一章 若返りの薬(3)

 カシオが執務室から出ていくのを見届けて、ケイロスは執務机に向かった。


「本音を言えば、ヴォスキエロに動きが見えはじめたいま、お前に止めてほしくはない」


 ディノンは複雑な表情で口を引き結んだ。


 ケイロスはため息をついて机の脇の棚から一冊の分厚い本と取り出した。紐で綴じられたそれは、このギルドに所属する冒険者の情報が記された書類。その中からディノンのものを抜き取り、机に座った。さらに引き出しから小さな鑿と鎚、細い溝がある台を取り出して机の上に置いた。


「ライセンスを」


 ディノンはソファーから立ち上がり、懐から一枚のカードを取り出した。金属製の表面にはディノンの名前が刻まれ、裏面には所属ギルドの所在名と印章が刻まれていて、これが冒険者としての身分証明書になっていた。


 カードを受け取ったケイロスは、溝の上にカードの中央が来るように台の上に乗せた。鑿をあて鎚で打ち込むと、カードは溝にめり込んで真っ二つに折れた。


「これで、お前は冒険者ではなくなった」


 静かな声で言いながら、ケイロスは机の上の燭台の火にディノンの書類の端を当てた。火のついた書類を打ち砕いたカードの上に置いて、黒く燃えるのを眺めた。


「新しい身分証を発行できるよう手配したから、役所に行けばすぐ受け取れるはずだ。それと……」


 ケイロスは机の一番下の大きな引き出しを開け、ひと抱ほどの箱を取り出した。頑丈そうな金属の箱は金庫で、ダイヤルを回して開けると、中から金貨二枚と、銀貨と銅貨を適当に取ってディノンの目の前に置いた。


「これは俺からの餞別だ。いちおう国からも、これまでのお前の働きに見合った報奨金が出ると思うが、それには多少時間がかかるだろうから」

「いいのか?」

「お前のことだ。いろんな奴に酒を奢って、貯金なんてしてないだろ?」


 ディノンは乾いた笑い声を上げた。


 ディノンは借金をしないが、貯金もしない。稼いだ金は仕事終わりの打ち上げで使ってしまう。おもに一緒に仕事をした冒険者仲間に酒を奢るため、その浪費は甚だしいものだった。


「いろんな連中に酒を奢る癖は直せ。これからできるだけ金は貯めるようにしろよ。いまのお前は無職なんだから」

「へい……」


 うなだれるように頷いて、ディノンはありがたく金を頂いた。


「これからどうするつもりだ?」

「そうだなぁ」


 しばらく考え込み、ふと故郷を思い出す。


「国からの報奨金がどんくらい出るかによるが、実家に帰って爺ちゃんの道場でも再建するかな」

「お前、剣士だったお爺さんに育てられたんだったか」

「ああ」


 ディノンは幼いころに両親を亡くしていた。ディノンの生まれ故郷はソルリアム近郊にあった小さな村だったが、ある日、ソルリアムに奇襲を仕掛けようとヴォスキエロ軍が大山脈を越えて現れ、近隣にあったディノンの村が襲われた。その襲撃でディノンは両親を亡くし、同じく家族を失った幼馴染の女の子と一緒に、王都近郊の村で剣術道場を営んでいた祖父に引き取られた。その祖父も、ディノンが冒険者になった次の年に、病で亡くなっていた。


「いいんじゃないか。お前ならいい師範になれる」

「どうだかな。――あー、でも、しばらくはまだ宿舎を使わせてくれ。早いうちに引っ越すから」

「もちろん構わん。好きなだけ使ってくれ」

「助かる。そんじゃ、もう行くぜ。長い間、世話になった」

「たまには顔を見せに来い」

「あいよ。そんじゃな」


 軽く手を振って退室し、人もまばらになったギルド会館を静かに出ていった。


 外は建物や街灯の明かりが雑踏を作った石畳の通りを照らし、頭上は光の砂を散りばめたような星空が広がっていた。ディノンはギルド会館を一瞥すると、背を向けて役所のほうに向かった。


