第16話 蒲公英
梅雨の合間の晴れた日の朝だった。
白抜き燕柄の紺絣の訪問着で しのぶさんが長谷浦兄弟の暮らす離れを訪ねてくる。
「……郁二郎さんは?」
かまちに迎えに出た幾三郎君を見上げる 三和土に立つ しのぶさん。
いつもより しっかりと結われた艶めかしい黒髪。
「兄は 今日は広河原の連隊へ。たぶん 明日まで帰らぬ筈ですが……」
幾三郎君の返答を聞いた瞬間 仄かに浮かぶ ほんの微かな安堵の色を ボクは見逃さなかった。幾三郎君は 気づいただろうか?
「……そう。なら 幾三郎君に お願いしたいんだけど 頼まれてくれないかしら?」
「僕で お役に立てるのなら」
「実は 母の墓参りに行きたいんだけど お供えが少し重くて」
「……分かりました。ご一緒します」
一瞬の逡巡の後 同行を申し出る幾三郎君。
本町の坂本家を出て 徒歩で西へと向かう しのぶさん。
昔ながらの和風建築が並ぶ路地を抜けて行く。光岡の旧城下町だった辺り。そう 稲荷町の裏側の込み入った旧市街。もしこの時代にもあるとすれば 七海堂がある辺り。
六月の明るい日差しと 梅雨の合間の噎せ返るような湿気。
細い石畳の道を並んで歩く2人。
「もうすぐ 母の命日だしね。……お彼岸は 坂本の家のお墓参りはするけど うちの墓参りまでする時間はないから」
日傘を挿し 少し前を歩く しのぶさんが 呟くように言う。
学帽を被り いつもの書生スタイルに 肩から下げた画帳 今日は鞄の代わりに預かった風呂敷包みを抱えた幾三郎君が続く。
「……まぁ
しのぶさんの呟き。
妾……。ボクの中で 少し事情が繋がる。しのぶさんは 妾の子。たぶん 坂本家の当主の人の。それで 早くに お母さんを亡くして 坂本家に引き取られたんだ。そう思うと なんとなく しのぶさんが 彼岸花や椿に 想いを寄せていた その背景が仄見える気もする。
─── チリーーン ───
何処か遠くから 早めに出された風鈴の音が聞こえてくる。
しのぶさんが 角を曲がる。ボクの目の前に映る 見知ったような景色。初めて ボクが この時代に来た時に歩いていた道。ボクの時代と よく似た稲荷町の裏路地 七海堂へと続く道に出る。
え? まさか 七海さんに出会うのか?
いや。そんなハズは無い。……けど もしかしたら 七海さんのご先祖には出会うかも? そんな ボクの期待とも 畏れともつかぬ気持ちとは関係なく しのぶさんは 七海堂の1つ前のブロックを北へと折れる。
回向院。
木製の小さな山門に小さな偏額の掲げられた小さな寺院。
門を入って右手に木造の本堂が見え 向かって左手 紫陽花の茂みの奥には あまり広いとは言い難い敷地に 粗末な墓石が群がるように犇めいている。
その墓地へと向かう飛び石のある細道の横 ちょうど墓地の入り口の所に 小ぶりな祠があり 赤い幔幕の奥に 石造りのお地蔵様が祀られている。
祠の手前に咲く1輪の
青い紫陽花の間を抜けて しのぶさんは 似たような小さな墓石の中から 目当ての区画へ。柄杓に汲んだ水で墓石を清め 白い花を供える しのぶさん。幾三郎君から受け取ったお供えを仏前に置き お線香を上げる。
黒髪の紺絣が墓前にしゃがみ込んだまま 手を合わせる。幾三郎君も 立ったままだけど 目を瞑り手を合わせる。幾三郎君が目を開けた後も しばらく続く 無言の時間。さすがの幾三郎君も 画帳を開いてスケッチを始めたりはしない。
「ありがとう。母に結婚のこととか 色々と伝えることができたわ」
ゆっくりと 立ち上がり しのぶさんは 次の区画へ。あれ? お母さんの墓参りって言ってたような……。幾三郎君も 少し疑問に思ったような雰囲気だけど 何言わず しのぶさんの後ろについていく。
2つ目の墓石を清めながら しのぶさんが言う。
「ごめんなさいね。母が芸者だった頃 友達だった芸者さんや お女郎さんのお墓なの。母に 供養を頼まれてたから……」
そう言って 小さな花を供え 線香を上げる。
その後 3つの墓石を巡り 最後は墓地の入り口のお地蔵様にも花を供え 線香を上げる。
「ねぇ……〈
しゃがんだ姿勢で お地蔵様に手を合わせた しのぶさんが 背後に立つ幾三郎君に ふと思い出したように呟く……潤んだような沁み透るような声で。その声は まるで祠の奥の暗がりから じわりと滲み出た聲のようにも ボクには聞こえたのだった。
「……いや。聞いたこと無いです」
「支那の 街の護り神様なんですって。その神様が 日本に来て お地蔵様になったらしいわ。街や村の境に立っていて 護ってくださるのね」
幾三郎君は 祠の暗がりの中 しのぶさんの背中の向こうに見える お地蔵様の穏やかな顔を見つめる。
「わたし お地蔵様って好きなの。他の仏様はね 地獄に落ちた亡者は救ってくれないの。……でもね お地蔵様は 罪を犯して地獄に落ちた者でも救って下さるんだって。だから 芸者や女郎の仏様なのよ」
ゆっくり立ち上がり 線香の火を消しながら しのぶさんが続ける。
「まだ 母が生きてた頃 わたし この辺りに住んでたの。そこの古道具屋さんの裏辺り。このお寺も よく来たわ…母と一緒に」
幾三郎君の方へと振り返り 幾三郎君の目を見ながら しのぶさんが言う。
「その頃 お母さんがよく言ってたわ『しのぶは 自分の好きな人と一緒になりなさい』って」
真っ直ぐ射貫くような しのぶさんの真っ黒な瞳。
「……ねぇ 幾三郎君には 好きな人っているの? 地獄に落ちたとしても 一緒になりたいような女の人……」
幾三郎君の身体が 微かに震えていることにボクは気づく。
だけど しばらくの沈黙の後 幾三郎君の視線は 足下の蒲公英へ。
「……あら。蒲公英ね。わたし 蒲公英も好きよ。綿毛の落ちた場所で 強く生きていく花」
しのぶさんの視線が幾三郎君のそれを追い 淡く潤んだ蒲公英の黄色へと落ちる。
「……そう。とっても いい人だものね 郁二郎さん……」
そう呟く しのぶさんの声が ボクの耳に微かに聞こえた気がしたんだ……。
………。
……。
…。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます