12. Melodrama



 夜明けは迎えられないよ。


 

 だんだんと激しくなる雨音。風が吹くたびに煽られた雨粒が窓に叩きつけられる。

 灯りのない夜は、耳に入る音がやけに喧しく感じる。

 



          *



 マナトは、とりあえず目についた、リビングの隣の部屋の扉を開けようとする。

 しかし、何かにぶつかって、開かない。


 これで開かなかったら別の部屋を当たろう、と思いながら、最後に力一杯体当たりした瞬間、

「……え⁈」

 扉の前にあった障害物の感覚が無くなっていたのに加え、何回もマナトによって繰り返された衝撃に、傷んだ蝶番があっさり外れた。


 そのまま勢い良く部屋の中へ飛び込む格好になったマナトは、鈍い音と共に床に顔を強打した。


 何でこんな目に、とマナトが恨みがましい眼をしながら顔を上げると、部屋の中央に置かれたシングルベッドの下に、潜り込もうとしている人影が見えた。


 正確には、人影と、その人物が持つには不似合いな黒光りする鋼鉄の物体を見た。


「く、が、先輩」

 驚いて上擦った、少女の声。マナトには聴き覚えのある声だった。

「さっきまでドアの前で隠れてただろ。めっちゃ重かった」

 扉がなかなか開かなかった理由を想像して、そして白雪が必要以上に警戒しないように、マナトは冗談めいた口調で、声を掛ける。

「……」

 白雪は、ベッドの下に潜り込もうとするのを諦め、静かに床に座り込んだ。

 白雪は、同じく床に片膝をついて座ったマナトと、目を合わせた。


 マナトは白雪の姿を、まじまじと観察する。


 ベッドサイドに置かれた間接照明のおかげで、相手の顔や様子を伺うのは苦労しなかった。


 白雪の姿は、洋服のまま、靴も履いたまま、片手で銃を抱えていた。何かあれば、すぐに動けるようにしていたのだろう。


 気まずそうな、不安そうな、警戒心だけは剥き出しの、白雪の大きな瞳が、マナトを見つめている。


「さっき、重いって言ったのは冗談だからね」

 白雪が銃を離さないのを気にしつつ、マナトは笑顔を見せる。


 マナトは、ウエストにしまってある、あの男から渡された拳銃ベレッタPx4に手を掛けるタイミングを、何とか作りたかった。


「ヒナが無事で良かっ」

 しかし、マナトが白雪の注意を逸らすより前に、白雪はマナトに銃口を向けていた。


 本物の拳銃ハンドガンを触ったのは今日が初めてで、相手が手にしている拳銃の安全装置が外されているかどうかは、マナトに判断できない。


 果たして白雪が、どこまで拳銃の扱い方を理解しているのか、マナトにはわからない以上、危険な状況には変わりなかった。

「ちょ、何で俺、脅されてんの? 意味わかんねぇんだけど」

「何で、玖賀先輩が、ここに居るんですか?」

 白雪は、銃を握る手に力を込める。そうしないと、震えてしまうからだ。


「助けに行けって言われたから」

 真っ暗闇のような銃口の中を見た後に、マナトは白雪を見た。真っ青な顔で、全身が小さく震えているのがわかる。

 自分や幼馴染みを素直に慕ってくれた後輩のこんな姿を、マナトは見たくなかった。


「助けてくれるつもりなら、彼の味方をしてください」

 口調はいつも通りの丁寧さを忘れていないが、白雪の瞳は強気に、マナトと向かい合おうとする。


「えーと、それは、ちょっと無理っつか、みちるの母さんの仇だから」

 その言葉に、白雪は眼を見開く。

「え?」

「よくはわからねぇけど、みちるの母さんの死に関わってるから、みちるはヒナの彼氏を追ってた? みたいな?」

 マナトも経緯は薄っすらとしか把握していない。自分をここまで連れてきた男は、肝心なことをロクに語りもしなかったのだ。


「だって、先輩のお母様は、テロで亡くなられたんですよ?」

「って言ってるけどな。みちるの嘘は大体わかるから、俺」

 マナトと件の幼馴染みとは、家族ぐるみで十年以上の付き合いだ。お互いに同い年で、小中高と、ずっと同じ学校の腐れ縁。


「クランが、先輩のお母様を、殺したって言うんですか?」

 誰からも聞かされなかった話を、マナトの口から聞いた白雪は、呆然として拳銃を構えていた手をゆっくり下に降ろした。

「だから俺に聞くなよー……。ほら、とりあえず行くぞ」

 銃口が下を向き、自分への警戒心が薄まったところを見計らって、白雪の方へ身を乗り出したマナトは、彼女の目の前に手を差し出す。


「ま、待って下さい」

 首を横に振って動こうとしない白雪の右腕を掴んで、マナトは言う。

「もたもたしてたら死ぬから」

 白雪を別荘から少し離れた場所に停めた車へ乗せるまでが、マナトに課せられた仕事だった。

 そこまでやるのに、あの男は30分よりも少ない時間しか与えてくれなかった。

 


