第17話 黒頭はその手を汚さない①


「えーと、美猴王びこうおう様。お取り込み中にすみませんが、ご意見をお聞きしたいのですが」


 主から返答は無い。先刻まで暴れていたのが嘘のように静まり返っている。このまま河を下れば、いずれ樹海を抜けて人里に入ることになる。日は傾いて間もなく夕刻だが、辺りはまだ明るい。そろそろ船を捨てて、夜間にこっそりと人里を抜けるのが良いと百里魔眼ひゃくりまがんは進言するつもりだった。


「はて」


 舟頭から、ひょこっと立ち上がり、舟の中心に建てられた主家形の向こうにいる筈の主と狐達に再び声をかけた。


「このまま進むと人里に入ってしまいますゆえ、そろそろ舟を停めましょう」


 奇妙な物体が百里魔眼ひゃくりまがんの目に留まる。楕円の白い卵が二、三歩先の甲板の上で直立している。


「なんだありゃ」


 大兵肥満な躰を無理矢理折り畳むようにして座っていた土蹴どしゅうも揃って卵を見つけ、反射的に手を伸ばした。その手を百里魔眼ひゃくりまがんが、叩くように払う。


「怪しいものに安易に手を伸ばすな。このうつけ者め」


 猛禽類、昼隠居ひるかくろふの両眼が消えかかった炭火のように、ちらちらと鈍く赤黒く明滅する。百里魔眼ひゃくりまがんの魔眼は遥か遠方を見通みとおすだけでなく、饅頭の中身程度を見透みとおす力を持っていた。

 奇妙な卵の、その薄殻の中身は一見すると虚ろな空洞だが、吐き気を催すほどに淀んだ気体が中に充満していた。気体を眺めて脳裏に浮かんだものを言語化するならば【不運】【不穏】【不吉】だろうか。そんな物が、気体になってあの小さな卵の中にぎゅうぎゅうに詰まっている。卵が割れて飛び出した気体に触れれば、良からぬ事象が、身に降り掛かるのは明白だった。


「これも妖術か」


 ふと、土蹴どしゅうの頭を魔眼で視ると、頭蓋骨の大きな空洞の中で、ちんまりとした脳味噌がちょこんと体育座りをしていた。


「あの卵を刺激してはいかんぞ」


 百里魔眼ひゃくりまがんの言葉に絡まるように卵の殻が割れる音が響いた。心臓がどくんと跳ね馬のように騒いだが、咄嗟に呼吸を止め、後退あとずさると、土蹴どしゅうの躰をたんたんと叩いた。


(もっと端に寄れ、あの卵から遠ざかるのだ)


 冷静に努め、小声で促す。やがてべりべりと卵のひびが大きく広がる。川の上の水分が飽和して生暖かく湿った生き物のような大気を射抜くように、すとん。と、百里魔眼ひゃくりまがんの足元近くに鋭い矢が落ちて甲板に突き刺さった。


(まさか、あの卵の中身に触れていたら)


「うぐぅ!」


 唐突に喉を締め付けられたような悲鳴を上げたのは土蹴どしゅうだった。見ると、彼の右肩にあの白い卵が載っていた。

 百里魔眼ひゃくりまがんの制止が間に合わず、反射的に土蹴どしゅうが卵を振り払おうと左腕を伸ばす。

 払った掌で卵が弾け飛ぶと、土蹴どしゅうの足元。甲板の床が彼の重さに耐え切れずに、爽快な音を立てて崩れ落ちた。


(不運が来た!)


 半壊した舟の形をした怪物の口に、土蹴どしゅうの巨体が呑み込まれて行く。助けを乞う様にたまたま伸ばした掌が、百里魔眼ひゃくりまがんの躰を掴んだが、百里魔眼ひゃくりまがんの小さな躰は、突然襲い掛かる重量に耐え切れずに張り子の人形を倒すかのように転げてしまった。百里魔眼ひゃくりまがんは甲板に刺さった矢を咄嗟に掴んでいたが、全身に土蹴どしゅうの重みが掛かって身動きが取れない。


「ぐぉおおお!」


 まるんと太った昼隠居ひるかくろふの躰が倍ほどに延びていく。百里魔眼ひゃくりまがんのぼやけた視界に白い卵が映った。近い。鼻先と言っても過言ではない位置に卵が在る。


 無慈悲な追撃に過るのは全滅の予感。

ぱきぱきと破滅の足音が耳元で囁き出した。




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