ただ何かが悲しくて、搔きむしっている。

必死に追い求めた哲学も、ここで打ち止めになる。

───夢が醒め、「色覚」を失っている。

「……朝」

二段ベッドの上の段を使っているから、天井は近い。それを眠気眼に眺めて、なんとなく耳を澄ましていた。今朝も、木目は灰色をする。

近くで、鳥がさえずっている。三羽か、四羽くらいなのか、数を判別できないが、おそらくは雀（スズメ）だと思う。

どこか遠くの方から、何か、長続きする音が届いている。

足音とも、話し声とも違う。どちらかと言えば風鳴に近い。ただ、それとも違う。暫く考えて、

「ああ、単軌空道（エアーレール）か」

と呟いた。そう思って聞けば、あれは箱舟都市（フロンティア）を泳ぐ単軌空道（エアーレール）の走行音に違いなかった。

───西暦２０４０年七月六日、時刻、午前９時５５分。

月曜の朝で、目覚まし時計が鳴り終えていた。黒い簡素な寝間着で、脇の梯子（ハシゴ）に足をかけた。狭い四人用ドミトリーに、一つある小窓から朝日が差し込んでいる。外はよく晴れているらしい。

【Wake up.】

伸びをして、

「遅刻だ」

と言った。

既に、眠りつかれている。

塩川過去（シオカワカコ）というのが、彼の本名だった。

今朝も『箱舟都市（フロンティア）』の単軌空道（エアーレール）はダイア通り、静かに都会を泳いでいる。

塩川は学生定期を以て改札を抜けた。

第六学区駅前の噴水広場に、帽子の子どもが何人かいる。そばで大人の女性が見守っていて、提げたバスケットに布がかぶせてある。あの中身は……サンドイッチなのだろう。子供たちはピクニックをしている。学生鞄を片方の肩に提げて、ゆっくりと高校へ歩いた。

アクリルを噛んだ透明橋は良い。所々に滑らかな木の板がはめ込まれていて、水路横の芝生に柔らかく影を落とす。水の潺（せせらぎ）も良い。塩川は歩いて橋を渡った。水が光っていて、眩しい。