          *



 車はもぬけの殻だった。

 あの男が、別荘の外で何かしようとしているのは気づいていたが、聞いても詳しく答えようとしないので、マナトは聞き出すのを途中で諦めた。


 きっとあの煙草臭い男は、この雨の中、今もどこかから、何かをする機会を伺っているのだろう。


 後部座席のドアを開け、白雪を半ば強引に座らせた。

「ヒナはここで待ってろ」

「あの、玖賀くが先輩は?」

 てっきり、自分を監視する役目もするのだと思っていたマナトが、車に乗ろうとしないのを見て、白雪が尋ねる。

 マナトは食ってかかる勢いで、声を荒げた。

「自分が何やったかわかって、言ってんの?」

 ビクッと肩を揺らし、白雪はマナトを見つめる。怯えの色が見える眼差しに罪悪感を覚え、マナトは空を仰ぐ。

「あぁもう!!」

 仰いだところで、顔に雨が当たるだけ。


「別荘のどこかに、みちるがまだいるんだろ?」

 顔を白雪に向け直し、マナトは尋ねる。白雪が答えなかった。

「俺はみちるを探しに行く。だから、ヒナはもう足を引っ張るな」

 足を引っ張るな、と言われた瞬間、白雪の眼に涙が浮かぶ。怯えさせるつもりも、泣かせるつもりもなかったのに、どうしようもない気まずい空気に、マナトは肩を落とす。


「……納屋に」

 白雪が口にしたのは、それだけだった。

 涙を堪えようと唇を噛んでいたのに、白雪の眼からは涙がぽろぽろ零れていく。それでも何が言いたいかは、さすがのマナトでもわかった。

 ウエストに挿した拳銃を手にし、マナトは後部座席のドアを閉めた。

 




 

