伊崎の家へ
二日後の夕方。
まだ日が沈みきらない青い空の下、沙夜は鏡の前で髪を整えていた。
メイクはしない。いつも通りの顔でいい。
いや、むしろそのほうが警戒されにくい。
服も普段着に近い。
地味すぎず、派手すぎず。ただの客嬢上がりに見える、絶妙なライン。
だが、心の中は落ち着かなかった。
胸の奥で、何かが小さく脈打っている。
「……行くしかないんだよね」
ぽつりと呟いた声は、自分でも驚くほど疲れていた。
そのとき、隣の部屋から紗妃の足音が聞こえた。
ドアが開き、顔を覗かせる。
「姉さん、今日……遅くなるの?」
沙夜は振り返らず、鏡越しに妹の顔を見る。
紗妃は不安そうに眉を寄せている。
胸が少し痛んだ。
「うん、ちょっとね。仕事みたいなもん」
「……危ないことじゃない?」
沙夜は笑ってみせる。
いつも紗妃に見せてきた、“大丈夫だよ”という顔。
「危なくないよ。軽いもんだから。すぐ帰る」
紗妃はそれでも心配そうに、指先をぎゅっと握りしめている。
沙夜は近づき、その手を包んだ。
「ねえ紗妃……あたしのこと、信じてる?」
「うん……信じてるよ」
「なら、大丈夫。ちゃんと帰ってくるから」
紗妃が小さく指先を震わせているのを、沙夜は見ないふりをした。
それから、二人はほんの数秒見つめ合った。
姉妹にしかわからない、沈黙の会話がそこにあった。
——守る。絶対に、帰ってくる。
沙夜自身がそう心に刻むように、深呼吸をして立ち上がる。
「行ってくるね」
「……うん。気をつけて」
紗妃の声は、いつもより少し震えていた。
夕方から夜へ移り変わる街を、沙夜はひとり歩いていた。
ネオンが灯り始め、車のライトが地面を流れる。
歩きながら、ポケットの中の写真を指でなぞる。
伊崎圭吾。
笑顔は優しげだが、その奥が読めない。
“ヤバいもの”……高岡はそう言った。
いったい何なのか。
武器か、金か、薬か、それとも別のものか。
胸がざわつく。不安と、別の何かで。
それは恐怖でもあり、同時に得体の知れない期待でもある。
変わりたい、変えたい。
そんな感情が、胸の奥で絡まりあっている。
けれど、伊崎の優しい声が、ふっと頭の中で蘇る。
「俺は味方だからさ。君のこと、助けたいんだよ」
……人の助けなんかいらない。
人は所詮、いずれは裏切るもの。
優しさに惑わされ、ろくな目に遭ったことなんて一度もなかった。
利用する側に回らないと、こっちが飲まれる。
それが、彼女の考えだ。
沙夜は息を吐き、歩く速度を少し上げた。
約束の時間より五分前。
伊崎の家のあるマンションの前に辿り着いた。
想像していたより綺麗だ。
築浅で、外観だけで金持ちの匂いがする。
自動ドアが、静かに開いた。
エントランスの奥に、伊崎が立っていた。
白シャツに黒のコート。
仕事帰りなのか、ネクタイをゆるく外している。
「沙夜ちゃん、来てくれたんだね」
笑顔は自然で、優しい。
でも、沙夜の背中を冷たいものが流れた。
「お邪魔します。今日は、ありがとう」
「ううん。こっちこそ。上がって」
エレベーターの中、ふたりは並んで立つ。
狭い空間に漂う、伊崎の香水ではない生活の匂い。
会社員特有の、わずかな緊張と疲労の混ざった匂い。
……自分とは、えらい違いだ。
だが、こんなことで劣等感だの嫉妬だのを感じるほど、単純ではない。
ただ、ほんの少しだけ身体を固くした。
数字のボタンが光り、扉が閉まる。
上昇する感覚が、心の底をじわりと持ち上げる。
エレベーターの換気の音が、妙に大きく耳に刺さる。
心臓が、理由もなく一瞬だけ早く跳ねた。
——ここから先が、本番。
エレベーターが静かに止まった。
伊崎が「こっち」と言って歩き出す。
沙夜は、その背中を見つめながら一歩を踏み出した。
そして、伊崎の家の玄関の前に立った。
鍵の開く音が、妙に大きく響いた。
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