秋月が昇るとき〔2〕

自分でも分かるくらい、そわそわしていた。

マウンドに上がる直前のように、体がむずむずして、何とも言えない期待と不安で気持ちが落ち着かなくなる。

ここは塾が入っているビルの外。ほんの少しだけ張り出している軒の隅で、俺はそっと息を潜めていた。


本当はこの時間、今日一日の反省点と明日の目標を考える”振り返り”をしなくてはならないけれど、『おなかが痛い』と小学生みたいな嘘をついて早退した。

内心びびりながら報告したけど、案外あっさりと帰してくれた。昨日は体調不良で授業を休んだおかげで信憑性はあったらしい。


そんなことをしてまで待ち伏せている相手は…まぁ、一人しかいない。特別クラスの授業は、一般クラスと比べて10分から20分早く終わるから、こうでもしないと会えない。仮病も、今日くらいはいいだろう。

ふいに空を見上げた。あの日、俺達の上に雨を降らせた空は今、雲ひとつなく、澄んだ藍色の背景に、満たされて正円になった月を浮かべている。




学校の教室には姿があった。これまでよりさらに深刻な表情で参考書を睨み付けている彼女は、遠目から見てもクマがどす黒くなっていて、追い詰められているのがわかった。俺のせいだ。迷惑をかけるだけだ、と声をかけられなかったけど、とても苦しかった。また、鈴野さんが押した胸がギリリと音を立てた。

だけど、俺は決めていた。絶対に、今日の塾終わりに話をする。自分が失敗したと思ったことは、ちゃんと、自分でリカバリーをしなくてはならない。

それには、同じ場所が大切だと、何となく思った。何となく…だけど。




ひゅうっと足下を攫っていくような鋭い風が、スラックスに包まれたふくらはぎを撫でていく。それだけで不安な気持ちになってしまう自分が情けない。空気は一昨日の雨の日より、また一層秋めいて、冷たく、からっと乾くようになっていた。






「あっ」

そうこうしている間に、ビルの出入り口に人影が現れた。俺は隅から移動して、正面に出てくる。

特別クラスの人達だ。皆一様に参考書を手にして、一人ずつ外に出てくる。”つるむ”という概念がなさそうな彼らは、疲れた様子で壁にもたれかかる人が多く、そのまま迎えの車を待っているようだった。


その一人一人の顔を必死に目で追って、彼女がいないか確かめる。

もう少ししたら、一般クラスの人達も降りてくるし、このビルに入っている他のテナントからも人が沢山出てくるときに差し掛かって、大人達に紛れて、余計分かりづらくなってくる。

眼鏡をかけたベストの男子生徒、バックパックを背負ったスーツの若い男の人、連れ添って出てくるOL…。


いない。


そんなはずはないのに、変な汗が背中をじっとりと湿らせていく。

今日じゃなきゃ駄目なんだ。今日、やるって決めたんだ。

人が増えるにつれて、だんだん焦ってくる。もしかしたら、一般クラスのうちの何クラスかがもう終わってるのかもしれない。雑踏に見失った影がちらつくようで、俺は一度目をぎゅっと瞑った。






そのとき。

人波の中で、唯一認識できるものがあった。

全てが、誰だか何だかわからない中で、たった一つ、そこだけ光っているように見える。

ぬいぐるみのマスコットが、視界の端で揺れた。


見たことがある。

はっとして、俺はその持ち主を視線で追いかけた。

誰かに見つからないようにしているのか、丸まった背中に、その身一つでは背負いきれないような大きさのリュックを背負しょっている。走っているのか、長い黒髪の毛先が風になびいていた。




その姿を彼女だと認識した途端、俺の足は考える間もなく歩き出した。

まるではじめからそこに行くためのルートを知っていたかのように、誰にもぶつからず、たった一人だけを目指して進んでいく。




「鈴野さん。」




俺は後ろから声をかけた。人波から抜けた直後だった。

ここだけ切り取られたみたいに、他の音が耳に入ってこなくなる。

鈴野さんは何も言わない。

振り返らないまま、手にした参考書をぎゅっと握りしめている。

見つかってしまった、そんな様子だった。

ごめん、本当なら困らせたくない。でも、今日だけ。




「すいません、今日だけ…今日だけでいいんで、一緒に、帰ってくれませんか。

言いたいことが、沢山あるんです。」




振り向いてはくれなかった。

俺を受け入れた様子もない。

ただ諦めたように背中から力を抜き、一度だけ頷いてくれた。











本当に、ここだけ世界から切り取られたみたいだ。

繁華街から一本だけ中に入った通り、この前の雨の日と同じ道を通っているはずなのに、街の喧騒は酷く遠い。ただ、俺より歩幅が狭いのに回転率がいい鈴野さんの足音と衣擦れの音だけが、耳に響いていた。