 マナトは納屋の扉をゆっくり開け、恐る恐る覗き込む。納屋の中で、何かが揺らぎながら動いている。


 揺れているのは髪の毛だと気づいた。灯りのつかない納屋の中、その揺れる髪の隙間から、血走った眼が見えた。

 その瞬間、

「お化けぇぇぇいやぁぁぁぁぁぁぁ」

 マナトは腰を抜かして絶叫した。

「まだ生きとるわ」

 幼馴染は溜め息混じりに呆れた顔で、上半身を起き上がらせる。


「何、その前髪」

 マナトは斬新すぎるカットをされた幼馴染の前髪を指差した。

「うそ、そんなひどい状態? ヤバい」

 幼馴染の声には、いつものような張りがあった。そこでマナトは、やっと安堵のため息を漏らす。

「マナトが来たんだ」

 幼馴染みは両手両足を縛られながらも、平然としていた。と言うより、何故か残念そうな顔を見せていた。

「何その、招かれざる客的な扱い」

 白雪といい、幼馴染みといい、顔を見るなりこの手の対応で、マナトは思わず苦笑いする。

 だが、その苦笑いもすぐ消える。


 幼馴染が着ていたシャツや、ショートパンツは本来の色ではなく、赤く染められていた。

 肩や脇腹、太ももなど全身に、刃物で刺された痕があり、幼馴染を始点に血が広がっている。


 マナトは震える手で、あの灰色の眼の男に念のためと渡されたナイフで、幼馴染みの腕と足に巻かれた結束バンドを切断した。

「よく撃たれないで辿り着いたね」

 殴られたのであろう鼻や口から出血して、さらに痛々しい。

 それでも、さも痛みを感じていない様子の幼馴染みは、のんきにも感心したような言葉を掛ける。


「アイツ、こっち見ないでバンバン撃ってきたから、移動すんの怖すぎたんだけど‼︎」

「そのアイツが、かわかんないけど、それで当たらなかったって悪運強いね」

 どっち、という表現で、マナトは自分が潜り抜けてきた銃弾が二人の人間の手によって放たれたものだと知る。一気に背筋が凍った。


「みちるも、この怪我でよく生きてるよ」

 悪運強いのはみちるもだ、とマナトは幼馴染の姿を眺めながら半ば呆れている。

「致命傷じゃないから大丈夫」

 と言いつつ、立ち上がろうとするとよろめき、床に手をついた。


「動かない方がいいんじゃね?」

「ここでじっとしてても、しょうがない」

 確かにその通りだった。

 気合いを入れるためにか深く息を吸い込み、幼馴染は立ち上がろうとする。マナトはそれを支えて、歩み出すのを手伝う。

「あの目つきの悪い、日本語ペラペラな煙草臭いのおっさんに、無理矢理ここまで連れてこられた俺の立場って?」

「やけに説明が長いなー。どうせあの人、細かい説明しなかったでしょ」

 マナトが支えながら数歩進むと、すぐに支えがなくても歩けるようになり、幼馴染みはクスクスと笑って言う。

 その言葉を聞くと、幼馴染みとあの男の奇妙な関係には、それなりに信頼関係があるのだと、マナトに思わせた。


「ヒナちゃんは?」

「車に乗せた」

「あの人、車持ってたの?」

 幼馴染みは少し驚いた表情を見せた。マナトは大仰な溜め息をついて、顔を顰めながら答える。

「うちの車!」

「あぁ……なるほど。で、ヒナちゃん、拘束はした?」

 質問を畳み掛けてくる幼馴染に、マナトは困惑した。

「え、ヒナ相手にそこまでしなくても大丈夫かなって」「マジで⁉︎ 嘘でしょ⁉︎」

 白雪なら車で大人しく待っているだろう、と思っていた。むしろ、そこまで気が回らなかったというのが真実だ。

 マナトは幼馴染みの反応に、嫌な予感がし始めていた。

「え、ヤバかった?」

「とてもヤバい」

 幼馴染はマナトの助けなしに納屋のドアを出ると、天を仰いだ。


 先ほどに比べると、いくらか雨足が弱まっていた。空を覆う厚い雲は、どんどん東の方向へ流れている。

 

「雨はそろそろ止むね」

 そう一言、ぽつりと呟いて、すぐ後ろに立つマナトを振り返った。

 しっかりと降り続く雨は、幼馴染の顔についた血を、いくらか洗い流していく。

「み、みちる?」

 なんの感情を持っているのかわからない黒い眼が、マナトをしっかりと捉えている。


「車はどこに置いたの」

「歩いて5分くらい降りた、道の脇」

 そう言いながら、マナトが車を停めた方向を指差すと、幼馴染はその方向に向かって歩き出す。

「あの子、多分もう車にいないよ」

 土砂降りの雨の中、声を気持ち大きめにして、幼馴染がマナトに言う。

 怪我しているのを忘れているのかと思うほど、スムーズな早歩きで、幼馴染は車の方向へ突き進んでいる。

 車の位置を知っているマナトが、なぜか幼馴染の後ろを追いかける形になっていた。


「だったらどこに行くって言うんだよ」

 マナトは幼馴染の背中に向かって、強い口調で言う。

「ヤバいところ。だから一度車に戻って、装備揃えてから行く」

「おい、みちるは車で待ってろ」

 マナトが幼馴染の腕を掴むと、マナトを振り返る幼馴染の顔が痛みで歪む。マナトは慌てて手を離した。


「みちるさぁ、そんな怪我で何しようって思ってんだよ?」

「ヒナちゃんを助けに行く」

 幼馴染の言葉が嘘だとは言えない。だが、もっと違う目的を含んでいるようなのは、雰囲気でわかる。


「何がどうなってる?」

 車の姿を見つけ、駆け足で近寄る幼馴染の隣を走りながらマナトが尋ねる。

「これがまた説明したら長いから、マナトに説明するのが大変」

「遠回しに馬鹿って言うな」

「結構はっきり馬鹿って言った」

「てめぇ」

 マナトが、恨めしそうに幼馴染を見た。幼馴染はニヤッと笑う。こういうところは普段と変わらない態度なのが、マナトにとって、より不穏さを感じさせた。

 

