安楽死まで

三門慎治

第一章:人生の倦怠

 夜、冷え込んできた。


 春という名の詐欺がやってきて久しい。暦のうえでは桜の季節だというのに、実際のところは“冬の未練”と“春のやる気不足”が綱引きをしているような空模様だった。道端の雪は、すでにその義務を果たし終えたにもかかわらず、粘着質な未練で陰にへばりつき、じっとりと敗者の残臭を放っている。


 仕事を終えた私は、いつも公園を通って帰ることにしていた。これはべつに風流を気取っているわけでも、自然に癒されたいわけでもなく、単にこのルートが信号が少なくて楽だからである。が、夜の公園というのは、なぜか妙に“主張”が強い。


 中島公園というのは、札幌でも屈指の文化エリアらしい。場所はすすきののすぐ隣で、酔客と観光客がひしめくあの一帯から、ほんの数分で水と緑と文化の塊に辿り着く。夜は改めて酔客に、昼は観光客とコスプレ撮影会に相まみえることになる。


 公園内には、豊平館だの八窓庵だの天文台だの、真面目な名詞がこれでもかと並び、春には園芸市が開かれ、夏には神宮祭の屋台が軒を連ね、冬には歩くスキーで通路を往復させられる。おまけに池ではボートまで漕げる。文化、季節、レジャー、ぜんぶあり──ここに詰め込みすぎたのではないかと本気で思うが、私はというと、人生で一度もこれらに積極的に関わったことがない。


 「そのうち誰かと来よう」「恋人でもできたら来よう」などと理想的な未来を想定するだけして、実行フェーズに移行した試しが一度もないまま、かれこれ五年の月日が流れていた。


 途中の並木では桜の蕾がふくらんでいた。ライトに照らされているせいか、かえって意地でも咲くものかと踏ん張っているように見えて、なんとなく好感が持てた。そんな蕾たちを眺めながら、とりとめのないことを考えつつ歩いているうちに、いつの間にか木々の隙間から通りの明かりが滲み、信号の向こうにスーパーの看板が浮かんでいた。


 ネクタイの結び目を緩め、私はそのまま店へ向かう。今夜の目的は、たったひとつの命がけの任務──激辛麻婆豆腐である。


 豆腐は木綿一択。絹は柔らかくて味が染みない。ネギは白い部分だけ、香りと歯応えのコントラストが肝だ。にんにく、生姜はチューブではない。刻んで潰してこその仕事。挽き肉は合挽きでも牛でもなく、豚。脂の甘さが、唐辛子の火力を受け止める。


 そして主役たち──豆板醤、甜麺醤、花椒、唐辛子粉。いや、それだけでは足りぬ。唐辛子は四川の「朝天辣椒」に限る。舌の上で爆ぜる炎。私はその爆発の瞬間を愛している。


 買い物袋を肩に下げて帰路につく。マンションの廊下は妙に静かで、隣室からの物音ひとつしない。この沈黙の中を歩くと、まるで自分がこの世界の最後の住人になったような錯覚を覚える。そんなことを思いながら、自室の扉を開ける。


 部屋は相変わらず整っている。整っているが、誰かが待っている気配はない。もちろん、そんな者は初めから存在していない。


 Yシャツを脱いで洗濯機に投げ込み、エプロンを腰に巻いて台所に立つ。この瞬間だけは、誰かと繋がっているような錯覚ができる。己の舌と、香辛料との対話。これが私にとって、唯一の対人関係である。


 フライパンに油を敷き、花椒を軽く炒める。香りが立ちのぼる。喉がくすぐったくなり、くしゃみが出そうになるのを我慢する。そこへみじん切りにしたにんにくと生姜、輪切りの唐辛子を投入。油が音を立てて跳ねる。


 辛さは段階を踏むべきだ。第一の波、第二の爆発、そして持続する火柱。それを考慮して味付けを決める。豆板醤を溶きながら挽き肉を炒める。肉の色が変わると、甜麺醤の甘さが横から顔を出す。この甘さが、辛さに陰影を与えるのだ。