鈴野さんはずっと無言だった。向こうの街灯を道しるべにしているかのように、遠くを見て、足早に歩く。長い黒髪が遮って、その表情はちゃんと見えなかった。


言わなくちゃ、言わなくちゃ。

分かっているのに、鈴野さんの様子は、かなり俺を拒絶しているようで、なかなか一歩が踏み出せずにいた。

俺は何度目かわからないほど繰り返したように、また空を見上げた。


月がこちらを見ている。

9月の初め、体育祭の日の夜は黄金色だったそれが、10月になった今、金というより白銀に近いものになっている。

早くしないと、この月みたいに、目を離している隙に、全てが変わっていって、いつか取り返しがつかなくなってしまう。

後悔したくない。この前から、何度も何度も出遅れて、踏みとどまって、悔しい思いを繰り返してきた。もうやめたいんだ、それ。自分で決めたんだ。


声を出すのってこんなに難しかったっけ。

そう思うほどに舌が貼り付いていた。

俺は大きく息を吸って、下を向いていた顔を上げ、鈴野さんの方を向く。






「鈴野さん、あの、」






これまでにないほど緊張して出した声は、情けなさ過ぎてこの場で落ち込みたいほど掠れて、震えていた。

鈴野さんはそれを聞いて、足を止める。下を向いたまま、こちらと目を合わせないつもりらしい。

「なんですか、」

かろうじて返してくれた言葉はこれだけだった。その声も、泣き出す前の子供のように水分がたっぷりで、同じように震えていた。

より深く俯いたせいで、耳にかかっていた髪の毛までも落ちて、その表情を覆い隠す。俺と鈴野さんの間には、広くて高い壁が立ちはだかっている。




それでも立ち止まってくれた。冷たくあしらわれなかった。それで十分だ。俺はまた息を吸った。


「鈴野さん、この前は、本当に、ごめんなさい。」


そう言って、大きく頭を下げた。

まず初めに、絶対言うと決めていた言葉。たった一言だけど、これが口から出た途端、あとは追いかけるようにするすると声が出てきた。


「俺、鈴野さんのこと、何も考えられてなかったです。

正直受験もうまくいかないし、親とも微妙だし、八歩塞がりでいらいらしてました。

鈴野さんの隣にいると、そういう悩み、全くなさそうなんてふざけたこと考えちゃって、止まらなくなって…でも、」

「あの、」




鈴野さんは、いきなり俺の言葉を切った。つま先で地団駄のようにアスファルトを二回叩き、顔を上げた。

「東くん、」


さっきよりさらに声は震えていた。まるで俺と向き合うことに恐怖を感じているように、目が合った瞬間、その大きな瞳に水分がぶわっと溜まった。




「やめましょう、こういうの。」




何かを探すように、鈴野さんの手のひらが数回、握って開いてを繰り返す。でも近くには参考書もぬいぐるみもなくて、所在なさげに、その手はぎゅっと拳の形に握られた。


「駄目なんです、こういうの。

自分の、人間としての大切なものが抜け落ちてるところを、分からされるから。


一昨日、私が卑屈で、良くないことを言って、

東くんよりむしろ自分が謝った方がいいのに、

目の前にしても、言葉が出てこないんです。


自分が大事で大事で仕方ないんです。

自分を守ることで精一杯で、謝って”負けた”って思いたくなくて、表でどれだけ取り繕っても、裏では他の人のことなんてどうでもいいって思ってるんです。

弱い人間なんです、本当に。


だから一昨日も、東くんのこと、白石くんと…」






「鈴野さん。」

泣き出しそうな瞳に俺が映る。同じような表情をした俺が。

そしてすぐに逸らされた。後ろを向いて、完璧にシャットアウトされる。


悲痛な鈴野さんの言葉は、正直、きついほど刺さっていた。俺もよく同じことを思うから。でも、今はまだそのときじゃない。

ちゃんと顔を見て、自分が傷つけたこと、悩ませたことを受け止めないといけない。その上でしっかり、決めたことを成し遂げるんだ。


「鈴野さん。こっち見て。」

俺は肩を掴んで、こちらを振り向かせようとした。

「やだ。」

「お願い。」

否定の意を示しつつ、彼女にはほとんど踏ん張る力が籠もっていなかった。いとも簡単に目が合う。


興奮して白い顔の血色が良くなっている。

あと一回まばたきしたら、涙が零れてしまうだろう。

透明な瞳は、身に纏っていた鎧を全て取り去ったように、思惑が一切なく、ただまっすぐに俺を見ていた。






「弱い鈴野さんじゃ、駄目ですか。」






弱い弱いと自分を卑下する鈴野さんは、背中を丸めることもあるし、複雑な気持ちを抱えることもあるし、きつい現実に直面することも沢山ある。

だけど、それを受け止めて、弱いなりに、色んなことを考えて、苦しみながら模索して、自分で行動する鈴野さんは、きっと


鈴野さんの中にだけ、鈴野さんがいると思うんです。


それに、俺の中にも、弱いところはあります。」




”弱い自分”という大きな秘密と引き換えに、

俺の”弱い自分”も。






「俺だって、ずっと、葉月のこと、嫌だって思ってました。






どうして俺の大切な人を苦しめるんだろうって。」




口から出るまでは喉が熱くなるほど緊張していたのに、言ってみれば案外楽になれるもんだ。

掴んだままの肩が硬直する。鈴野さんは目を見開いていた。その純粋なまでもの驚き一色いっしょくの表情は、とてもあどけなかった。いつか見た何かに似ていた。


「あの日、鈴野さんが泣いてた後に気づいたんです。


どうしてあの人、書道にも体育祭にも葉月にも、あんなにまっすぐぶつかれるんだろうって、ずっと考えてました。そんなことしてたら、自分でも気づかないまま、あの夏の間、どんなときも、視界に鈴野さんがいたら、追いかけるようになって。

でも、”好きだ”ってちゃんと気づいたのは、本当に、あの日、別れたあとで…。

間が悪すぎるし、鈴野さんの気持ちはしっかり聞いちゃったし、あぁ俺もう駄目なんだってその場で諦めました。


だけどそのあとも、忘れられなかったです。それくらい、特別でした。

でも、もう鈴野さんはしっかり勉強モードになってるし、葉月は色んなことをしつつも楽しんでるみたいで、納得いかないというか。

そんな複雑な気持ちにかまけて、無気力になって、勉強なんてどうでもいいやって思ってました。

だから一昨日、鈴野さんが『俺ならわかってもらえると思ってた』って言ってたことが分からなかったのは、そういうことなんです。本当に救いようがないですよね。


これでも俺が”弱くない”可能性ってありますか?」




鈴野さんのきょとんとした表情が可愛かった。俺ってこんなに話す奴だったっけ、と思いつつ頭がフリーズしている感じ。

今だ、と狙いを定めて、俺は更にたたみかけた。




「鈴野さんだけじゃないんです。

他の人がどうかは知らないけど、少なくとも俺は、弱いです。


でも、弱い自分がいるからこそ、それを克服しようって思えるじゃないですか。


だから俺は、『弱い自分を見ないために、遠くの大学に行く』って努力することを選んだ鈴野さんを、

あの日、体育祭のときからずっと変わらないままの強さで、すごいって思ってるんです。」




もう一度、鈴野さんの目を見る。

ちょうど月と真っ正面に向かい合った鈴野さんの透明な瞳から、一粒、ガラスみたいなしずくがこぼれ落ちた。




「鈴野さんは、卑屈でも、よくない人でもないです。

俺にとって、めちゃくちゃ大事で、尊敬している人です。」




鈴野さんは、顔を覆うこともなく、身動きをとることもなく、涙に抗わないままただ突っ立っていた。

その唇がへの字に曲がって、歯を食いしばって、奥から嗚咽が零れていく。全ての鎧が剥ぎ取られていく。

俺はちゃんとまっすぐそれを見ていた。どうせ泣くなら、あの雨の日みたいな悲しい涙じゃなくて、辛いことを全部洗い流してしまうような涙がいい。体育祭のあと、俺が見た、あの場面と同じように。


「あぁっ…うっ、うっ、うぅ……、

ごめ、ごめん…、ごめんなさっ……」


鈴野さんは俺の胸に手をあてて、それからカッターシャツを両手でくしゃりと握りつぶした。その引っ張られた生地の向こうから、湿った息を感じる。






「さいきん…自分の、周りのもの、

頑張ってるはずの勉強も、”合格は厳しい”って言った先生も、指定校の子達も、親も、白石くん達も、

みんなっ、全てがっ、敵に見えて、


『誰も味方じゃないんだ』って、おも、おもって、

そう思うたびに、『ここを出て行かないと、自分が壊れる』って、考えて、


でも、そのっ、ために、べんきょう…すれば、するほど、

偏差値は下がって、ミスも増えて、きつくて、誰も”やめろ”としか言ってくれなくて、

『何で頑張ってるんだろ』って、『この先に何があるんだろ』って、

それしか、頭に浮かばなくて…、




ずっとずっと、いらいら、むしゃくしゃ、どうすればいいかも、わかんない、

そんな気持ちで、

だからお話、してくれた、あずまくんの言葉、

端っこだけ捕まえて、揚げ足とって、最低なこと言って…、


あのあと、熱でやすんで、家でひとりのとき…、




…うっ、また、あのときと…はあっ…

白石くんのときとおなじでっ、


『言えなかった』、『謝れなかった』…って、


…ずっと、ずっと考えてた…、




結局べんきょうしたって、わたしの、中身は変わってないから、

あの日の、白石くんと桃世ちゃんを見て、

何も言えないまま逃げたわたしのままで、

またおんなじことした、自分のしなくちゃいけないことから逃げた、って…




きょ、きょうも…東くんが、言ってくれたから、

私、今、こうしてるだけで…

何もなかったら、あのまま、目を背けて逃げようとしてたっ…


何をしても、弱いままの私で…、

この私からは…逃げられない…」






「そんなことないですよ。」

思いっきり首を横に振る。その勢いにびっくりしたように、下を向いていた鈴野さんは顔を上げた。

俺は本気でそう思ってる。だってそうだろ。

鈴野さんは今日、俺についてきてくれた。それで、ちゃんと話を聞いてくれて、




「ちゃんと、謝ってくれましたし、

自分の気持ちも、言ってくれました。


葉月のときとは違います。

ちゃんと時間は進んでるから、鈴野さんも変わっています。


”弱い鈴野さん”からは逃げられないかもしれないけど、

確かに、”あの日の鈴野さん”と、”今の鈴野さん”は違っています。」




だから大丈夫です。

そう言って俺は、肩から手を離して、そっと背中をさすった。


俺だってあの日から変わったんだ。

あの体育祭の日は、”綺麗な自分”を守ることに必死だったけど、

今は、そんなことより、目の前の人を支えることのほうが大切だと思ってる。


薄い背中は大きく震えて、激しい嗚咽を上げながら、鈴野さんは泣いた。


いつまでも、自分が納得するまで泣けばいい。

そうやって素直に泣いたほうが鈴野さんらしいし、なにより綺麗だ。




あの日と変わったこと、それも大事。

だけど、変わらないことも大事。


あの日と変わらないこと、それは、

あの夏の景色で、鈴野さんが一番輝いていたこと。

その鈴野さんを好きになったこと。


きっと一生忘れない。恋と失恋を同時に味わって、思い出の中で痛みが一番強いかもしれない。


それでもよかった。


だって今、この瞬間まで、夏が終わっても”俺”は終わってなくて、

あの日支えられなかった背中を、今日はちゃんと支えることができたから。


”弱い俺”には、それくらい小さいことがお似合いだ。











ふと空を仰ぐと、さっきまで冷たいほど白く見えた月が、

ほんのちょっとだけ、金色を取り戻しているように目に映った。

黄金色の光は柔らかく、地上を照らしている。そこにあるもの全てに、平等に光が降り注いでいる。


一昨日の秋雨は辛かった。

でも今日、こんなに晴れて、あの雨粒を反射させたような光を伴って、綺麗な秋月が顔を見せてくれた。






鈴野さんの涙も、この空みたいに、泣いた後は、その笑顔を輝かせてほしい。




きっとそれは、素直な涙より、もっと綺麗だから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る