 幼馴染は運転席側のドアを開けると、シートや足元の辺りをもぞもぞと探り始める。

 何をしているのだ、とマナトが幼馴染の背中越しに覗き込むと、幼馴染は何かを見つけたらしく、声を上げる。

「ほら、やっぱり」

 運転席の足元にあった黒い丈夫そうな鞄を開け、拳銃ハンドガンや弾薬を取り出す。

「おっさん、こんなの用意してたんだ?」

 マナトは、そもそもそんな鞄があったと気づいていなかった。

「あの人が、手ぶらで来るはずがない」

 拳銃の状態を確認して弾薬を装填するまでの流れが、幼馴染の手であっという間に澱みなく行われていく。それをマナトは見ているだけだった。

「慣れてる」

「売る側が使い方をわからないのは、致命的だからね」

 幼馴染はそう言い、装填済みの二丁をウェストに挿し、別荘へ視線を遣る。


 雨音だけがうるさく聞こえているが、銃声は聞こえない。


 幼馴染の顔がマナトを見る。マナトがいつも見ている、作り笑いを浮かべている。

「この場でヤクザの息子を死なせたら、ヤクザ VS. リエハラシア元軍人の血みどろバトルになるじゃん」

 マナトはそこまで言われて、幼馴染が何を言おうとしたか察した。

「事態を丸く収めるには、私が前に出ていく方がいいのはわかるでしょ」

「はいはい、わかったよ」

 そう言われてしまうと、マナトは納得するしかない。蚊帳の外にされた気分だが、仕方ないと諦め、マナトは助手席側のドアへ回ろうとした。

 それを見た幼馴染は、マナトを呼び止める。

「だからマナトは、ヒナちゃんを確保したら車に戻って、そのまま一緒にいて」

 マナトは意外そうな顔で、目を丸くする。

「あれ? 俺も行く感じ?」

「だって、私が途中でぶっ倒れたら、後を任せる人がいないし」

 幼馴染が「何を言っているんだ?」と言わんばかりの顔でマナトを見る。

「でも俺、うっかり死なない方がいい存在じゃん?」

「そこはさ、死なないように立ち回ってよ」

「無茶ぶりすごくない?」

 自分に課せられたものが存外に大きいと気づいたマナトの顔は、引き攣った。

「でも今は、マナトだけが頼りだからさ」

 少しだけすまなそうに、幼馴染は眉を下げて笑った。いつもの作り笑いより、人間味がある笑みだった。


「んなこと言って、俺以外に頼る相手がいないだけだろ」

 憎まれ口を叩くと、幼馴染は声を上げて笑った。

 おかしなカットになった前髪で笑う幼馴染は、血塗れで異様な姿には間違いない。


 この姿をそこまでおかしく思わない自分の感性も、相当ズレているのかもしれないと、マナトは頭の片隅で思った。



          *

 

 

 この雑木林は、家族で何回も来た場所だった。

 だが真っ暗な夜に土砂降りの雨が降る中では、方向感覚がなくなってしまう。

 白雪は自分がどこを歩いているのか、わからなくなっていた。

 打ちつける雨は冷たく、白雪の体温を静かに奪っていく。


 別荘の中にも、別荘の周りを歩き回っても、クランの姿はどこにもない。暗闇に奪われた方向感覚が、この雑木林をこれ以上進むのを躊躇わせてくる。

 


 別荘の固定電話で、クランは白雪の知らない言語で電話の相手と話していた。

 その相手こそ、クランがずっと追いかけ続けた相手だと、白雪にもすぐわかった。


 受話器を置いて、クランはソファに座る白雪を見た。その眼差しがどこか不安げで、白雪は胸が詰まった。

 クランは何かを口に出そうとして、躊躇う様子を何度か見せた。白雪はその間もじっとクランを見つめ続けた。


 小さなため息をついて、クランは口を開いた。

「最後だからちゃんと聞いて」

 白雪の眼に涙が溜まる。

「ちゃんと生きて。寿命まで生きて」

 あまりに平凡な願いごとだった。堪えきれず、白雪は口を手で押さえ、泣き崩れる。


「シラユキは、使い捨てじゃない」

 クランは淡々と言葉を紡ぐ。

「こんな、駒みたいな扱いをされる生き方をするな」

 クランと白雪は生きてきた環境が違いすぎた。旅人との美しい思い出と称するにしても、破壊を繰り返しすぎて、ただでは済まない。


 けれど、この青年と共に生きる手段を、白雪は持っていなかった。

 

「逃げよ? 誰もいない場所まで逃げよ?」

 しゃくり上げながら白雪は訴える。こんな現実味のない方法しか浮かばない。


「逃げても解決しない」

 鼻で笑った後、クランが白雪のもとへ跪く。白雪の顔を手で包むと、唇を重ねた。

 柔らかい確かな温もりは、唇に淡く触れて離れた。

「後追いだけはするなよ」

 そんな不吉なことを穏やかな笑顔で言う。

 涙で滲む視界で見つめながら、白雪は何もできない自分を心の底から呪った。


 クランは白雪をソファから立たせると、リビングの隣の部屋まで連れていく。

「ドアの前に棚とか、なんでもいいから物を置いて、簡単に開けられないようにして。それからベッドの下に隠れて」

 クランはそう言って、その部屋のドアを閉めていった。お別れなのに、あっさりしたものだ。すぐにクランの後を追いかけていこうとドアノブに手をかけたものの、力なく手を離した。

