社長と秘書が今度は夕食を作る 2

「そんなことをしなくても君の魅力は僕に十分に伝わっているから」

 メリッサはぱーっと表情を明るくした。

「まあ! ボスからそんなお言葉をかけていただけるなんて思いもしませんでしたわ。社長室の備品か何かとしか思っていなかったんじゃないんですの?」

「なんで氷の秘書になっちゃったのかなとは思っていたけど、備品だなんて思っていなかったよ。僕だって君の新入社員の頃の笑顔を知っている」

 いや、もっと前からだけどね、とアルは言いたくなるが、それではなんだかストーカーっぽいのでこれは止めておく。面接したときの笑顔だって忘れてはいないのだ。

「――ボス。前から1つ、お伺いしたいことがあったのですが」

「アルフォンス」

「アル。教えてください。奨学金を受けている間に義務だった手紙、もしかして読んでいてくださいました?」

 アルは急にそんなことを聞かれるとは夢にも思わず、露骨に動揺した。自分の心を読まれているのかとまで思った。

「そ、そりゃそうだよ。責任者だし」

「じゃあ、お返事は、書いてくださいました?」

 今となっては字を見れば分かるか。まだ彼女が昔の手紙を気にしているとはアルは考えもしなかった。

「書いたのは僕だ」

「おかげさまで頑張れました」

 メリッサはホッとしたような笑顔になり、その直後、鬼のような形相に変化し、ガスレンジの火を止めた。あと数秒で吹きこぼすところだった。

「あぶなーい!」

「間に合いました。吹きこぼしたらお掃除が大変!」

「素晴らしい反射神経!」

「おしゃべりに夢中になってしまいましたね」

「それでいい。君とのおしゃべりこそが、このバカンスの最高の調味料だから」

「あら、お上手」

「茶化すな。本気だ」

 アルが拗ねて答えると、メリッサは固まった。

「え、あ、その……」

 まだ固まっていた。何を言えばいいのか迷っているとか躊躇しているとかではなく、本当にフリーズしている。2人の距離は近い。メリッサはアルを見上げて、小さく震えてはいるが、瞳はしっかりとアルの瞳を見ている。薄紫色の瞳に自分の魂が吸い込まれてしまいそうだとまで思う。

「メリッサ……」

「どう、されました……?」

「キスしたいんだ」

 アルは思わず、本心を言葉にしてしまった。メリッサは凍えるような笑みを浮かべるでもなく、斜に構えて茶化すでもなく、何かジョークをいうでもなく、ただ瞳を閉じた。

 最初からこう言えば良かったんだ。

 アルは休暇に入ってまだ5時間ほどしか経っていないのに、もう辛抱できない自分を見つけ、それを認めていた。

 アルは輝くメリッサの唇を奪い、少しの時間だが、それを堪能した。唇から電気が流れ込むような官能的な口づけだ。今までアルはこんなキスを体験したことがなかった。

 メリッサはその場にわなわなと小さく震えながら、ぺたんと座り込んだ。

「アル――」

 見上げるその瞳には女の色が浮かんでいた。

「キスを誘ったはしたない女だと思わないで……」

「誘ったのは僕だ」

「……すごかった、です」

 僕もだ、と言いたかった。しかしそれは何故かプライドが邪魔をして言えなかった。

「君にも可愛いところがあるんだな」

 そしてメリッサに手をのばした。

「立てる?」

「お手を借ります」

 そしてメリッサの手を握り、立たせるが、その間中、甘い電気が走るようだった。

 この衝撃を彼女も感じてくれていることをアルは願わずにはいられない。

「――私のような女でも、密室に2人きりとなれば、やはりキスくらいはしたくなってしまうんですか?」

 そうじゃない。そんなことじゃない。そう言いたかった。しかしアルの口から出たのは別の言葉だった。

「君も、僕のキスが良かったみたいだね」

「わかりません」

「え? だって、そう見える」

「分からないんです。だって、比較対象がないので」

 メリッサは真っ赤になってアルをにらみつける。

「比較対象がないというのは、比較するものがないってことで、つまり……」

 つまり、そういうことだ。

 メリッサには男性経験どころか、キスの経験すらなかったと言うことだ。

「笑ってるんでしょう? 28にもなって、男の人とキスすらしたことがないなんて!」

 確かに今の自分の顔はにやけているだろう。そうアルは客観的に思う。しかしそれは28歳にもなって初めてのキスをしたことが可笑しいのではなく、自分の選択が間違わなければ、他の男の幻影に惑わされることなく、彼女初めてを刻むことができるということを意味しているからこそにやけたのだ。夢見ていた喜びだ。

 アルは首を横に振った。

「光栄だよ。君の唇を奪えた初めての男になれて」

「本当ですか!?」

 メリッサはキッとアルをにらみつける。

仕事中毒者ワーカホリックの神の名にかけて、真実を誓います」

「嘘。そんな神様に誓われても信じられません」

 メリッサは相好を崩した。

「覚悟、か」

 アルはメリッサの言葉を思い出し、その重さを改めて感じた。2人だけでの2週間の休暇――メリッサは覚悟をしていると言っていた。今の今まで、キスを含む男性経験がまるでなかったメリッサの覚悟だ。それは想像できないほど重い。その彼女の覚悟に、自分は応えられるだろうかとアルはここにきて不安を覚えてしまった。

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