 豆腐を慎重に投入し、崩れないよう木べらで混ぜる。味見──舌が痺れる。まだ足りない。さらに花椒を追加、唐辛子粉を上からどっさり。赤黒い鍋がぐつぐつと煮える。


 最後にとろみをつけて、完成。


 食卓に向かう。テーブルの上には、真っ赤な麻婆豆腐と山盛りの白米。味噌汁などという気の利いた副菜はない。私はレンゲを手に取り、まず一口目を掬う。湯気の中から立ちのぼる刺激の香り。口に含む。舌の先がまず焼かれ、次に喉が火傷し、額にじわりと汗が浮かぶ。


 ああ、生きている。


 この瞬間だけ、私は確かに自分を感じることができる。だがそれは、あまりに短い。茶碗が空になるころ、胃の中は煮えたぎり、額の汗は乾き、私は再び「無」に戻る。テレビもつけず、スマホも見ず、ただ水を飲む。その水の冷たさすら、どこか現実味を欠いている。


 激辛料理に命をかける夜。それが私のささやかな日常だ。だがその日常の中に、ふと亀裂が入る瞬間がある。


 ──あぁ満足じゃ、このまま、終わってもいい。


 その思いが、いつから私の中に住みついたのかは定かでない。気づけばそこにいた。私はそれを誰にも話したことがないし、話すつもりもない。だが、この部屋の壁だけは知っている。私が黙って吐いた小さな溜息の数を、誰よりも正確に。


 食器を洗い、換気扇を切り、歯を磨き、部屋の灯りを落とす。ふと、まぶたを閉じる。目の奥に、さきほどの赤い料理が残像のように浮かぶ。火のように美しく、そして虚しい。


 ──明日も、作るのだろうか。

 ──明日も、同じ味がするのだろうか。


 私は何のために辛さを求めていたのか。味覚の限界に挑んだところで、人生の限界が延びるわけではない。


 それでも、明日が来るのなら。私はまた、あのスーパーで「朝天辣椒」を探しているのだろう。


 テレビはついていない。音楽も流れていない。ただ、冷蔵庫の低いうなり声と、自分の鼓動だけが耳に届いてくる。


 私はソファに倒れ込み、肘掛けに頭を乗せて天井を見つめる。蛍光灯の輪がじわりと滲み、視界に残像が焼きつく。少し目を逸らすと、部屋の隅の壁紙がうっすら剥がれているのが見えた。


 ──今日も、一日が終わった。


 この言葉には、奇妙な二重の意味がある。一日の終わりに発するべき安堵の呟きであるはずなのに、そこには安堵も達成感もない。ただ、消化不良のような曖昧な空白が残っている。


 私はスマホを取り出し、なんとなくロックを解除した。通知がいくつか溜まっている。ニュース、天気、通販サイトのセール情報、誰とも繋がっていないSNSの“おすすめトレンド”。


 指先で画面をスワイプする。動作は滑らかだが、内容は指を止めさせるほどのものではなかった。動画サイトを開く。サムネイルがずらりと並ぶ。どれも色がうるさく、文字が大きすぎる。叫んでいるようだ。誰に向かって?


 再びスワイプ。すると、不意に現れた通知が目を引いた。


 《あなたの“思い出”を見返してみませんか?──5年前の今日の写真です》


 AIが勝手に拾い上げた過去。私は指を止めた。好奇心ではなかった。ただ、他にすることがなかった。


 画面に表示されたのは、どこかの湖畔の風景だった。曇り空。波打ち際。手すりに寄りかかる誰かの背中。……いや、違う。誰もいない。ただ、水辺と、空と、木の影だけ。


 次の写真にスワイプする。そこに写っていたのは、自分だった。一人で、笑っていた。もしくは笑おうとしていた。観光地らしき背景と、持っていたと思われるカメラのリモコン。誰もいない場所で、自分を撮る。それは確かに私がしたことだ。証拠はここにある。


 だが──これは、“誰”だ?