 白雪は踏み切れなかった。


 泣きながら棚や本棚を、苦労しながらドアの前に移動させた。

 ベッドの下に隠れろ、と言われたが、昂った感情は堪え切れなかった。その場で子供のように泣き声を上げ、床に突っ伏してしまう。

 

 そして次に、そのドアを開けて現れたのはマナトだった。

 その時感じた絶望を、白雪は忘れられない。


 白雪は、さっきから同じ場所をグルグル回っているような気がして、一旦立ち止まった。


 マナトから言われた、足を引っ張るな、という言葉が頭をぐるぐるしている。

 自分の無力さを突きつけられて、その場に座り込んだ。項垂れて手をつくと、そこに大きな水溜まりがあった。


 白雪は、久しぶりに自分の顔を見た気がした。不安と悔しさでボロボロの顔に、白雪は我ながら情けなくなってしまった。


 いろんな人を巻き込み、クランの足を引っ張った挙げ句、家業の名も汚しただろう。


 忸怩たる思いで地面を掴むと、どろどろとした土が手にへばりついた。

 泥の感触に、これが逃げられない現実だと思い知らされていると、誰かに背中を叩かれる。

 ビクッと体を揺らして振り返ると、そこにいたのは、よく知る人だった。


「ヒナちゃん」

 前髪がギザギザに切り刻まれているが、真っ直ぐ伸びた長い黒髪、凛とした切れ長の黒い瞳。

 高い背に沿うように伸びた手足の、白雪の先輩。


 白雪が、クールビューティーだと憧れていたその姿が、今は禍々しかった。


 

          *


 

 クランは撃ち抜かれた右胸を押さえ、雑木林の中で蹲る。

 

 別荘に入り込んできたのはサヴァンセではなく、見覚えのないアジア人の若い男だった。

 その男は、身のこなしが素人そのものだった。梟が動かせる駒はこの程度の人間しかいないのだと知って、思わず笑いが漏れた。


 入り込んできた男に向け、威嚇のつもりで適当に撃つと、すぐさまピンポイントで銃弾が飛んできた。

 これでお互いの場所がわかった。それだけでも、別荘に入り込んだ男は素晴らしい働きをしたのだ。


 しかも、そのアジア人の若い男は白雪を見つけると、すぐに外へ飛び出して行った。

 白雪をここから避難させ、クランは自由に動けるようになった。

 梟が狙撃のために潜んでいる場所に目星がついた以上、あとはそこに向かうだけだ。

 

 慎重に慎重を期し、別荘の玄関を出たつもりだった。だが、外に出た瞬間を狙って撃たれた銃弾が、クランの右胸を貫いていった。


 一発で仕留めればいいものを、わざわざクランを痛めつけるやり方を選んだのは、梟なりの意趣返しだろう。

 

 痛みに構わず走り出しながら、クランはこの先の対処を考えていた。


 梟がいる場所へ向かい、あの男の喉笛を掻き切る。


 シラユキは、フチノベが連れて帰ろうとするだろう。その時に襲撃して、シラユキを取り戻す。

 シラユキを連れたその足で、リーシャロのところへ向かう。下げたくもない頭を下げて、日本から出て行く手筈を整えてもらう。

 そうすれば、シラユキと約束した海へ行ける。


 梟が潜んでいるだろう地点の近くに踏み入れるまで、そんな幻想を思い描いていた。


 雑木林の中は、闇に覆われている。

 この闇の濃いところ、背の低い木が何本も寄り添いあっている場所や手入れのされていない草叢が、背の高い木々の間に混じって存在している。

 それらの中に、梟はいる。


 幸い、雨足はまだ強い。移動する音は掻き消されるだろう。

 だが、泥濘んだ地面は、足音を必要以上に大きくさせる。クランはそれをとても鬱陶しく思った。


 気配を殺し、身を屈め、匍匐前進で草叢を進んでいると、視界の奥に人影が見えた。

 それが誰の姿か、クランには一瞬でわかった。


 クランが見つけたのは、白雪が呆然とした表情で、膝から崩れ落ちていくところだった。

 

