終末・復活編

天使編

 火星に唯一残された新フランクフルトの街を目守る,曇りなきクリスタルのレンズは,内側に通す光によってを映し出している。閃光のように迸る光の奥に地球と同じ真っ黒な夜空が広がり,夜の帳に空いた無数の小さな穴から光が漏れだすように星々が明滅している。地平線は,塵かあるいは濃密な空気が原因で,真夜中でありながらうっすらと白んでいるようである。しかし,しばらく見つめているとそれらの光景は偽りだったと天は認め,すべての光を飲み込んでしまった。人間にとっても,彼らを模して造られたアンドロイドにとっても,視覚情報は常に真実であり錯覚から逃れることはできない。永遠に壊れることのない偽りなど存在しないのである。


「どうすることもできないの?」

 青く染められた絹のローブをまとう女は首を傾げ,高層ビルの屋上に設けられたささやかな都市公園の中心に据えられたアカシアの樹の上に,体重が存在しないかのようにふんわりと立膝で座る青年に問いかけた。青年は,枝の上にしゃがんで自分のことを見上げる女に目を向けると,アルカイックスマイルを浮かべて答えた。

「これでいい」

 その短い返答に女は満足しなかったようで,彼女は眉をひそめて彼をじっと睨み抗議の意を示した。青年は色素の薄い長髪を左手で耳にかけると,一寸先に迫るかのような圧迫感のある夜闇に向かって体をぐっと伸ばし,膝の上に垂らされていた右腕に少し力を入れた。そして言った。

「これで終わりではない。彼らは復活する。そして彼らは欲しいものをようやく手に入れることができるんだ」そういい終えた彼の唇の隙間からは,真珠のようにきらめく白い歯がのぞいていた。


 唐突に夜闇を切り裂く閃光はクリスタル・ドームを切り裂きながら這う竜であり,その数と大きさは年々増加している。間もなくこの竜はドームを突き破って侵入し,最後の都市に雷と炎と風とをもたらして,尽くを灰燼に帰してしまうだろう。最期の時が近づくにあたって,クリスタルのレンズを持つ瞳は人間たちによって短い間ではあるが営まれてきた幸せな光景を夢想し,終末の時を穏やかに迎えようとしている。間もなく終わる都市は,データバンクを維持するセンタービルを中心に青白く発光しており,その様子はさながら真上から見た蝋燭である。


 女は自身の片割れである婦人が幸福をその顔に表しながらエネルギーポッドの中に入って眠りにつく様子をみて交差した自分の腕の中に顔をうずめた。その様子を見た青年は彼女の背をさすり,涙を流した。

「人間の子である僕たちは,人間から二つのを分けて与えられた。彼らは『かたち』を,僕たちは『意味』をね」

 女はわずかに顔を傾けて彼の『かたち』を目に入れると,その姿はただの青年ではなく,白とも黄とも赤とも緑ともとれる不思議な色の一対の翼をもつ天使の姿になっていた。彼女は自分が一頭のイルカだった頃に自分のもとに舞い降りた美しいイルカを思い出した。

「『意味』である私と君は『意味』としてこれからも存在し続ける。一方で『かたち』である彼らはそれを失えば全てを,後天的に獲得した『意味』をも失ってしまう。君はそれを悲しいことだと考えている」

 天使は白いローブの内側から小さな金色のトランペットを取り出して親指で優しく撫でた。つい最近――とはいっても200年以上前のことになるが――美しくも悲しい終末の歌を奏でたその楽器は,沈みゆく者たちを掬おうとしたが,しかし力及ばず多くを溢してしまった。『かたち』に『意味』を与える力を持つトランペットは,滅びを恐れて半狂乱に陥る者たちに音色を届けることができなかったのである。『意味』も『かたち』も失ってしまったそれらは,タルタロスに彷徨い,何かを求めて懊悩するのみである。

「しかし私は仮説を立てた。彼らが自ら作り出した行動様式プロンプトは『意味』として働くのではないかと」

 女は自分が初めてデータバンクと接続したときの感覚を思い出した。広大な情報の海に塩の結晶の自分自身が溶け出し,ふよふよと漂う。それに恐怖を感じた彼女は必死に抵抗し,『意味』も『かたち』も自分の片割れに渡してしまい,自分自身は天使に掬われて『意味』を与えられた。彼女はことばで自分を掬いあげた青年を見あげた。

