cut.17

 元郵便局の建物は屋上にでられると聴いた。

 名波から蔵先、南蔵田、犬とコライドの話を聴き、頭がどうにかなりそうな気分だ。夜間の外出は推奨しないと言われても、自警団員たちと閉じた空間で一晩を過ごすのは息が詰まる。屋上には鏡もなければ水面に姿が映ることもない。原石が潜む隙が無ければ危険はない。

 そう判断して、猿田は屋上への扉を開けた。

「おや、奇遇だね」

 扉の正面、転落防止柵に背を持たせかけるようにして譲葉煙が座り込んでいた。猿田に気づいて顔の隣にもちあげた左手の人差し指と中指が煙草を挟んでいる。

「姐さん、吸ってるんですか?」

「いいや。ただ、ちょっと幸運に縋りたい気分だっただけ」

「ならよかった。必要以上に吸わせないでくれと頼まれていたんです」

「誰から?」

「先生。このまえ、姐さん病院に診察券忘れたでしょう」

「ああ。イ界に店を構えているんだから、ああいう古典的な制度止めてほしいよね」

「チケットじゃ個人を判別できないし、古典的な制度に頼るべきじゃないですか」

「そういう意見もある」

 無意味なやりとりをしながら、彼女の隣に立ち、柵の外、南蔵田の街並みを眺める。名波曰く、この地区に自警団員を除く人間はいない。それを裏付けるかのように夜の南蔵田は暗い。人の気配を発しているのは郵便局の灯りだけで数メートル先にあるはずのビルすら輪郭を捉えきれなかった。

「夜景をみて気分を変えようと思ったんですが、予想と違ったな」

「私も驚いたよ。ここが明るいせいかもしれない。樹海はもっと明るかった」

「そういわれればそうっすね。でも……アレは見えるんですね」

 暗闇のなかで薄らと輝いているのは、崖沿いにそびえる巨大な氷塊だ。

「名波の話だと、あれも原石ですよね。どうして光ってるんだろう」

「さあね。どんな見た目であれ、あの原石はもう死んでいるんだろう?」

 名波たちの観察によれば、巨大な氷塊は、“イベント”直後に出現した原石だという。あれだけのサイズなら、大量のコライドを呼び出したはずだ。それが、現在はただのオブジェと化したのは、犬たちが氷塊に集まり、コライドたちを根こそぎ食べ尽したからだという。

「何十年経過しても犬が飢えずに南蔵田にいたのは潤沢な食糧があったから。蓋を開けてみればなんてことのない話だよね」

「そうは言いますけれど、そもそもあいつらは飢えるんですか?」

「食べるんだから飢えるでしょ。イ形は食事をしないなんて論理はないからね」

 実際に、猿田たちが知るイ形のほとんどは何らかの食事を摂る。食べ物の種類、食事の方法は千差万別だが、何も食べずに生存している個体は珍しい。

 コライドを前にすると犬の異様さが薄れるが、彼らもイ形であることは疑いない。彼らは“イベント”あるいはその後の何かをきっかけに、コライドを求めて南蔵田にやってきたのだ。ならば、それ以前の犬とコライドの関係はどうだったのだろう? 

 猿田は不意に浮かんだ想像を振り切る。それは俺が考えることではない。

「ところで、姐さん」

「なんだい?」

「いつから気づいていたんですか? 蔵先市街にもコライドがいるって」

「彼らから聴くまで知らなかったよ」

「それにしては、驚いていなかった」

 譲葉は名波の説明を淡々と聞いた。彼女が動揺したのは犬に関する説明だけだ。

「ロードレースってさ。どの国でも毎年微妙にコースが違うんだよ。一番有名な欧州のレースに至っては、認知度があがるにつれて祭事の色が強くなっている。おかげで、自分たちの街を通ってほしいという要望が毎年山のようにやってくるらしい」

「いきなり何の話ですか」

「花の都を横切る巨大な川。その上に建設された二階建ての建物が立ち並ぶ巨大橋。その橋の中腹をスタートして西へ200キロメートル。この大会は序盤は起伏の少ないルートで始まることが多いが、この年は一日目からアップダウンが激しかった。初日から山岳専門の走者であるクライマーたちの足が消費されるレースで、優勝候補だと言われたチーム軒並み遅れをとる展開に、観客たちが魅せられた。2日目、3日目は、更に西へと走る合計434キロメートルのルート。うって変わって平坦なコースでスプリンターたちが記録争いを繰り広げる。