 城塞都市ソルリアムは二重の堅牢な城壁が囲う大規模な都市で、魔界へ通じる岳裂き山道の目の前にも関わらず多くの住民が暮らしている。中央区画には役所と並んでソルリアム軍本部とギルド会館が建ち、その周囲に居住区と市場が広がり、図書館や大浴場などの公共施設も複数設けられていた。また、大山脈の豊富な資源を求めて物好きな貴族や商人も多く暮らしていて、街の雰囲気は非常に華やかで、通りを歩く人々も明るく賑わっていた。


 ディノンは閉館間際で人の出入りがまばらになっていた役所に駆け込み、新しく身分証を発行してもらった。役所を出るころには夜もだいぶ更けており、腹を空かせたディノンは宿舎には帰らず繁華街へ向かった。


「――ディノン君?」


 声をかけられたのは華やかな灯りを目の前に認めたときだった。振り返るとソルリアム軍の上級士官の正装である白と青の装束をまとった二十半ばほどの女が立っていた。青みを帯びた白銀の長い髪が街灯のぼんやりとした灯りに照らされてきらきらと輝き、青い瞳は驚いたように瞬いていた。


 ディノンも驚いた顔で彼女を見返した。


「レミル。お前、戻ってたのか?」


 頷いた女――レミルはディノンの幼馴染だった。年はディノンの二つ下で、幼いころディノンの両親とともに魔族兵に家族を殺されている。ディノンの祖父のもとで育てられ、ともに剣を習った。剣技に優れ、十八歳のころにソルリアム軍に入り、数々の功績を上げて聖騎士の称号を国から与えられた。現在は二年前にディノンが落としたシュベート城の防衛の任務についていると聞いていたが。


「ちょっと用事があって戻ってきたの。ディノン君は、こんな夜中になにしてるの?」

「ああ、いや……。実は俺、今日で冒険者を引退してな。さっき役所に行って新しい身分証をもらってきたんだ」


 レミルは驚愕したように目を見開いた。


「引退? なんで?」


 ディノンは苦笑して、自分の身体を示すように両手を広げてみせた。


「お前も知ってるだろ。俺、こんなんだから」


 そっか、と察したレミルは表情を曇らせた。


「結局、治らなかったんだね」


 ああ、とディノンは苦笑する。


「でも冒険者を止めてどうするの?」

「爺ちゃんの道場を再建しようと思ってる」


 レミルの表情がぱぁっと明るくなった。


「いいじゃん。お爺ちゃんが死んじゃって門下生もいなくなっちゃったけど、ディノン君ならすぐ再建できるよ」

「あんま人に教えんの得意じゃねぇから不安だが」

「大丈夫。ディノン君なら、お爺ちゃんみたいないい師範になれる」

「爺ちゃん、いい師範だったか? たしかに化け物みたいに強かったけど」


 レミルは、むぅ、とむくれた。


「お爺ちゃんはいい師範だったよ。私の憧れなんだから」

「お前、爺ちゃん好きだもんな」

「好きぃ。ディノン君もお爺ちゃんみたいな、いいお年寄りになってね。私が全力で介護してあげるから。ご飯食べさせて、お着替えさせて、お風呂に入れて、おトイレにも連れて行ってあげる」

「それは嫌だ」


 レミルの冗談でひとしきり笑い、ディノンは繁華街を示した。


「これから飯食いに行くんだが、お前もどうだ?」

「行く!」


 と、元気よく答えたレミルだったが、なにか思い出したように瞬いて、力なくうなだれた。


「だ、ダメだ。このあと用事があるんだった」

「こんな夜遅くに? 仕事か?」

「そんなところかな」


 レミルはすまなそうに両手を合わせた。


「ごめんね。また今度、食べに行こう。そのときは奢るから」

「ああ。仕事、頑張れよ」

「うん。じゃあね」


 陽気に手を振って、レミルは中央区画のほうへ駆け去っていった。それを見送りディノンは軽く息をついた。


「仕方ねぇ。一人寂しく飯でも食うかね」


 夜更けも近いというのに繁華街の通りにはまだ人出があった。通りの端には華やかな店が軒を連ね、人々はその前でたむろしている。


 ディノンは通りをしばらく歩いて、狭い路地に入り、そこにひっそりとたたずむ酒場に足を向けた。華やかが売りのほかの店とは異なり、うらぶれた雰囲気の店構えだが、ここはディノンの馴染みの店だった。


