39 シークレット・ノート④


 ボクとボクに笑いかける少女の間には、人ごみという大きな障壁があった。


 彼女はボクが必死に追いかけているのに目もくれず、踵を返して向こう側に行ってしまう。慌てて「すみません」と人ごみを押しのけながら彼女を追いかけるボクはもう、難しいことは考えられなかった。なぜ夢の中で出会った彼女がそこにいるのか、彼女は悠馬と関係があるのか、なんで自分がこんなに必死に彼女を追いかけているのか、何もわからないのにその背中を一心不乱に求め続ける。


 一つ言えることは、この時は錯覚していたのだ。ずっと遠くにいるあの少女の正体が、ひょっとしたら悠馬本人ではないのかと思い込んでいた。まるで何者かに、そう認識する暗示をかけられてしまったかのように。


「待ってっ……」

 人ごみを抜けきった時、彼女は数十メートルほど前の交差点にいた。ボクは肺が千切れそうになるまで、病み上がりの体で駆け続ける。


 体を酷使し尽くしてやっと追いつきそうになった時、目の前には見覚えのある景色が広がっていた。


 ここは、悠馬と約束を交わした思い出の場所。

 ボクはぜぇぜぇと息を切らしながら、一歩一歩石段を登っていく。登り切った時にはすっかり嘔気に支配されていて、倒れそうになりながらも鳥居を抜けた。


 賽銭箱の隣にあるベンチで、少女は薄笑いを浮かべて座っていた。


「……君はっ……誰なの……?悠馬なの……?」


 ボクは息を乱しながら、地面に腰をついて、掠れて消えてしまいそうな声で彼女に話しかける。


 少女はそんなボクを見て、ふふふと不気味な笑いを送った。

 その笑い方はまるで魂がこもっていない、あやかしが出しているみたいな音だった。いや違う。

 妖、ではない。

 この時ボクはようやくこの少女が『悠馬ではない』と確信できた。

 ボクはずっと、夢に出没して心をかき回してきた少女の正体を、悠馬が女体化した存在だと勘違いしていたのだ。


 そもそも彼女は、人間ではなかったのだ。


 日が沈み切って、空は完全に暗くなった。

 突然、強い風が吹きつける。360度全ての方向が風上だった。寒波に揉まれて全身に鳥肌が立ったかと思うと、今度は目の前で青白い光が発光する。

 まるで焚火を炊いているかのような熱気とかび臭い線香のような匂いが、ボクを包み込んだ。


 そして君は、本当の姿を見せた。

 中学生くらいの少女の見た目をしていた。ボクに近い年齢に見えるけれど、夢の中に登場した、さっきまでの少女とは明らかに違う容姿だった。

 いつか絵本で見たかぐや姫のような着物を纏い、背後には魚のひれのような布が垂れさがっている。その着物の随所が青白い炎で燃え続けているが灰にはならず、燃え広がりもせず、ただ彼女の肌を白く照らしている。

 伏目がちになってその場に佇む少女の目からは、細長い睫毛が垂れさがっている。


「やっと現実ここで会えましたね。ハルくん」


 ボクの目の前にいる少女……もとい得体の知れない怪異は、この緊張した雰囲気に似合わない、陽気な笑顔でボクに微笑みかけた。


 そんな彼女を前にして「な、なに……?」と足を震わせるのが、その時のボクの精一杯だった。


「……わたしはこの地域に憑いているものです。君たち風に、簡単に言えば、神様みたいな存在とでも思っていてください」

 ボクはすっかり面食らって、アニメのキャラクターのように肘をつねってみたりしたが、彼女は「夢じゃないですよ?」と笑った。


 ボクは観念して、この状況を受け入れることにした。

「……ボクをどうするつもり?」

「わたしはハルくんの強い願いに反応したのです。そして、夢の中で君と出会ったのです」

「もしかして、夢の中に出てきた悠馬は……」

「はい。私が君の夢の中に侵入して悠馬くんを装っていました」

 にっこりと笑いかける少女の瞳には、青い炎が反射している。

「夢の中でハルくんの深層心理を覗き見させてもらいましたよ。ハルくんは今、絶対に叶わない恋心を抱えていますよね?」


 ボクは唾を飲み込んだ。この神様を自称する少女には、どこまで筒抜けているのだろうか。

 彼女の、ボクが叶わない恋心を抱えているという指摘を聞いた瞬間、確かに頭の中に悠馬の顔を想像してしまったのだ。

 悠馬のことを考えると胸が苦しくて、耐えられなくて、でも悠馬は男だから一生親友以上にはなれなくて、絶対に結ばれなくて、だからボクは夢に逃げるしかなかったのだ。


「……わたしならその願い、助けてあげられますよ」

「ほんとうに?」

 ボクの瞳孔が開いた。

「はい。そのかわり、ハルくんにとって最も大事なものを対価に頂きます」

 ボクはきょとんとした顔で、腰を抜かしながら神様をただ見つめていた。


「あはは。いきなり説明されてもわからないですよね。私は人間の『願い』を栄養源にして、千年以上生きてるんです。人間は賽銭箱の前で祈りを捧げますよね?ああいうふうな祈りを通じて、わたしたちは人の願いのエネルギーを食って生きてたんです。でも、最近は信仰が弱くなって私の力もすっかり衰退してしまった。だから私は『願いの銀行』をやっているんです。私の持つ超常的な力で人間の過去の情報を改竄かいざんして、人間が願いを叶えられる手助けをしてあげる。そのかわり返済期限が過ぎたら改竄した内容は全部元通りになる。さらに利子として、その人間にとって“最も大事なもの”を奪う。それを栄養源にして私は豊かになっていくんです」


