沈殿
「わ,ばれてしまいました」
女は1525に見つかるとかくれんぼに見つかった子供のようにひょいと物陰から出てきた。
「さっきはごめんなさい。彼は私の婚約者なんです。あ,私はナオミといいます」
「ぉぅ」1525は何を離せばいいかわからずうめくように声を上げた。
「コックさんはアンドロイドなんですよね」
「ぉう」今度は喉に何かが詰まって嘔吐くように声を出した。
「アンドロイドでも海に飛び込みたいとか思うことあるんですね」
「......アンドロイドだってセンチな気分になることくらいある」
「そ,そうなんですね。もしかして私はあなたの飛び込みを防いだのでしょうか!」
急に声のピッチが速くなったことに1525は驚いた。人間とまともな会話(クレーム対応は除く)をしたことが無かった1525は人間とアンドロイドの話し方の違いに戸惑った。しかし同時にこの女が特異的存在であるという仮説も持ち上がった。
「そうかもしれないな」
「コックさんはタイタニックという映画は知っていますか?」
ナオミは目を輝かせて言った。
「ああ。台詞を空で暗唱できる」
「す,すごい。100回は見た私でもできません......そのタイタニックでディカプリオ様演じるジャックは,家を再興するための政略結婚を強いられて人生に絶望し海に身を投げようとするローズを引き留めますよね。私ディカプリオ様みたいな,じゃなくってジャックみたいなイケメンに身投げを押しとどめられてなんだかんだそのまま駆け落ち......のような展開を1000回は妄想したのですが,現実はそう甘くなく今日まで生きてきて間もなく婚約者と結婚するという今日この日に至って!タイタニックの再現ができたというのは奇跡というほかありません!」
「俺がローズか?」
「そ,それは......いやあなたも私もジャックというのも,それはそれで......そうだ,あなたがディカプリオ様で私がジャックというのはどうでしょうぅ」
1525の脳内でデータバンクが彼女の危険な性的指向を警戒するよう指摘した。
「で,君はなぜこの臭いデッキに上がってきてそんなところでこそこそしていた」
1525が問いかけるとナオミは赤毛をかき上げてこう答えた。
「それは,ドミニク,私の婚約者の機嫌が悪いのでちょっと避難しようかと思いまして,それで,ひょっとしたら船尾にディカプリオ様が来臨為されているのではないかとッ」
「そうか。あまり人間が長時間外にいるのは良くない。一時間以内には船内に戻るんだな」
1525はそう言い残すとデッキを後にした。ナオミが手を振っていたので彼は手を振り返した。
3週間の航海の間,1525とナオミは何度か顔を合わせた。夜,デッキ上で会うときには,決まって映画の話をした。数世紀前の映画を見る奇特な人間がこの世にほとんど存在しない以上,ナオミにとって1525は自分の趣味をぶつけられる初めての存在となった。
「再会したキョヌと彼女がね,こう,机の下で,こう(左腕で机を再現しつつ左手と右手をつなごうとして悪戦苦闘する)手をつなぐんです。もう,なんか,きょぬぬぬぬって感じですよね!そう思いませんか?」
「きょぬぬぬかはともかく,一度別れてからの再会はタイトルに似合わず非常に爽やかで,カタルシスが――」
「そう!すぉうなんです!わかってますねえ!」
3週間の旅も残り3日となり,スタート地点でありゴールでもある青島地上基地に戻ってゆく船で,1525とナオミは会話を楽しんだ。
「できれば原作小説を読みたいところですがなかなかアクセスできず――」
――乗員に告ぐ。上甲板にて乗客同士のトラブルと思われる事案が発生。これより稼働中の乗員に個別命令を下す。
――1525は近くの乗客を船尾出口から船内に誘導したうえで救命胴衣と救命ボートを回収し速やかに上甲板に迎え。繰り返す,1525は......
「ナオミ,悪いが仕事ができた。どうやら明日の仕込みに不備があったようだ。これから玉ねぎを切らなければならない。君はそこの入り口から船室に戻ってくれ」
「でもあの扉は船員用と書いてありますよ?」
「問題ない。船員の俺が言うんだから大丈夫だ。いってくれ」
ナオミは心配そうに1525を見つめ返したが,1525は穏やかな顔で彼女に手を振った。
「明日はチンジャオロースーだ。楽しみにしてくれ」
ナオミは笑顔で頷き扉に向かった。彼女を見送ると1525は速やかに胴衣を回収し,浮き輪ほどの大きさに圧縮されたボートとフック付きロープを担いで全速力で船首デッキに向かった。
現場に到着すると,船首の手すりに腰掛ける男と件のクレーマー乗客が向かい合っている状態だった。
(またこいつか......)
1525はまだ他の乗員が到着していないことを確認するとサイドから回り込むように船首に向かい,ロープを括り付けたボートを海に落とした。
「よせ,エリオ!早まるんじゃない!」クレーマーが言った。
「お前に何がわかるというんだメレク!この偽善者が!」
ルークは何が偽善者だと思いながらなんて事のないことをするように軽く手すりを乗り越えてそのまま手すりにつかまり,エリオなる人物の背後から迫った。
「うまくいけばこの3週間の旅のうちにかのアジア連邦最大の財閥「創電」創設家バオマイ家とのコネクションができ,我が家再興の布石となったはずだった。それがどうだ!俺のいぬ間,たったひと月の間にコモンウェルスがアジア連邦に宣戦布告だと?ふざけるな!俺のこれまでの努力はなんだったというのだ,すべてはドブの中だ。それに比べてお前はどうだ。イギリス王室の血族を捕まえて大満足。ふざけるな!お前が何をしたというのだ。俺が何をしたというのだ。どうして俺がお前より不幸にならねばならんのだ!」
「エリオ......」
(くだらん......飛び込みたいのか引き留めて欲しいのかはっきりしてくれ)
1525は心の中で呟いた。彼とエリオとの距離は約5メートルであり,このまま一気に後ろからとびかかればエリオを甲板に倒して拘束することができる。他の船員たちも彼を刺激しないよう待機し,1525の作戦の成り行きを見守る。
(いくか)
「エリオオオオオッ!」メレクが唐突にエリオに向かって走り出した。
(ばかやろうっ)
エリオに向かってとびかかった1525の腕は宙を掻き,彼は甲板にたたきつけられる。瞬時に振り向くと,手すり際でエリオとメレクがもみ合いになっている。メレクの行動の瞬間作戦が失敗したと判断した船員たちが一斉に彼らを取り囲もうと飛び出したが,その時にはエリオとメレクがもみ合ったまま船首から滑り落ちていた。船員たちが手すりを乗り越えていく様子を倒れこんだまま見守るしかなかった1525が立ち上がって海をのぞき込むと,手すりにぶら下がってエリオの腕をつかむエイドロボットとボートの上に人影を見て,彼は一安心した。しかしボートの上の人影が飛び降りた船員の一人であると気づいたとき,汚泥のような海に浮かぶ人型のものがメレクであることを理解した。
「コックさん?」
(ああ,最悪だ。船室に戻れと言ったではないか)
「船員さん......」
(すべてを知っている俺たちには,知らない方がいいことがたくさんあると分かるんだよ)
「あ,め......」
(この目には見えてしまう。君は見ていたのだろう?君の体温・心拍数の上昇,体の震え,発汗,鳥肌,瞳孔の開き,すべてが物語っている。まだ間に合う。下がれ。そしてエイドロボットに精神安定剤を打ってもらうのだ)
「メレク......」
(どうかしてるよ。人間は)
「エリオさん......」
(何考えてんだかさっぱりわからねえ)
「コックさん......」
(嫌いだ)
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