 押せば酷い音をたてる戸を開けると、もわっと煙草の煙がディノンの身体を包んだ。天井から吊るされた小さな灯りがぼんやりと中を照らし、客たちは思い思いに酒と料理を楽しんでいた。


「いらっしゃい」


 と、声をかけたのは、二十半ばほどの女。店の雰囲気に似合わぬ可憐な子で、艶やかな栗色の髪を後ろで結い上げ、ぱっちりとした瞳は濃い紫色をしている。この店の女将の娘で、名前はサラ。彼女はディノンを見るなり驚き、次いで嬉しそうに笑った。


「ディノン君、久しぶりぃ」


 彼女の声を聞いて、客たちが振り返った。


「ディノンだぁ? ――おお、ほんとにディノンだ。しばらくぶりだな」


 煙草を片手に手を振って胴間声を上げたのは中年の男。大山脈の麓にある鉱山で働く鉱夫の頭目で、店の隅で酒を飲みながら数人の酔漢たちと絵札を使った賭博をしていた。ディノンを振り返った彼らは、おどけるように笑った。


「まだくたばってなかったんか。この命知らずの冒険者が」

「あいにく、まだピンピンしてるぜ。あんたらこそ、こんな時間までこんな掃きだめにいていいのか? かみさんに殺されちまうぞ」

「掃きだめとは酷いこと言うね」


 笑い含みに言って、奥の厨房から女将が顔を出した。女とは思えない体格のよい女性だ。


「本当のことだろ。酒と料理がうまいことと、べっぴんな看板娘がいること以外は最低だからな。客もひでぇ連中ばかりだ」

「違ぇねぇ」


 ディノンの言葉に、客たちは大笑いしながら同意した。べっぴんと褒められたサラは照れたように赤くなり、それを見て女将は鼻を鳴らして肩をすくめた。


「褒めてんのかけなしてんのか……。今日もいつものでいいかい?」


 メニューを聞かれてディノンは頷く。


「ああ。それと、なんかおすすめのやつがあったら、それも頼むわ」

「あいよ。ちょいと待ってな」


 奥に向かった女将を見送り、ディノンはサラを見た。


「個室は空いてるか?」

「うん」


 この店には常連だけが知る個室がある。個室といっても、店の隅にある席に衝立を設けただけのものだが。


「なんだ、一緒に飲まねぇのか」

「悪いな。今日は一人で飲みたい気分なんだ。つか、あんたらいい加減帰れよ。マジでかみさんたちに殺されるぞ」

「これが終わったら帰るよ」


 そう言って男たちは絵札を振る。たいがいにしろよ、と笑い飛ばしてディノンは個室へ向かった。


 しばらくしてサラが酒と料理を運んできた。串に刺して炙った肉、きつね色にあがった揚げ物、乾燥させた腸詰肉を薄くスライスしたものと多種多様なチーズ、酢と香辛料に漬け込んだ野菜、熟れた果物が卓に並ぶ。酒はジョッキ一杯にそそがれた麦酒と、キープしておいたボトルワイン。


 そして、本日のおすすめと言って出されたのは、このあたりでは珍しい大きな海老の尾頭付き。開かれた背にチーズを乗せ、表面をこんがりと炙られていた。


「ほかになにかあったら呼んでね」

「ああ。あんがとさん」


 軽く手を振って去っていったサラを見送り、ディノンはジョッキを取った。


 そのときだった。

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