一瞬、遠い景色が蘇る。ピントのボケた一枚の写真を、静かに思い起こした。その色は、鮮やかに思える。

（───再び見ることはない。）

今は、新聞紙のようだ。それで塩川は思い煩って、自分の肩を睨んだ。

外の見えるエスカレーターを介して、七階の教室に向かった。

「今日も『寝坊』で、弁明は無いんですか。塩川君。」

「どうして俺はこう、だらしないんだろうと、最近思います。」

「まったく。……いいでしょう、席についてください。遅刻をした生徒には、例によって居残り掃除をやってもらいますよ。」

「すいません。」

「はは、いいんですよ。ざまをみてください。」

担任は碇（イカリ）という姓で、笑みは乾いているが、眼差しは穏やかである。

それから窓側の席に向かう塩川を、廊下側の生徒が凝視していた。彼女は二度瞬（まばた）きして、なだらかに笑いかけた。

七竈夏希（ナナカマドナツキ）という名前で、周りの人物から数多くの仇名で呼ばれている。

（……）

塩川は自分の席に着いた。

担任も、七竈も、善良な人物だと思う。

箱舟都市（フロンティア）は至って平穏で、風が泳ぎ、雲が流れ、飛ぶ鳩はたまにアルビノ個体であったり、オリーブの葉をくわえていたりする。

彼らは穏やかに揺れている。

これを見て、内心ひたすら悲しみを抱いている。

───ひどく長い夢を見ていたのに、内容は少しも思い出せない。

塩川は頬杖をついて、一日中窓の外を眺めていた。

（視界が色褪せたのは、いつからか。）

【……memento ───.】

放課後、塩川は掃除用具を持って教室に残った。

この日は七竈夏希も一緒だった。

「ん、届かないや、塩川ー。」

「あいよ」

「そっち持って塩川。」

「あいよー」

(……よく見てるな）塩川はこう思った。彼女が塩川に手を借りるのは、決まって教室内の物音が止んだ直後だった。閑静な校内で、お互いの一挙手一投足が直に伝わっていた。

「結構楽しいのかもな。」

しゃがんで塵取りの内側を眺めると、箒を持った七竈は笑った。

「塩川ってやっぱ変なんだ」

「……変じゃない」

「変だよ。」

塩川は不服そうな目を向けたが、七竈はやはりなだらかに笑いかけたのだった。隅に寄せた机は、普段通りの位置に戻る。

「ね。」

とだけ声がかかったので視線をやると、その『ね』と言った声色通りの目付きをした七竈が、窓際の机に腰掛けて塩川を見ていた。窓からの光が斜めに差し込んで、世界の明暗がくっきりと分かれている。同じ机が、白かったり、黒かったりする。

「もうおしまい？」

彼女の髪が、光の当たる分だけ明るくなっていた。

（七竈の髪は奇麗なのかもしれない）と思った。

それで、塩川は思い煩った。

「……塩川、聞いてる？」

「あー、悪い。おしまい、今日は早く終わったよ。」

「あそ。塩川ってなんか、毎日暇そうじゃない？」

七竈が問いかけて、塩川は少し考え込んだ。

「……これぐらい、何も無い方が良い。」

塩川は本音で話していた。

昇降口の手前にあるベンチに、女子生徒が三人座っていた。ほかに人は見えない。七竈が駆け寄っていくのを見て、塩川は自身の靴箱に向かった。あれはいつも一緒にいる四人組である。

ピロティの影は伸びて、地面が少し眩しい。塩川は一人で帰ろうとした。

そこで呼び止められたので、塩川は四人が靴を履くのを待った。

「塩川は運動できたっけ」

「おにごっこは苦手だな。」

「なぜおにごっこなんだ」

「うん、あれは少し……。」

塩川は隣を歩く二人に目をやった。両人物とも小柄で、それぞれ制服の上にパーカーを着ている。近くを歩く方は、薄い色のパーカーを着ていた。

小橋万葉（コバシマヨ）という名前で、のんびりした人物だと思う。

「ん、塩川？」

「まよまよを凝視してる」

「……な、なんだよぉ塩川」

「あぁ、悪い。ぼーっとしてた」

透明橋の滑らかな木の板に視線を移した。芝生に、影が落ちている。

（俺は何かを……）

唯一つ知るべきことがあって、それを知らずにいるように思う。

そうして延々思い煩う。

「塩川に追いかけられるのかと思った。」

小橋が呟いた。第六学区駅の噴水が見える。暗い色のパーカーを着た方が、塩川の隣に割り込んでいる。塩川が様子をうかがうと、彼女は目を合わせずに

「センシュボウエイ。」と言った。前の二人がスイーツの話を始める。

他愛のない会話が続いた。

改札を通る。空いた車両に五人が乗って、各々の目的地で降りる。

他に誰もいなくなって、塩川は一人残った。

泳ぐ単軌空道（エアーレール）の窓から、奥の空の積乱雲を見ている。

（俺は……）

───何が悲しい？

よく晴れている。冷房も快適で、日常は平穏である。一人でいる時間は非常に好ましい。落ち着いて、静かにしている。空の雲には限りない自由を見る。

そうすると、魂は途方もない不自由を訴える。

（畜生、これも自己憐憫だ）

肉体は虚無に従っている。

明確に、罪を抱えている。

（それとも───）

【──memento mori.】

同日午後、７時５５分。

方舟都市（フロンティア）郊外【シンジュク・シティ】七丁目防衛区域、旧東新宿駅構内。

……「突発性広域偏光、ひいては遮光現象を伴う」とされ、その特徴を採って【暗転（ブラックアウト）】と呼ぶ。目視観測した隊員は直ちに任務行動を中止、離脱を試みることが原則となっている。

さて、通信途絶から二十四秒が経過した時点で、浸水した連絡通路の「行き止まり」に潜伏していた。

顔を覆うフルフェイスヘルメットを被ったまま、一丁のハンドガンに弾薬を詰め直している。

『ゲウム』階級の下級兵で、名前を『塩川亮（シオカワリョウ）』と言う。