第10話 眠れない
眠れない 1
勇気がなかった。
アルは自分の仮眠室のベッドの上で天井を眺めながら考える。
キスを拒まれなかっただけでなく、メリッサにとっては初めてのキスで、しかも腰砕けになってしまったくらいだった。アルはそれを喜ばしいと思うと同時に、自分の足かせになるとも考える。
彼女は自分を休ませるために身を挺してここに一緒に閉じ込められた。だから、ある程度、貞操の危機は覚悟していたのだし、だからこそ拒まれなかったのだと思う。だが、その覚悟が何から来ているのか不安になってしまう。恋愛感情か、忠誠心か。その両方か。少しでも忠誠心からの行動だとすると、それに甘えていいのかと思う。
きちんと好きだと伝えないと先に進めない、とアルは自分に言い聞かせる。しかし休暇はあと13日もある。ダメだったときの気まずい中、その期間を過ごすのは拷問だ。それでも彼女が出した選択肢5番を口にする。
「5、強制的に休暇になった社長が、秘書と一緒に休暇を過ごすが、秘書が社長を意識していても、彼の気持ちがわからなくて戸惑っているパターン」
メリッサも戸惑っているのだ。そう言っていたではないか。済まないことをしたとアルは思う。気持ちをはっきり伝えるのはもう少し後にするにしろ、目を閉じた彼女を放置してしまったのは悪手だった。しかしあのタイミングではキスでは収まらなかったはずだ。間違いなく、Tシャツを剥がし、デニムのロングパンツをおろしていたはずだ。
順番があるだろ、順番が。
そもそも密室に2人きりという事態が異常なのだが、それは棚の上に置いておく。
「アルフォンス、お邪魔しますよ」
仮眠室の扉が開き、メリッサの声がした。
「どうか――」
したのかと続けようとしたのが、メリッサの姿を見て、聞くまでもないことが判明した。Tシャツ1枚の彼女が枕を持って立っていたからだ。Tシャツの裾が長いので、かろうじて股間が隠れているが、センシティブとしかいいようがない。これがあの氷の秘書か、と思う。アルの頭の中でガンガンと警鐘が鳴っていた。
「来ましたよ。お約束通り、添い寝いたします」
き、君ねえ、と言おうとしたが、ワナワナと震えてそんな言葉は物理的にアルの口から出てこなかった。アルは童貞ではない。久しいが、女性経験もそれなりにある。しかしそれらの女性を、メリッサほど大切に思っていたかと言えば、迷うことなくノーだ。
大切に思っている女性が、Tシャツ1枚で自分の部屋に来たのであれば、脳の毛細血管が5、60本は一気に切れても不思議はない衝撃を受けても不思議はない。
「そ、添い寝?」
アルはそう言うのが精いっぱいだった。
「はい。添い寝ですよ。お約束したじゃないですか。子守歌でも歌いましょうか?」
メリッサが添い寝というなら、それは添い寝なのだろう。つまり、それ以上はない。ただ成人男女が一緒のベッドで一晩寝るだけなのだ。
地獄か、天国か。
アルには分からない。
「ボス、いえ、アルは寝相はいい方ですものね。知ってます」
仮眠しているところを何度も見ているからだろう。メリッサはそう言った。
「私の寝相がいいかどうかは私自身では分からないので、申し訳ないのですが――アルはご存じないですよね」
「知ってたら、明らかなセクハラだ!」
「では、寝相がいいことを祈ってください。いい眠りのために」
そしてメリッサはアルのベッドに潜り込んで、枕を置いて頭を置いた。
狭い仮眠ベッドの上だ。もちろんアルとメリッサの肌が触れる。光年なんて笑ってしまう。ミリ単位で十分だ。
「お休みなさい」
そう言って天井を見て、メリッサは瞼を閉じた。
「そんな馬鹿な」
「眠れないなら歌いましょうか?」
「いや、それはいい。眠れるよう、努力する。睡眠不足なんだ。眠れるはずだ」
「私も睡眠不足で、プールで泳いだのですぐ眠れると思いますよ」
メリッサはそれ以上、何も言わなかった。
アルとメリッサの肌はまだ触れている。触れているからメリッサが微かに震えているのが分かる。自分の発言を嘘にしないために、男性経験がないのに、こんな大冒険をしているのだ。震えて当然だろう。ここは添い寝を甘んじよう。とアルは決める。明日も明後日もある。そのうち、物理的な距離が近づいたことで、男の身体に対する抵抗がメリッサの中から消えて行くに違いない。それまでのガマンだ。
アルも目を閉じる。もちろん眠れないし、下半身は元気だ。シャワーのときに何もしなかったからかと思うが、抜いたとしても限界まで抜かないとこれはダメだっただろう。
目を閉じているといい匂いが漂ってきていることに気づく。今まで夜を共にした女性からは嗅いだことのない、女性の香りだ。今までの女性は厳しいくらい香水をつけて寝ていたから、この香りを嗅いだことがなかった。
なんて好ましいのだろう、とアルは思う。女性は自然にこんな好ましい香りをまとっているのにどうして香水を使うのだろうと思う。自分もトニック系のボディソープとシャンプーを使っているのだから大して変わらないかもとは思うが。
「ちょっと話そうか」
「何か面白いお話でもしましょうか。アラビアンナイトのように」
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