 クランは思わず、「神よ」と嘆きたくなる。今まで一度だって神に祈ったりしなかったのに。


 さらに、その白雪の背中を叩いたのは、渕之辺 みちるだ。その後ろには、梟ではなくアジア人の少年――マナトが立っている。梟はまだどこかに潜んでいるのだ。


 先に梟を片付けてから、渕之辺 みちるを始末して白雪と逃げるイメージをしていたクランは、そのイメージが根本から覆された。

 

 白雪以外の全員を一度に始末する。それがクランにとって最優先事項となった。

 じりじりと距離を詰めながら、渕之辺 みちるとマナトから死角になる場所へと移動を開始する。


 全身血塗れの渕之辺 みちるは、屈み込むと白雪と目線を合わせるようにして、何かを一所懸命話している。雨音が激しく、クランには何の話をしているかわからない。


 渕之辺 みちるの後ろにいるマナトは、おどおどしながら周りを落ち着きなく警戒している。その合間に、マナトもまた白雪に何か声をかけたりしていた。


 梟の始末を最優先にすべきか、白雪の周りにいる二人を撃つのが先か。

 クランは決定に悩んでいた。故郷では作戦参謀である狐が、行動の指針を出していた。クランが自身で行動の指針を考えることは、ほぼ皆無だったのがあだとなった。


 それでもクランなりに、梟の方が確実に厄介な相手だ、と結論を出す。

 気配を殺した梟が潜む場所を特定する手段をいくつか考えながら、白雪たちの様子を伺うために顔を上げる。


 その瞬間、渕之辺 みちるの眼が、クランがいる方向を見た。

 輝きのない黒い眼と、目が合った。確信はないが、そんな気がした。


 得体の知れない、嫌な予感がクランの全身に走る。

 

 瞬時に渕之辺 みちるは拳銃へ手をかけ、クランの方に銃口を向ける。

 クランは立ち上がると同時に手にしていた拳銃を渕之辺 みちるに向け、引き金を引こうとした。

 白雪はクランの姿を見て、駆け出そうとした。

 マナトは白雪の肩を掴んで制止する。

 

 銃声が、一発鳴り響く。

 その銃声は、渕之辺 みちるでもなく、クランでもない。

 クランは何が起きたか察するより先に、白雪のもとへ踊り出す。

 白雪は声にならない悲鳴を上げ、飛び出してきたクランの姿を視界の端で捉えたが、マナトに強引に地面に伏せさせられた。

 渕之辺 みちるは銃を構えたまま、そこで広がる光景を険しい表情で見つめている。

 

 すぐに地面から身を起こした白雪は、クランの名前を何度も叫び、自分の背中を地面に押さえつけようとするマナトから逃れようとする。


 目の前で起きたことを見て、顔を真っ青にしたマナトは、泣き叫ぶ白雪が飛び出していかないようにするのに必死だ。


 渕之辺 みちる、マナト、白雪が見ている先には、地面に仰向けで転がり、微かに動いているクランがいる。


「マナト、ヒナちゃんをよろしく」

 感情を消した顔で、マナトにそう言うと、渕之辺 みちるはゆっくりと拳銃を下ろした。

「わかってる!」

 マナトは暴れる白雪を抱き込んで答える。

 雨がこのタイミングで弱くなった。

 ばしゃばしゃと大きな音を立てながら、マナトは白雪を抱えて、立ち上がらせ、その場を離れる。

 雨が弱まったタイミングで、白雪の嗚咽が暗闇の中で耳をつんざくように響き渡る。

 

 マナトたちと距離が空いたのを確認して、渕之辺 みちるはクランの隣に膝をつく。

 クランは右胸と腹から血を流して、微かな呻き声を上げている。


「だから言ったじゃん」

 渕之辺 みちるは憐れむような眼差しをクランに向ける。

 クランは顔を顰めたが、渕之辺 みちるの言葉に対してなのか、痛みに対してなのか、はっきりしない。

「夜明けは迎えられないって」

 それはクランが納屋で、渕之辺 みちるに殴る蹴るの暴行を繰り返ししていた時、静かに呟かれた言葉だ。

 怒りや苦しみといった感情のない、ただ言葉だけを呟いたような声音だった。

 その言い方の方が、おどろおどろしい呪いの言葉よりも不穏なものがあったと、クランは今になって思う。

 

 渕之辺 みちるは、怪我した左手ではなく右手で持った拳銃の銃口を、クランの頭に突きつける。


 そしてすぐに銃声がした。

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