逃げ道
その日の夕方、外がうっすらと暗くなり始めた頃だった。
ストーブの上で湯が静かに鳴り、部屋にはかすかな金属音が満ちている。
そんな中紗妃は床に座り、不要だと判断した紙類を一枚ずつ封筒にまとめていた。
明細、古いメモ、意味を失った連絡先――今となっては、持っていても足取りを残すだけのもの。
「……これ、捨てるね」
「うん。見られて困るものは、全部」
沙夜は短く答え、ゴミ袋の口を縛る。
動作は淡々としているが、どこか慎重だった。
まだいつ引っ越すか決まったわけでもないのに、自然と二人は動いていた。
その時、パソコンの電源ランプがふっと点滅した。
二人の動きが、同時に止まる。
「……通知?」
紗妃は反射的に立ち上がり、画面を確認する。
新着メール。差出人は、高岡だった。
「来た」
その一言で、沙夜も察したように近づいてくる。
二人並んで画面を見る形になり、紗妃はゆっくりとクリックした。
「高岡だ。
進展があったから、報告する。
まだ確定じゃないが、候補が一つ出てきた。 東北の地方都市だ。東京からは距離があるし、組織の勢力も薄い。
表向きは、親戚名義の空き家という扱いになる。家賃はほぼかからない。その代わり、表に出る活動は最小限だ。
問題は時期だ。
ちょっといろいろと面倒があってな、早くても1ヶ月は先になる。
もちろん、それまでの生活とか安全は保障する。
だが……まあ、詳しい話は直接したい。
日常は、改めて連絡する。
覚悟はいいか?」
読み終えた瞬間、部屋の空気が変わった。
「……1ヶ月」
紗妃が、かすれた声で言う。
「思ったより、早く決まったわね」
沙夜はそう言いながらも、驚いてはいなかった。むしろ、想定していた未来が一段現実に近づいた、という顔だった。
「東北……寒いところよね」
「そうだね」
紗妃は、無意識に窓の外を見る。
雪はもう降っていないが、空気の白さは残っている。
この先、もっと寒い場所へ行くことになるのだろう。
「でも……東京よりは、静かそう」
「何だったら、静かすぎるかもね」
沙夜はそう言ってから、少し間を置いた。
「でも、それでいい。今のあたしたちには」
紗妃は、胸の奥に広がる感覚を言葉にできずにいた。
怖さもあるし、不安もある。だが、それ以上に――逃げ道が形になったことへの、奇妙な安堵があった。
「……返事、どうする?」
「決まってるでしょ」
沙夜は迷いなく言う。
「行くって言う。それ以外、もう選ばないって決めたんだから」
紗妃は、ゆっくりとうなずいた。
キーボードに手を置く指が、わずかに震える。
「私が返事、返すね」
短く息を吸い、文字を打ち始める。
「紗妃です。 進展、ありがとうございます。
姉と話しました。 その場所で構いません。
時期が1ヶ月先でも大丈夫です。
その間に、引っ越しに必要な準備を進めます。
直接会う件も、了解しました。連絡を待っています」
……送信。
画面に「送信完了」が表示されると、紗妃は大きく息を吐いた。
その手は、細く震えていた。
「向こうに行ったら、もう戻ってはこれないんだろうね」
ぽつりと、そう言う。
沙夜は否定しなかった。
その代わりに、静かに言った。
「最初から、戻る場所なんてなかったのよ」
その言葉は冷たいはずなのに、不思議と紗妃の胸を軽くした。
二人はしばらく、何も言わずに並んで座っていた。
逃げる先が決まり、動く期限が見えた今、考えることは山ほどある。それでも、不安だけに飲み込まれることはなかった。
「……ねえ、姉さん」
「なに」
「向こうでもさ……一緒に、生きようね」
沙夜は、ほんの少しだけ笑った。
「当たり前でしょ」
外では、街の灯りがひとつ、またひとつと点いていく。
この部屋で過ごす夜は、もう多くない。
だが、二人はまだ、ここにいる。
そして――次に進む準備を、確かに始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます