第44話 鬼と踊れ黒き獣
「
その
武装召喚術。
それ以外に、この狂おしいほどの殺意を放つ化け物に対抗する手段などなかった。
セツナは、ただの人間で、ただの学生なのだ。鍛え上げた肉体を持っているわけでもなければ、超常的な能力を持っているはずもない。
頼れるのは、この世界で得た力たる黒き矛だけだ。
体力が回復したばかりだという不安が過ったが、それも一瞬のことに過ぎない。逃げるという選択肢はなかった。
立ち向かう以外に道はない。
そして、黒き矛の召喚に要する時間は、一秒にも満たなかったのではないか。
セツナがその意志を明確な言葉として発した瞬間、彼の全身に無数の光線が走り、
不快極まりない化け物の奇声が聞こえた。
その
だが、それも一瞬に過ぎない。
光自体にはなんの力もなかったし、その事実を皇魔たちが理解したのだ。化け物たちが、次々と門の外へと飛び出してくる。それも、十体や二十体どころではなかった。
一目では
皇魔の、
しかし、もはやセツナに恐れるものなどなかった。一切の不安は消え去り、意識は冴え渡った。
彼は、黒き矛の召喚に成功したのだ。
漆黒の矛。
形容しがたいほどの禍々しさを放つ悪魔的な矛は、その
そしてその切れ味は、これまでの戦いで十二分に証明されている。重装備の兵士を甲冑ごと両断した感触は、いまも手に残っている。
数多の命を奪った矛だ。
セツナは、黒き矛を握る手に力を込めた。
セツナは、矛を構えると、透かさず周囲を見回した。
眩しいくらいの日差しの下、セツナを包囲した無数の化け物たちが、狂気染みた敵意を露にしている。
皇魔と呼ばれる人外の怪物たち。
セツナがあの森で戦った皇魔とはまったく異なる姿だった。
それらは
さらにそれらには、人間と決定的に異なる要素があった。
それが、頭部に生えた角である。
皇魔の頭部には、人間と同様に豊かな頭髪があったのだが、その側頭部――耳の少し上辺りから頭部後方に向かって、一対の角が伸びていた。その角の存在が、彼らと人間をまったく異なる種族だと主張してやまないようだ。
そして、その極めて印象的な姿は、セツナにある伝説的な怪物を連想させた。
(まるで鬼だな)
その鬼たちがセツナを包囲したのは、矛の出現を予期したからなのかもしれず、矛の
前者であれ後者であれ、化け物たちがセツナの召喚武装を警戒しないわけがなかった。
黒き矛は、その存在そのものが強く主張しているのだ。
ともかくも、赤い肌の鬼の数は尋常ではなく、前方だけで二十体はいた。得物を持っているようにも見えないし、隠している風でもない。
その
前方――アズマリアの〈門〉はその役目を果たしたからなのか、跡形もなく消え失せていた。それだけではない。アズマリアの姿そのものも見当たらなくなっていた。
もっとも、彼女のことだ。
どこかからこちらの様子を窺っているに違いない。
セツナが、数多の皇魔を相手にどう立ち回るのか試しているのだ。
「高みの見物かよ」
毒づくと、セツナは、地を蹴って前に飛んだ。
対多数の戦いは経験済みだったし、なにより、あのときの兵士たちのほうが遥かに恐ろしかった。
ログナーの
彼らは
仲間のため、友のため、あるいはログナー国民のために。
みずからの命を顧みない彼らの戦いぶりは凄まじかった。しかし、だからといってセツナもまた、引くことはできなかった。
結果、黒き矛はうなりを上げて、彼らを一人残らず殺し尽くす羽目になったのだ。
(だったらなんだよ!)
セツナは、胸中に
赤い光を漏らす
同時に聞こえた化け物めいた奇声は、やはり不愉快に他ならなかった。
セツナは、矛を振り下ろした。
鎧のような肉体さえも、黒き矛の前では紙切れ同然だった。
だが、肉塊と化した物体からどす黒い鮮血が吹き上がるのを見届けることはできなかった。
殺気が、頭上から降り注いできたのだ。咄嗟に後方へ飛ぶ。揺れる視界の中央へと落下してきた数体の皇魔によって、赤鬼の死体がでたらめなまでに粉砕された。
飛散する体液や臓物を全身に浴びた皇魔たちは、正に
仲間の、同胞の死体など、障害物に過ぎないといわんばかりだった。
鬼の赤い眼光がこちらを
しかし、その一撃がなんとか堪えられるくらいの激痛で済んだのは不幸中の幸いだった。直撃ではなかったのだろう。
会心の当たりならば、セツナの背骨は粉々になっていてもおかしくはない。
なにせ、鬼は、
(いや――)
右前方へとつんのめるようにして地面を転がりながら、セツナは、致命傷にならなかったことへの疑問を禁じえなかった。
皇魔には、死体とはいえ硬い筋肉に覆われた物体を無残に破壊するだけの力があるのだ。その鬼の一撃を受けてなお意識を保っていられるのは、常識的に考えればありえないことのように思われた。意識が消し飛んでもおかしくはない。
(なら、これはなんだ?)