 写真に写っている男は、今の自分よりも少し若く、少し細く、少し笑っていた。だが、その笑顔が空虚だった。いや、空虚に“見えた”のかもしれない。今の私の目には。


 たとえば、演劇で最後まで台詞をもらえなかった役者が、とりあえず口角を上げて幕を引くような──そんな作られた終演。


 私は画面を閉じた。手のひらに残った熱が、不快だった。


 スマホの光は強すぎる。部屋の中のどこにも影ができないほど明るく、だが心の奥には何も届かない。天井を見上げる。そこには蛍光灯と、先ほどよりも濃くなった残像と、剥がれかけた壁紙があった。


 私は深く息を吐いた。目を閉じた。


 ──このまま眠れたら楽なのに。


 けれど、眠気はこなかった。そのかわり、何かが自分の中で擦れあう音がした。ぴりぴりとした微細な違和感。言葉にならない、ざらついた感じ。


 「何かが変わってしまっている気がする」と思ったが、それが“いつから”なのかはわからなかった。私は再びスマホを開いた。無意識だった。


 今度は天気予報。明日の最低気温は六度。今夜は風が強くなるらしい。


 ──風、か。


 私は立ち上がり、上着を手に取った。風の音を確かめてみたくなった。部屋の空気が、どこか重たく感じられた。温度も湿度も不快ではない。照明も適度に落としてある。テレビの音もなく、スマホの画面はすでに閉じた。静寂のはずだった。なのに、呼吸が浅くなっている気がした。


 私は上着を羽織り、靴を履き、玄関を開けた。何かを考えたわけではなかった。理由があったとも思えない。とにかく、今この瞬間、部屋にいたくなかった。


 夜の空気はひんやりしていた。通りにはほとんど人影がなく、遠くの車のエンジン音だけが低く響いていた。街灯の光が歩道を照らし、アスファルトの表面がわずかに湿っているのが見えた。雨は降っていないが、空気には水分が含まれていた。


 私はコンビニに入り、無言で缶コーヒーを一本手に取り、セルフレジで支払う。ピッ、という音がやけに大きく響いた。外に出ると、さきほどより風が強くなっていた。


 公園へ向かう。子どもが遊ぶための滑り台やブランコ、丸い砂場。夜の闇に包まれて、どれも輪郭がぼやけている。誰もいない。あたりまえだ。時刻はもう十時を過ぎている。


 私はベンチに腰を下ろした。缶を開ける音が、しずかに夜気に溶けた。一口飲む。あまり温かくない。ぬるい。味も特別美味しいわけではない。だが、それでよかった。


 口に含み、喉を通す。夜の空気と缶コーヒーのわずかな苦味が、内臓を撫でていくようだった。


 ──たぶん、死にたいんじゃなくて、“終わってほしい”んだろうな。


 自然と、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。苦しみや悲しみを抱えているわけではない。誰かに恨みがあるわけでも、社会に絶望しているわけでもない。けれど、なにかが、ずっと、終わらないまま残っている気がする。その“なにか”が、私を少しずつ削っている。


 朝起きて、会社へ行って、仕事をして、帰ってきて、激辛料理を作って食べて、眠る。そんな毎日を繰り返して、何を得たのか。何かを失ってすらいないのではないか。あるのは、ただの空洞。


 公園の風は、冷たかった。といっても、凍えるような寒さではない。ただ、体の表面をなぞるような風。皮膚ではなく、心のほうが反応する。私はベンチに深く腰を沈め、缶を見つめた。


 ──缶コーヒーというのは、よくできている。ぬるくてもそこそこ飲めるし、甘さと苦さが中途半端で、ちょうど良いところに収まっている。私の人生も、たぶんそういうものだ。熱くもなく、冷たくもなく、甘くも苦くもない。ただ、そこにある。