 そして、4日目。国境を越えて再び山岳コースにはいったその日のゴールは、1000年前に建てられたという古城が見下ろす小さな田舎町だ。本格的な山岳ルートに入るこの日、初日から遅れをとった二つの優勝候補チームが、どこまで追い上げを駆けてくるのかが注目されていた。

 そのうち一つのチームには、クライマーのエースとしてこの国の人間がいた。椎名正明(シイナ-マサアキ)。欧州レースに参加した通算7人目の選手だ。本人はとにかく7という数値が好きだったらしくてね。現地では彼のことをC-7と呼んでいたらしい。シイナという呼称と、母国語では7をナナと呼ぶことをかけた隠語だそうだ」

「姐さん? いきなり何の話ですか?」

「だから、ロードレースの話だよ。

 大会初日、椎名のチームメイトだったバリュレの調子が悪く、チームは4着の成績に留まった。2日目、3日目。チーム一丸となってトップを追いかけたが4着は変わらず、4日目から始まる山岳コースで巻き返せなければ、中盤以降の上位3チームへ食い込むのは難しいと言われていた。

 ところが、ここで秘密兵器C-7の登場だ。椎名はここから三日間、全ての山岳ポイントで1位に躍り出る。ラッキーナンバー7をゼッケンにつけて椎名は奇跡を起こしたんだ」

「すんません、全然話が見えないです」

「蔵先の飲み屋でロードレースが流れていただろう? あれはね、サル。今年のレースではなくて、15年前に行われたレースなんだ」

「それが、今の椎名正明が出場したレースってことですか?」

「いや、椎名が出場したのは更に30年以上前。蔵先で放映されたレースには、椎名正明の子ども、椎名大海(シイナ-ヒロミ)が出場していた」

「え? えっと、それってどういう」

「知り合いが椎名大海の友人でね。その知人は、椎名大海の影響でロードレースが大好きになって、毎年飽きもせず欧州レースを観続けていた。

 本当に偶然なんだ。私は、椎名大海が出場した年のレースだけ、知人と一緒にレースを観た。

 椎名正明の出場から30年以上も経過したにも関わらず、うちの国の人間がレースに出場するのは珍しいことでね。椎名大海は通算18人目。ロードレース好きの間では、C-7の息子が出場するという話で盛り上がっていて注目を浴びたんだ。もっとも、大海は父親ほどに派手な活躍はしなかったし、大海が活躍しなかったこととは別に、彼がいたチームは総合2位に収まった。

 当時の私は、椎名正明についての話をよく聞かされて、レースの間に椎名の山岳コースの記録ばかり読んでいたからね。どちらかといえば椎名正明の辿った功績のほうが語りやすい。それでも、私は椎名大海の活躍と、彼が走ったコースのことをよく覚えている。店で流れていたレース。そこには確かに山岳ポイントを争う椎名大海が映っていたよ」

 話が揺れていてうまく整理ができないが、譲葉は、蔵先市街では15年前のロードレースを街中で放映していると述べたのだ。

「おかしいっすよ。いくらなんでも、調べれば結果のわかっているレースについて、街中で盛り上がるなんてことありますか? 彼らはまるで今、この時期にレースをやっているみたいに話していたじゃないですか」

「そうだね。だから、私も変だと思った。おそらく、蔵先の人々はあのレースが15年前のものだなんて知らないんだ。知らずに過去の有名選手を応援している。今年だけじゃない、毎年過去のレースに熱狂しているのだと思うよ」

「それだけで、コライドの存在を想定したんですか」

 発想が飛躍しすぎている。

「まさか。何度も言うけど、私も実物をみて名波から話を聴くまで、こんな結末は想像していなかったよ。ちょっとした違和感程度のものさ。それに、手がかりはレースの結果だけじゃない」

 譲葉はバックパックから冊子を1つ取りだした。荷物は最小限にと伝えていたのにこんなものを持っていたのか。猿田は譲葉から渡された古い観光雑誌を捲った。

「特集。南蔵田地区について触れているだろ? ロードレースで湧く都心近くの観光地。欧州レースの立役者、椎名正明選手が生まれた土地だそうだよ」

「こんな雑誌どこから?」

「“図書館”だよ。サモエドの情報はなかったが、南蔵田のことが書かれた資料は少し残っていた。でも、椎名正明を特集した雑誌がここにあるなら、図書館、あるいは管理委員会は市街で流れているレースが過去のものだってわかっているのだと思った」