自問自答をしている余裕はない。
背後からの追撃を嫌ったセツナは、数度そのまま転がると勢いよく飛び起きた。それと同時に、前方の鬼たちが一斉に地を蹴るのを目撃する。それだけではない。左右の建物の屋根上に居並ぶ化け物たちも、後方から追い
獰猛な獣たちの合唱にも似た
聴覚が狂いかねないほどの絶叫。
それは威嚇などではない。
それそのものが攻撃なのではないかと思えてならなかった。
セツナには、耳を塞ぐこともできないのだ。両手は矛を持つために必要である。片手で片方の耳を塞ぐこともできたが、それでは大差がないだろうと判断した。そして、仮に耳をふさいだところで、どうなるものでもあるまい。
それに、皇魔の攻撃手段は大声だけではない。
むしろ、その強靭な肉体から繰り出される打撃にこそ注意を払うべきだった。その身軽さにも目を見張るものがある。
速度と力が合わされば、破壊力は倍増する。
眼前に、鬼の顔があった。
真紅の眼光が、視界を染める。
セツナは咄嗟に矛を振り上げようとしたが、それより速く、皇魔の拳が彼の腹部を抉っていた。重い一撃だった。内臓がいかれるだけではすまないほどの衝撃と激痛が、セツナの全身を揺らす。胃の内容物が逆流し、胃液が喉を焼いた。
しかも、それだけでは終わらない。
セツナの目の前が真っ黒になった。鬼の掌がセツナの頭を
「おおおっ!」
強引に上体を捻って繰り出した矛の一閃は、空を切ったかのような手応えのなさをセツナにもたらしたが、彼は不安を抱きもしなかった。
いまさら、矛の力を疑う必要もない。
化け物の
セツナの確信を後押しする。
皇魔は絶命した。が、結果を見届ける余裕はなかった。
殺気は、いまもなお、全周囲から迫ってきてるのだ。
セツナは、鬼の手を引き剥がすと、矛を持ち直しながら左前方に向かって跳躍した。
瞬間、視界の片隅で鬼の亡骸がくずおれようとしたが、その後方にいたのであろう化け物たちが、なんの
(よく見える!)
セツナは、眼下の光景に目を見開いていた。
数え切れないほどの化け物が、狭い路地に
そしてそれらがある程度の統率の元に動いているのが見て取れた。
指揮官でもいるのだろうか。
だとすれば、指揮官さえ倒してしまえば、状況は好転するのだろうか。
(どうかな)
セツナは、自分の考えに疑問を持った。
鬼たちが同胞の死体を損壊するくらいなんとも思わないのは、これまでの行動で理解できることだ。仲間意識はあるのだろうが、邪魔になれば容赦なく切り捨てることもできるようだ。つまり、指揮官がいなくなろうとも、関係ないのではないか。
しかも、皇魔は、なにも路地だけにいるわけではなかった。
家屋の屋根の上に居並ぶその姿は、自分の出番を待っているかのようですらあった。こちらが
いずれにせよ、すべての鬼を相手にするのは一苦労だ。
もっとも、先の戦いでセツナが殺した人数に比べれば、遥かに少ないのだが。
(なら、大したことねーよな!)
自分に言い聞かせるようにつぶやいて、セツナは、皇魔たちが追い縋るように飛び掛ってくるのを気配だけで認識した。
音は、聞こえなかった。
先程から聴覚は狂ったままなのだ。
どこか感覚がおかしいのはそのせいだろう。しかし、その遊離したような意識の中で、セツナは、口の
「行くぜ!」
なにか、
セツナは、鬼が待ち構える路上へと落下する最中、黒き矛を旋回させた。後方から迫り来る気配へと、切っ先を突きつける。今度は、十分な手応えがセツナの意識を
化け物が悲鳴を発したのかどうか。
矛に伝わる衝撃は、セツナがその皇魔を殺し損ねたことを示していた。もっとも、セツナとしてはそれで十分だった。
今の一撃は、追い縋る連中への牽制に過ぎない。
着地へと至る数瞬、セツナは、再び矛を旋回させるように前方に向けた。眼の前には、セツナを迎撃しようとするものと、こちらに飛びかかろうとするものとでごった返していた。その数多の殺気たるや、幾重にも交じり合ってものむせ返るくらいに重苦しい。
「
怒号とともに矛を振るう。
セツナの視界を切り開いた漆黒の軌跡は、こちらへと
どす黒くもあざやかな液体が、セツナの目の前を
しかし、その手がセツナに触れることはなかった。
次の一閃が、その鬼の本体を真一文字に斬り裂いたからだ。
だが、それで止むような皇魔の攻勢ではなかった。
正に
冷ややかな狂気が、セツナの感覚を研ぎ澄ませていく。
鬼どもの
セツナが動きを止めたのは、どれほどの時間が経過してからだろう。
十数体の皇魔が死体と化したのだ。一分や二分は過ぎ去ったのかもしれない。数十秒ということもありえるが、確信はなかった。
「なんだ……?」
セツナは、皇魔たちがいつの間にかこちらを遠巻きに包囲するような布陣を取っていることに気づいた。
さっきまでの怒涛の如き大攻勢はどこへやら、円を描くように居並んだ鬼たちは、まるでこちらの出方を
鬼どもは、一様にこちらを注視しているだけだ。
不意に、鬼の角が発光した。
「まさか……」
セツナの
その破壊力を思い出して、セツナは、内心悲鳴を上げていた。
この場にいるすべての皇魔の角が、青白い光を帯びていた。そして、鬼たちが一斉にその大きな口を開く。
圧倒的な咆哮と爆発的な閃光が、セツナの視界を青白く染め上げた。
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