第10話 素顔


「もしかして気、遣ってくれた?」


 徐々に空席が目立ち始めた店内で小春さんに問いかける。


 お昼ご飯にと立ち寄ったのは、駅近くにそびえ立つ大きめのショッピングモール。その一階にたむろする飲食店の、中華料理のお店だった。


 小綺麗で洒落しゃれっ気のある内装に惹かれてか、店内には女性客がやや多い。僕らの手前にあるタンメンは見映えよく具材が盛り付けられていて、小皿にはセットで小籠包しょうろんぽうも付いてきた。


 タンメンの方はいわゆる“映え”を気にしたような見た目だが、小籠包ともども味は良い。


「はて、その心は?」


 小籠包のスープをすすっていた小春さんがきょとんとした表情を浮かべる。


「いや……だってお昼どこがいいって聞いたら、“あっちの牛丼屋さんか、こっちの立ち食い蕎麦そば屋さんがいいです“って言うもんだからさ」

「どちらもお財布に優しくて、すぐにご飯が出てきます。美味しいですよ。メニューも豊富なので、時生さんも気に入ると思います」


 ――参ったな。


 トッピングはコロッケとごぼう天がおすすめです。黒く純粋な瞳は少しも揺らがず、僕の懐事情を気にしているようにはまったく見えない。


 たぶん本心から提案してくれたのだろうが、結論から言えば小春さんの希望を叶える事はできなかった。


 安くて、美味しくて、早いお店とくれば、休日の労働に勤しんでいるサラリーマンたちが黙っていない。昼食時のもっとも混雑する時間帯も手伝って、どちらのお店もほぼ満席だった。


 仮に空いていたのだとしても、はたして小春さんの提案に首を縦に振れていたかと問われれば怪しいところだ。わざわざ女の子といる時に、落ち着かないファストフード店でご飯を済ませていいものなのか――


 葛藤かっとうを拭いきれなかった僕は、体裁ていさいを気にして結局この店を選んでしまった。


 僕は野菜を絡ませた麺をすすってから、


「このあいだ話したと思うけど、僕、バイトしてるんだ。言い方アレだけど、お金なら余裕あるから……その、懐の心配はしなくていいよ?」

「あっ――」


 ぽん、と手を叩き、しかしすぐ小春さんの表情にいぶかしさが差す。


「ですが私は、牛丼もお蕎麦も好きなので。特にお財布事情を気にしたわけではありません。……好きなものを、時生さんと一緒に食べたかっただけです」


 好きなものを一緒に食べたい。

 その言葉に、僕はわかりやすく心を動かされた。


 同時になんて無粋ぶすいなことをしたんだろうと、後悔の念に駆られてしまう。知らない誰かのものさしではなく、小春さんの希望に沿うべきだったのだ。


 胸につっかえた思いが食べ物の味を濁らせる。僕は水を含んでどうにか飲み干し、小春さんに問いかけた。


「なんだっけ……ほら、小春さんが好きなやつ」

「コロッケか、ごぼう天が乗ったお蕎麦です。牛丼なら普通の並盛がいちばん」


 コロッケか、ごぼう天のそば、牛丼並盛。

 教えてくれた好物を、まだ熱の残る小籠包ごと噛みしめる。


「わかった。じゃあ今度、いっしょに食べに行こう」


 会計を終えて外に出ると、煌々こうこうとそそぐ陽射しがアスファルトを焼いていた。


 空調の効いた屋内でくつろいでいた分、内と外の気温差が如実にょじつに肌で感じられる。本当に、今が春なのかと疑いたくなってしまう。


 正午を越えてなお太陽は輝きを増し、季節を勘違いした暑さにため息をつきたくなるのは、僕だけではないはずだ。


「小春さん?」


 日影を出て、すぐのところで立ち尽くしていた小春さんへ振り返る。


「どうかした?」

「あ、いえ。なんでもありません」

「……暑いからね。日影、歩こうか」


 僕たちは横並びになり、建物や街路樹が作り出す日影を歩いてゆく。


 意識せずとも足は勝手に進んでいくが、歩くスピードには多少気を遣う必要があった。マイペースに歩き続けていると、歩幅の違いから小春さんとの距離が開いてしまう。


 立ち寄った喫茶店で飲み物をテイクアウトしてから、僕たちは行き先のない散歩を楽しんだ。


 可愛らしい小物や文房具が並べられた雑貨店、ショーケースに飾られた、いかにも高そうな靴に惹かれて入った靴屋。細い路地へ入ればライブハウスがあり、ギターケースを背負った人たちが入り口で談笑していた。