 首筋に汗が三本伝っているのを感じる。

 こんな話を信じろというほうがおかしいのかもしれない。でもボクは今見てしまっている。超常的な彼女の存在を。

 きっと彼女は本当に神様で、ボクの願いを叶えにやって来たんだ。

 彼女が言うには、ボクが願いを叶えて期限が終わった瞬間、“最も大事なもの”が奪われてしまうらしい。


「あの、君が奪う“最も大事なもの”ってもしかして……」

 僕は左胸に手を押し当てた。

「はい。ほとんどの場合は命を対価に頂きます。私から願いを借りるような人間はたいていが自暴自棄になっているのですが……一度願いを叶えて幸福を覚えてしまうと、そのような人間のほとんどは生きていくことに希望を見い出してしまうんです。そして、その芽生えた希望を刈り取るとまた、美味しいんですよ。わたしは強い願いを奪う時ほど元気になるから、最も大事なものを奪うという契約をしているのです」


 少女は、自らの唇に人差し指を押し当てた。

 彼女の発言にはついていけない。そもそも人の道理など分かり合えないのだろう。人間の心を弄び、それを奪うことに罪の意識も感じないどころか自らの欲を満たすための糧にする。一見優しそうな口調で無邪気にすら見えるけれど、きっとこの神様は容赦なんて知らないのだ。


「あ、ところでハルくんの願いはもう知ってますよ。女の子になって、悠馬くんと女の子同士の学園生活を送ることなんでしょう?」

「なっ!なんでそれをっ!?」

「深層心理を覗き見た。そう言ったでしょう?どうです、私との契約に乗れば、あなたたちを生まれた時から女の子だったことに改竄できます。今の記憶と自我を残したまま。」


 ……彼女の言うとおりだった。

 実はボクは、昔から女の子になりたがっていた。恋愛対象は女性だけれど、かわいいものにずっと魅力を感じていて、女の子専用のアイテムを身に着けて生きていきたいと、ずっとそう願っていた。

 自分が男である以上、女の子のように着飾るのは社会的に許されない。最近では女性として生きていく男の人もいるみたいだけれど、当事者だからこそわかる。実際にカミングアウトできるような人間は、そんな願望を抱いているうちの一握りにも満たないのだ。

 それにボクが女の子として生きるのを許されたからといって、悠馬がボクを好きになってくれる可能性は限りなくゼロに近い。そう考えると、彼女の提案は確かに、残酷なほどに魅力的かもしれない。


「ところで。……もしかして君がボクの夢に侵入したのは、ボクの悠馬への恋心を煽って、この取引にイエスと言わせるため?」

「さて、どうでしょうね」

 彼女ははぐらかした。謎は多いし、きっと僕はいいように利用されているのだろうけれど、ボクにとっては悠馬と女の子同士で仲良くできるっていうのが何よりも魅力的に見えた。

 その幸せの末に、死んじゃってもいいくらいには。


 結局ボクは、数日悩んだ末にその契約を引き受けた。

 期間は、中学生一年生の春から夏の終わりまで。その間ボクたちは女の子として過ごすことができる。


 ちなみに、改変の副作用として、ボクたちだけではなくクラス全員も女子に書き換えられてしまうことになった。神様の能力も器用ではないらしく、『男子校の中に二人だけ女子がいる』みたいな、現実的に考えて特殊な状況を作り出すことはできないそうだ。その結果、クラス全員が過去改変に巻き込まれて、僕たちのクラスは女子クラスになってしまった。



 ところでボクは、このくだらなくて自分勝手な賭けを引き受けたのにも関わらず、自ら悠馬の隣にいるための免罪符を設けることにした。


 それが『悠馬に本気で好かれないこと』だ。

 彼を巻き込んでしまったくせに立派なことを言えた立場でないのをわかっているが、ボクがいなくなった後、大好きな悠馬に未練を残してしまうのが嫌だった。

 自分でも格好つけているだけだというのはわかっていた。悠馬のためを思うのなら、最初からこんな賭けを承諾しなければいいのに。ボクってほんとうに、おばかだね。


 だから、最後まで遊びだ。どれだけ楽しくても、ボクたちがやるのは恋愛でなければいけない。だから告白とかキスしあったりとかは……果てるまで絶対にお預けだ。悠馬が本気でボクを好きになった瞬間、きっと彼の人生を長い間縛り続けてしまうだろう。……それがものすごく嫌だった。



 まあ結局それも失敗に終わって、ボクは悠馬ひなのちゃんを本気で恋に落としてしまったみたいだけどね。

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