「椎名大海のレースが流れているんだから、繋がらないでしょう?」

「あの年のレースなら、この国の放送では椎名大海の出自について触れているんだ。椎名正明の息子が出場すること自体、注目ポイントだったのだから」

「……わかりました。姐さんの仮定が正しいとして、一体何のためにそんな放送をしているんですか?」

「私は管理委員会の人間じゃないからわからないよ。ただ、きっと彼らが再現したかったもののためなんだと思う。そういうわけで、漠然と違和感があるままで樹海に出てきたんだ。

 そして、昼間に私と同じ姿のイ形をみた。住民たちが話す“獣”とは全く異なる“イベント”である“衝突”の正体を見せられて、蔵先市街が何をしているのかがわかったような気がした。余談が多かったけれど、名波の説明に納得した理論的あるいは合理的な理由なんてないよ。ただ、彼の話が一番、しっくりくると思っただけだ」

 南蔵田から逃げた住人達は口を揃えて獣について語り、やがて樹海から隔絶するための壁ができた。獣を脅威だと感じるのはコライドであるという前提に立てば、蔵先があのような形になった理由は明らかだ。

「要するに、蔵先市街は餌を追いかけてやってくる犬を避けるために出来た」

「そうだと思う。もう一つ付け加えるとすれば、彼らは他のイ形も怖かったんだと思うよ。名波の言うとおり完全な模倣だというなら、模倣元の記憶も引き継いでいるかもしれない。けれども、引き継いだ記憶にはイ形の情報はないんだ。イ界からきたのにわかるのは現実のことだけ。“イベント”と無関係に現れていたら彼らの行動は大きく変わった。彼らは、南蔵田で得た“理想的な現実”を再現するために、壁を作り閉籠ったんだ」

「……姐さんは名波たちの話、どうするつもりですか?」

「どうしたらよいんだろうね。私たちは知るべきことをほとんど知った。初めの依頼、サモエドの正体は報告できる。問題は誰に報告するかだけれど」

 名波は、猿田たちが蔵先近くで会った名波耕太郎はコライドだと言う。南蔵田地区に辿り着いた自警団員の前に現れたのは犬だけではなかった。自警団は衝突を求めるコライドから逃げ回り、犬を使い、コライドを南蔵田から追い出した。土地を追われたコライドは犬を畏れて蔵先まで逃げ出し、本人たちに成り代わった。

 目的は情報と犬の攻略法を探すことだったのだろう。だが、名波曰く、彼らには図書館のネットワークが使えなかった。理由は不明だが、確証はある。コライドたちは自警団が今も保持している住民用バングルをコピーした。つまり、双方の申請やデータは共有されている。彼らがネットワークにアクセスしたら、自警団側にもアクセス履歴が残るが、その痕跡はなかったのだ。

 譲葉たちが受けた依頼は、名波の住民IDから申請されたものではないし、名波のコライドは類似の申請を行っていない。つまり、譲葉たちへの依頼主は別にいる。それが名波が出した結論だった。

「誰に報告するにせよ、状況は変わる」

「コライドに知らせるなら犬を駆除するんじゃないですか。身体が戻るときなら銃火器で駆除できる」

「そうだろうね。そのときは蔵先にコライドが増える。どちらを選ぶのかは依頼者のみ知る。そういう結末じゃダメかな」

 そう話す譲葉は猿田も暗闇も見ていない。火のついていない煙草の先を見つめるばかりで、何を考えているのかわからなかった。

「姐さん」

「なんだい?」

「俺はイ形にも知り合いがいる。イ形も意思疎通はできるしお互いが排斥関係にあるわけではないと理解しているつもりだ。けれども、最優先に守るべきは人だと思う」

「良い意見だね。迷ったときには参考にする。けれども、今回はどちらに転んでも守ったといえるし、見捨てたともいえる」

 だから、せめても幸運に縋りたいんだよ。そう呟いた彼女は、いつもの譲葉煙より幾分か弱々しく見えた。

「姐さんも、人ですからね」

「どういう意味だい? それは」

「俺は姐さんの選択を裏切らないってことです。コライドがこなくても外は危ない。彼らに甘えて中に入りませんか?」

「最後まで友好的であることを祈るばかりだね」

「これ以上、話がひっくり返るのは御免ですよ」

 譲葉は、煙草を箱にしまい、良い冗談だと笑った。本気なのだが再度それを伝えるのは少し馬鹿らしい。

 猿田は屋内に戻る譲葉のあとを黙って追った。

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