 その近くに独特な雰囲気を漂わせたアパレルショップを見つけると、小春さんは尻込みもせず敷居を跨いでしまう。個人経営のお店なのだろうか。


 中に入ればエスニックな柄をあしらわれた服の数々が、所狭しと並んでいた。


「むっ。このお店は……」


 ゴミ箱に飲み物の容器を放り込んだところで、小春さんの琴線が反応する。今度は何を見つけたのだろう、興味の先に同じく視線を向けてみる。


「……猫カフェ。新しくできたお店っぽいね」

「いざ参らん」

「うん」


 このフットワークの軽さを見ていると、見たこと触れたことのないものに二の足を踏んでいた自分が馬鹿らしく思えてくる。


 二つ返事で階段を上り、ビルの二階へ。店内はあたたかみのあるモダンチックな照明で照らされ、植物で飾られたシャンデリアが非日常感を演出。木目を基調とした内装に、ガラス窓から見える景色が解放感を与えている。


 まず、猫が自分から近付いてくるのを待つこと。


 それから接するときはしゃがんだり座ったり、姿勢を低くして安心感を与えること――店員さんから基本的なルールや説明を聞き終わると、いよいよ猫と触れ合う時間がやってくる。


 小春さんは僕の鼻先でねこじゃらしを振りながら、


「トキ、おいで」

時生ときおだよ」

「なるほど。こんな感じで接すればいいと」

「……そうだね。でもトキって名前の猫はいないから、気を付けてね」


 リハーサルの相手を務めている間に、小春さんのもとへさっそく三匹の猫がやってきた。体格はみな小柄で、人懐っこそうな雰囲気を漂わせている。


「出ましたね曲者くせもの

「小春さん、言い方。ええと……左からるる、ララ、だいず、だっけ」

「アビシニアン、ロシアンブルー、ブリティッシュショートヘア……」

「品種もう覚えたんだ? さっき聞いたばっかりなのに」

「敵を知るにはなんとやらと言いますので。ほーらほら、食い付くがよい――」


 方向性のわからない敵対心はさておき、小春さんは猫たちにすこぶる人気だった。


 ふりふりとねこじゃらしを振るい、膝を借りている猫もおろそかにしない。彼女の周りには入れ替わり立ち代わり猫が訪れ、いつしか猫が途切れない、サイクルのようなものが出来上がっていた。


 勝手な思い込みではあるが、雰囲気的に小春さんは動物に好かれやすいだろうなと思っていたから、今の光景に違和感はない。


 他方、僕はというと、その対極とも言える現状に苦々しさを隠せずにいた。


「あっ……すぐ他に行っちゃうな……」


 そういう風にしつけられているのだろうかと疑いたくなるほど、猫たちが僕のもとにいる時間は短い。少し撫でてはきびすを返し、また次の猫が来たと思っても、やはり同じようにすまし顔で踵を返していく。


 撫で方か、あるいは手持ち無沙汰なのがいけないのかもしれない。


 考えた僕はおやつ――いわゆる“カリカリ”と呼ばれるキャットフードを購入して、皿に盛られたそれを自分の傍に置く。


 ついでにスプーンも渡されたので、お腹を空かせてやってくる猫たちに食べさせてあげる事にした。途端、ぞろぞろとやってくる猫たちに思うところはあったが、これはこれで悪くない。


「小春さんは懐かれやすいんだね」


 キャスケットに猫を入れて遊んでいた小春さんがこちらを向く。どうしてか、遊ばれていた猫まで僕の方に振り向いた。


「僕は少し背伸びして、それでようやくって感じ」

「良いではありませんか。容赦なくカリカリに手を染められるダーティな魅力、私的にはありよりのありですが」

「そのねこじゃらしはクリーンなんだ……」スプーンの持ち手側を差し出し、「やる? 小春さんも」

「いっぱい買収します。それから――」


 ずらされた視線が僕の背後を指し示し、


「時生さんも、人の事は言えないかと」


 言われなければ気付かなかっただろう。


 すぐ後ろを見てみると、まるでうさぎのように真っ白な毛並みをした猫が、気持ちよさそうに眠っていた。




 二人で過ごす時間は時が経つのも忘れるほど楽しくて。

 だから僕は、移り変わる空の色にも気付けなかった。


 夕暮れ時のオレンジが、本来であれば夜の闇に染まろうかという時間帯。時折吹き込んでくる冷たい風が運んできたのか、空は重たげな雲で覆われている。


 日中降り注いでいた陽射しも、遮られれば気温が下がるまで時間はかからなかったことだろう。昼間の暑さが嘘のようだ。猫カフェを出る時にそろそろ帰ろうかという話はしていたが、今いる場所から駅のバスターミナルまではやや離れている。


 歩いて十分か、十五分か。頭の中で勘定している時だった。


「……小春さん?」


 小春さんの頭が肩に触れる。

 体ごと寄りかかり、柔らかな手が腕を掴む。


 たわんだ髪から甘い香りがふと漂い――しかし、幸福な勘違いを挟める余地はつゆほども残されていなかった。


「――けほっ、けほっ……! っはぁっ……はぁー……」


 紅潮した頬に、浅く、細長く繰り返される呼吸。突風がキャスケットを奪い去り、隠された素顔を暴き出す。


 ――冗談だろ。


 心臓の奏でる警鐘が、うるさいくらいに響いていた。

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