体内水槽

 はじめに感じたのは足のむくみだった。それがなくなったかと思えばゆびがしびれ、かと思えば腿が腫れ、不調はあちこち移動した。頭痛や息苦しさをおぼえることもあり、不安になって病院へ行くと、医者は「遊泳型血栓症ですね」と言った。

「ユウエイ……なんですか?」

「遊泳型血栓症です。血管のなかで血液がかたまったものを血栓と呼びます。通常血栓は血流に沿って移動するのですが、まれに流れにしたがわず、気ままに移動するものがあります。ちょうどさかなが泳ぐように。それが遊泳型血栓です」

 医者は喋りながらひきだしを漁った。軽いもののぶつかる音がこぢんまりとした診察室によく響いた。わたしはかたいベッドに横たわったまま、白衣のせなかの起伏をながめた。

「あちこち悪くなるのは血栓が移動しているからです。そこに血栓がいます」

「手術が必要ですか」

「いいえ。遊泳型血栓はさかなですから。これでじゅうぶんです」

 医者はふりむき、右手をかかげた。にぎられていたのは金魚すくいで使うポイだった。かれが奥の衝立に声をかけると、心拍のようにかろやかで規則的な足音が近づき、吊りスカートの少女がすがたを見せた。

「娘です。彼女は遊泳型血栓すくいの名手なんです」

 少女は六歳かそのあたりで、ひるむほど目が大きく、きゅっとむすばれたくちびるは反対にちいさかった。左手に紙コップを持ち、右手でポイを受けとると慣れた動作でわたしの胸もとへかまえた。それは金魚すくいの姿勢そのものだった。わたしは服をめくるべきかたずねたかったが、彼女のまなざしがあまりに真剣なので声をかけることができなかった。

 まるい頬がかすかにふるえたかと思うと、ポイが鎖骨の下にさしこまれ、体内で半円をえがきふたたびあらわれた。まばたきのタイミングがずれていたら見逃していただろうという早業で、痛みはなく、ミントをかいだときのようなあわくつめたい感覚だけがあった。薄紙のあか黒い影は目を凝らすまえに紙コップへうつされた。ぽちゃんと音がして、わたしは紙コップのなかみが水であることに気がついた。

 ぼうぜんとしているあいだに、少女は紙コップをかたむけないよう慎重に、けれどもやはり一定の足音で衝立のむこうへ消えた。医者は椅子を回転させ、わたしに背を向けた。

「経過が見たいので、来週またいらしてください」

 診療所を出、門へ向かう途中、背後からの風に乗ってなにかが耳をかすめた。ほんとうに聞こえたかどうかもわからないのに無視できない余韻があった。たてものの裏へ回ると白い鉄の柵がゆくてをはばみ、そのさきは庭になっていた。色もかたちもばらばらな草花のまんなかで、さきほどの少女が車椅子を押していた。

 車椅子には大きなかたまりがのせられていて、わたしははじめ荷物でもはこんでいるのかと思ったが、りんかくをたどるうち、それがぱんぱんにふくれあがったにんげんだとわかった。少女は車椅子を止め横に立つと、そのひとの口に紙コップをあてがいかたむけた。そんなはずはないのに、紙コップからのどへ、あかいちいさなさかながするんと流れ落ちるのが透けて見えた。

「あっ」

 無意識に声がこぼれ、少女が顔を上げた。視線がぶつかるよりはやくわたしはきびすを返し、目にとまったバスに飛び乗った。いきさきは家と反対方向だったが、そんなことを気にしてはいられなかった。

 とびらが閉まり、バスが前進をはじめる。ふりむいた後部座席の窓に診療所の看板がうつり、それが後続車にかくれ見えなくなったあとも、少女の足音が耳の奥で鳴りつづけていた。



2025.4

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