 ただ、あるだけ。


 遠くで風の音がした。どこかで木の枝が揺れているらしい。スマホがポケットの中で微かに振動した。取り出す気にはなれなかった。今、この空気を壊したくなかった。


 しばらく、何もせずに座っていた。缶コーヒーは半分ほど残っていたが、手はもう伸びなかった。風が静かに吹き、街路樹の葉が微かに鳴る。遠くの住宅街から、かすかな笑い声のような音が流れてきた。たぶん、テレビかラジオの音だろう。実際の人の声には感じられなかった。


 ふと、足元で何かが動いた。視線を下ろすと、そこに一匹の猫がいた。灰色の毛並み。細く長い尾。影のように音もなく、するりと地面を這うように歩いている。猫は私の前を横切る。まるで自分の存在を誇示するようでも、遠慮しているようでもない。そして、一瞬だけ、こちらを見た。


 その目は、光を反射していた。街灯に照らされた琥珀色が、まるで人の目のように濡れていた。だが、そこに感情があるわけではなかった。好奇心でも、恐怖でもない。ただ、見ていた。


 「……なんだ、猫か」


 私は声を出した。反射的に。けれど次の瞬間、口の中でその言葉が引っかかった。


 ──いや、なんだろ。なんか、気になるな。


 猫は私から視線を外すと、再び足を進め、遊具の影へと消えていった。音は一切なかった。まるで最初から存在していなかったかのように、地面と同化して。


 私は立ち上がろうかと一瞬思ったが、やめた。追いかける理由も、呼び止める動機もなかった。ただ、胸の奥に、説明のできない引っかかりが残った。それはまるで、夢の中で聞いたことのある旋律を、現実のどこかで耳にしたときのような──懐かしいとも、恐ろしいとも言えない、だが放っておけない違和感だった。


 風が止んだ。空は変わらず曇っていたが、どこかで月が昇っているような気配があった。私はもう一度缶コーヒーを口に運んだ。すっかり冷えていたが、苦味だけは消えずに残っていた。


 帰宅したのは、日付が変わる直前だった。部屋に入ると、空気がやや暖かく感じられた。外気との対比のせいかもしれない。靴を脱ぎ、上着を脱ぎ、灯りを落とす。部屋の明かりはほとんど必要なかった。スマホの画面がすぐに目を照らすからだ。


 ベッドに横たわり、頭の下に腕を入れて天井を見つめる。さきほどの猫の視線が、なぜかまだ頭に残っていた。私はスマホを取り出し、無目的にロックを解除した。指が勝手にSNSアプリを開き、タイムラインがスルスルと流れていく。


 炎上、速報、話題の〇〇、グルメ動画、旅行キャンペーン、恋愛コーチの短文、幸福度チェック。──すべて、私には関係がない。


 指は無意識にスワイプし続ける。どれも似たような言葉、似たような表情、似たような色合い。背景の違いだけが情報の差分になっているような感覚。


 そのとき、不意に視界の端に一文が引っかかった。


 《スターダスト・ボヤージュ:終末を選んだ人のための、最後の宇宙旅行》


 指が止まった。画面にはその一行だけが、短く、だが不自然に白い背景に載っていた。クリック可能なリンクが埋め込まれているようだったが、私はそこに触れなかった。ただ、その言葉の組み合わせが、やけに耳に残る音をしていたのだ。


 ──終末。

 ──宇宙旅行。

 ──選んだ人のため。


 馬鹿げている。だが、ほんの少しだけ──ほんの、ひとかけらだけ、その文に“自分宛て”の気配を感じてしまったのだった。


 私はスマホの画面を閉じた。理由はわからなかった。ただ、何かが動き出すのが怖かったのかもしれないし、ただ眠気に負けただけかもしれない。


 ベッドの中は静かだった。部屋の奥で冷蔵庫が小さく唸っていた。私はまぶたを閉じた。その夜の夢の中に、誰も登場しなかった。ただ、灰色の光と、冷たい空気と、何かの気配だけが、ずっと隣にいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る