第20話 黒頭はその手を汚さない④


「しゃあないのぅ」


 男は、くしゃりと張りのない笑顔を作る。


「じゃあ、例えばなぁ。好きな物。好きな食い物はあるか?」


「桃だ」


 美猴王びこうおうは即答した。


 自身は食欲を不思議と感じないたちである。喰わない時は一月ひとつき経とうと構わなかった。猿達に心配される事もあったが、空腹に苛まれる事も躰が弱って餓死する事もどうやらない。何かを口にするより、自分が採集した木の実や果実を猿達が食する様を観察するのが愉しかった。


 あの果実に出会う前は。


 これは美味いと思っても、幾らでも喰いたい衝動など感じた事は無かった。興味本位で、毒蜂や蜘蛛など如何にも不味そうな物を口に入れてみた事もあったが、さして違いはない。美味いものも不味いものも等しく己の胸に刺さるものではないと考えていた。


 嗚呼、あの果実に出会う前は。


 口一杯に頬張ると、僅かな繊維を心地良く残して、やんわりと蕩ける果肉から洪水の如く溢れる甘味な果汁の衝撃たるや!

 まぶたは自然と下垂かすいし、しばしの瞑目めいもく。やがて落涙。躰が出会いの感動に打ち震えていた。止め処なく涙と涎が垂れてくる。


(僕は君に出逢う為に産まれてきたのかもしれない)


 刹那、さりさりと爪の先で首筋を撫ぜられた感覚が奔る。まぶたが痛くなるほど両眼を見開いた。微かにだが、確かに聴こえた内なる囁き。躰の奥底から果実の声が幻聴こえる。


(好きってことさ)


 忘我ぼうがのうちに美猴王びこうおうは次々と果実を手にしていた。幾ら食べても果肉は更なる暴食を促し、果汁は一層淫らに喉を潤した。出逢いと別れを幾星霜いくせいそう繰り返し、美猴王びこうおうの口から次々と飛ばされる桃の種は三年後の繁栄を約束されながら、また永い眠りにつくのだ。

 そうして、其の日、二人が出会ってまもなく樹海から桃の果実は姿を消した。


 嗚咽。恍惚たる快感の後に去来するものは。

 それは別離の涙か。

 これまでの後悔か。


 美猴王びこうおうの腹は満々と膨れ上がり、別の生物でも腹の中に飼っているかのように鳴動していた。はたと嗚咽が止む。


 歌?歌っているのかい?


 それは暴食による腹の不平不満だったか知れないが、確かに幻聴こえた果実の歌。食い尽くされた桃の果実が美猴王びこうおうの太鼓腹の中で確かに合唱あんさんぶる。


「また逢える」


 美猴王びこうおうは呟いた。


「また俺が食い尽くしてやるからな」








「桃ねぇ。ちと時期がまだ早いが」


 男が筆を空中に、ささっと走らせると、美味そうに太った桃がその手に現れた。丸みのある肌に白いうぶ毛が光って見える。美猴王びこうおうが掌を伸ばすと、男は意地悪な微笑みをもって、その掌を拒んだ。


「あかんよ。まだ」


 男が桃を頭上に掲げた瞬間。美猴王びこうおうの掌は、固く握りしめられた拳と成って無防備な男の左脇腹を抉った。倒れた男に飛び付き、馬乗りになると、癇癪を起こした子供のように続けざまに顔面を打つ。


「あかんて」


 美猴王びこうおうの攻撃が止むと同時に男の窘めるような声が聴こえた。

 あれだけ打ち据えたにも拘らず男は無傷だった。やれやれとでもいうように腰についた土汚れを掌で払っている。

 後ろで控えていた女がおもむろに片膝を付いた。今出来たばかりの爆ぜた柘榴ざくろのような傷を顔面に湛えて、それであっても、どろどろとこびり付くいやな視線を美猴王びこうおうに向けていた。


「暴力で手に入らんもんもある」


「物々交換ちゅうてもな。相手の欲しいもんを都合良く持ってる事なんてそうないやろ」


 ぽんぽんと桃で手遊びしながら男は語り続けた。


「そこでこの【貨幣】や!これは大陸の西海岸でしか手に入らん貝殻でな。これを物々交換の代わりにしましょって話」


「誰が欲しがるんだそんなもん。いいから桃寄越せよ」


「欲しがるよ。みんな欲しがる。なんたって数さえ集めりゃ、儂らが扱ってる大陸から運び込んできた商品と取り換えてくれるんやから」


 男は美猴王びこうおうに桃を投げて寄越した。



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