欲望の墜落

日下浮羽

プロローグ ‐ 空洞 ‐

自分の体に大きな空洞があると気づいたのは、中学生の卒業式に父親が姿を消したときだったように思う。母は父の失踪以降、精神のバランスを崩し、今日に至るまで日常会話すらままならない状態が続いているが、とはいえ母がおかしくなったのは元々の気質もあったかもしれない。


渚は幼少期の頃から母の気質について心当たりがあった。渚が罰の悪い行いをしたときに母から発せられる、発泡スチロールのように軽く空虚な言葉。雲の中を通り抜けるような手応えのなさ。母から透けて見えたのは、自分を持たず母親という仮面を被った透明人間の姿だった。


個を持たない人間はそもそも自分の感情や頭を使って考えることを拒否し、誰かの意見にすがって生きている。彼女もまさにその典型で、発せられる言葉のほとんどが父親の言葉の引用であり、あるいは母方の祖父、祖母の言葉を借りた仮初めの言葉でしかなかった。だから違う意見を言われると、自分の引き出しがないため他人の意見を許容することができない。父親がいなくなった今、彼女の中には言語の引き出しがすっかり失われたようだった。


異常性のある母親に育てられてきた自分自身も、それについて例外でないように思えた。言葉を発するたびに、空虚な母親の姿がちらつく感覚があったからだ。もしかすると、私も母や父の模倣なのではないか。私の選択は自分で決めたものなのか。それとも誰かの言葉や考えを模倣した選択だったとしたら……。


そして父が失踪し、抜け殻の人間だけが残った今、自分はどうなっただろう。自分の中にある大きな空洞をは今度どのように埋めていけばいいのだろう。


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