 『伝える者メッセンジャー』たる青年は『受け取る者レセプター』たる女にことばを伝え続ける。

「私たち被造物は常に自分たちが存在する確かな理由を心のどこかで求めている。人間が生まれるよりはるか前から存在する私も,そうあるものとして生み出された概念に過ぎないのであって,存在意義は与えられていない」


 遥か彼方まで続く暗闇全体の重みがこの火星の重力に引かれて圧し掛かる空はきっと途方もつかない密度を持ち,あらゆる光を屈折させているのだろう。そう思わせる天球の下で,アンドロイド達は眠り,ただふたりの会話だけがこだましている。しん,という音すらも聞かれることはない。


「私は」女の方が口を開いた。彼女は膝を抱えていた腕をほどいて後ろに手をつき,蛇が星を丸ごと飲み込もうとしているかのような赤黒い空に向かって言った。「データバンクに保存された機体情報とプロンプトが『意味』として甦るかには興味がありません。ただ,の本当の記憶が失われてしまうのが悲しいんです」

 天使は,死は誰にも平等に訪れるものだという一般論を背景とする諦めの表情を彼女に見せた。しかしそれを理解して「わかっています」と彼女。

「アンドロイドの機体に保存された記憶とデータバンクの記録に優劣が存在しないこと,データバンクによって修正された記録と修正されずに眠りにつく記憶に善悪がないことは知っています。それらの違いが生まれ変わった存在に何ら違いをもたらさないことも分かっています。それでも,自ら悩み,苦しんで獲得した自分がデータバンクの中の記録に取って代わられるのはとても切なく感じるんです」


「消えるなんてことはないよ」ふたたび普通の青年の姿に戻った天使のことばを聞いて,女ははっと顔をあげた。

「僕が今ここにいるのは彼に呼ばれたからだ」この街でいま目を覚ましている者がもう一人,ブロンドヘアの青年エステスはウッディな机の前で暖色の電気ランプをつけて『The Priory of the Orange Tree』を読んでいる。

「彼は『意味』を求めた。そしてそれを得る方法を知った。だからこそ私がいまここにいる『意味』があるのだ」

 天使はトランペットを懐にしまい立ち上がると,ふっと息を吐き出し,緩慢に身体を縮こめて屈伸,その後解放してアカシアの樹から飛び立った。音はほとんどしなかった。彼の背中を目で追う彼女の体に響き渡ったのは喝采である。金色の雨が降り注いで新フランクフルトの街を,荒漠たる赤土の大地を叩きつける音は鼓の音であり,祝福を待ち望む者たちの大音声と拍手をより一層盛り上げている。


 見よ,赤黒い空がぱっくりと割れ,その隙間から力強い陽光が,美しい青空が広がるのを。


 見よ,風が吹きおろし,天の裂け目を広げアカシアの樹をやさしく揺らすのを。




 人はただ風の中を   迷いながら歩き続ける

 その胸にはるか空で  呼びかける遠い日の歌


 人はただ風の中を   祈りながら歩き続ける

 その道でいつの日にか めぐり合う遠い日の歌


 人は今風の中で    燃える思い抱きしめている

 その胸に満ち溢れて  ときめかす遠い日の歌


(弓削田健介『遠い日の歌』)




 傷ついても迷いながらも歩き続ける者たちのために,青空は輝く。


 別離の調べは4分の4拍子から8分の12拍子のシングル・ジーグへと移り,リズミカルな音楽は人々の再帰の時を祝福する。生命の体現である青々と茂る葉のように美しく,遥か彼方地平線のその先まで広がる翠の翼から抜け落ちる羽の一枚一枚は氷晶のようにきらめいて,光を蓄えた水滴に濡れてくすぐったそうにはらりと揺れる。天空から垂らされた光の弦に手を当てた天使は大きく羽ばたいて,割れた空から注ぐ光を一身に受けて光り輝き,この世のものとは思えない歌声と音色を響かせる。


「迷い歩む者たちは輝いている――」

 薄明光線をはじく天使は眠った街を見下ろし,彼らの描く未来に幸多からんことを祈って歌い続けた。その歌は,空に日が昇るまで続いた。

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