しのバイトをしているだけの人間の体力などたかが知れている。


 途中、どこか寄れそうな診療所があればと周囲を見回してもみたが、それも奏功そうこうしなかった。土日ではほとんどの医院が閉まっている。


 夕方過ぎともなれば、営業日だったとしても閉まる頃合いだろう。


 小春さん、小春さんしっかり――呼びかけても依然、か細い呼吸を繰り返したまま。幸いにも体はあまり濡れておらず、アーケード街に入ってからは咳の頻度も減りつつある。それでも、安心できるはずがなかった。


「……なんなんだよ……!」


 無関心に連なる傘の集団に、いまさら苛立ちが湧いてきた。せめてこんな時くらい助けてくれてもいいだろうに。虫が良すぎるのは分かっているが、だからといってやり場のない怒りをこらえることは出来なかった。


 休んでいる暇なんてない。

 体に鞭を打って再び立ち上がると、


「ねえ」


 背後からした声に僕は肩を跳ねさせた。


「……うちの店、いてるけど使う?」

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