Summer Snow

悠月 星花

第1話 旅路の始まり

「『南条緋月』を単位不足により留年とする……か。まぁ、当然っちゃ当然だし、仕方ないよな」


 大学の掲示板に貼られた通知を見て、ため息をつく日本人、それが『南条緋月』であった。緋月は日本の音楽大学からの留学生で、欧州の音楽を学ぶためにこの大学へ留学していた。はず……、だ。いや、実際は、この大学で、留学初日以降、緋月を見た人物は、誰一人いなかった。

 何故なら……、緋月は、この1年間、一度も大学に通っていなかったからである。緋月がこの1年間、一体何をしたのか。下宿先の学生寮で日長ピアノの前に座ったまま、ピアノを弾くでもなく、その場から動きもせず、ろくな食事もとらず、睡眠も疎かに、ただ、ただ、毎日、ピアノの前に座るという日々を送っていた。

 下宿先に入寮して以来、緋月の部屋からピアノの音色が1音でも響いた日はなかった。いつぞやは、緋月があまりにも動きがないので、死んでいないかと管理人が部屋へ勝手に押し入った日でさえ、緋月はピアノの前で座ったままピクリとも身動きせず、死んだような目をピアノに向けていただけだった。


 先日、大学から必ず登校するようにと連絡があり、渋々、大学へと足を運んだのだが、予想通りの通知に、驚きもしなかった。


「……あのクソ親父、この結果を聞いたら、キレるだろうな。おふくろも、ヒスを起こしそうだし、ねぇちゃんに至っては、……考えたくもねぇ……。一番厄介なのは、アイツなんだけどな」


 日本にいる家族のことを思い浮かべ、緋月は大きなため息をついた。ピアノの前で座る日々の中、頭の中では、家族のことを考えない日はなかった。いい意味での家族のことではなく、どちらかと言えば、あまり思い浮かべたくもない言葉を呪いのように何度も思い出していたのだ。


 緋月の家系は、日本でも有名な音楽一家だった。それぞれ得意なものへ才能を伸ばしている中、家族の中で、緋月は平凡であった。才能の塊の中にいれば、それは必然とわかる。毎日、家の中で、音が聞こえない時間はない。誰かしら、自身の音を探求していたからだ。耳を塞いでも、それは意味もない防壁であった。

 コンテストに出て、周りの反応を知れば、音へのコンプレックスはさらに深くなり、自信喪失をしていく。さらに、実の弟の存在が緋月を貶めた。

 弟である『南条永遠』は、何百年に一人と言われる天才ピアニストだった。ピアノに対する貪欲さが、緋月を含め他の人とは桁違いなのだ。音にこだわるだけでなく、楽譜に対する理解や情景、ありとあらゆるものを吸収しては、1音への表現がすさまじく、重く軽やかで、そして、懐かしい。ありとあらゆる感情を揺さぶるような奏者だった。また、永遠の集中力も素晴らしく、1度スイッチが入ってしまうと、気が済むまで引き続ける。体が壊れてしまうのではないかと言うほどの入れ込みように、恐怖さえ感じた。


 だから、緋月は逃げた。日本からも、家族からも、そして、天才ピアニスト『南条永遠』からも。


「……無理を言って逃げて、この有様。まさにクズを表したって感じだな。親父は、もう、僕には期待してなかったから、この結果を見ても、何も言わないだろうけど……、金の無駄だから、大学は辞めろと言われるだろうな」


 掲示板を見ながら、もう1つ大きなため息をつき、下宿先へ戻ろうとしたときのことだ。


「あれ? もしかして、南条くんじゃない?」

「……誰?」

「酷いな。これでも、一緒に留学した仲なんだけど? 飛行機も同じだったじゃないか」


 話しかけてきたのは、背の高い日本人の青年だった。記憶を遡っても、全く思い出せない。確か、同じ時期に留学したのは、チェロ奏者だった気がするが、他人に興味がなさ過ぎて、緋月は「わからない」と素直に謝った。


「いいよ、別に期待なんてしてないから。南条くんと一緒にこっちに来れたからさ、一緒にやってみたいことがあったんだけど、君、大学に来ていなくて、全然会わなかったからさぁ」

「あのさ?」

「何?」

「誰なの?」

「あぁ、ごめんごめん。わからなかったんだった。俺は、藤谷光希」

「……藤谷」

「知らない? 結構、日本では、コンテストとか頑張ってたんだけど?」

「悪い。全く興味なくて」

「チェロは、人気ないなぁ……」

「いや、そうじゃなくてさ、そのコンテストに興味がなくて、もう、かれこれ、8年くらい出てないから」


 光希は驚いた表情で、こちらを見てくる。この留学自体が、コンテスト上位者であったり、それなりの実力がないと選ばれないのに、コンテストにも出ていない緋月が今ここにいることが不思議なのだろう。


「そう驚くこともないだろ? 僕の実力というよりかは、親の七光りだって」

「……なるほど。でも、俺は、南条くんのピアノが好きだけど?」

「あぁ、ありがとう。それって……、僕じゃなくて、永遠のほうじゃないの?」

「違う。確かに弟くんのは、ピアノは神懸っているけど……、もう、なんていうか、弟くんのピアノは畏怖だよ。コンテストの人は好きだろうけどね。あぁいう弾き方が。でも、大抵の人は、わけのわからないものに出会うと怖いんだ。俺は、弟くんの演奏がまさにそうだった。素晴らしいと評価する人が多いけど、得体のしれないような腹の中が探れない機械のような気味の悪い音が怖いんだよ」


 肩を竦め苦笑いする光希。緋月の家族を悪く言ってしまったとバツの悪い表情なのだろう。「気にするな」と緋月は声をかけた。実際、光希と同じように永遠の演奏に感じて、逃げた緋月にとって、自分だけでなかったことに安心したのだ。


「南条くん、留年したんだね? どうするの?」

「何も考えてない。とりあえず、ピアノは、……弾きたいとは思っているけど、なんていうか、感情がのらないというか、指がうまく動かなくて」

「今でも、ピアノは弾いてる?」

「いや、弾けてない。毎日、ピアノの前には座るけど、怖くなって弾けない」


「そっか」と光希が呟き、何かを考えている。少ししたあと、スマホを取り出し、どこかへ電話をかけている。断りもなしにやってのける……陽キャな光希を少し羨ましく思いながら、その場を去ろうとすると、肩をガシッと掴まれる。大きなチェロを扱っているからなのか、光希が体を鍛えているからなのか……、その力は強い。


「おぅけぇ! じゃあ、友人を連れて行くよ! じゃあ、また、あとで!」


 電話を切り、光希はニッコリ笑いかけてくる。悪い予感しかしない緋月は、後ろへ一歩後ずさりしようとしたが、捕まれた肩に余計な力が加わっただけで逃げられそうにない。


「明日から夏休みに入るしさ、ちょっと、音を合わせよう。俺、南条くんとの合わせをしたくて、ずっと機会を狙っていたんだ」

「……いや、さっきの聞いてた?」

「うん。ピアノの前に座っているけど、弾けていないんだろ? 1日弾かないとさ、腕は落ちるっていうけどさ、留年になった今、来年度に向けてのリハビリでやってみたらいいさ。小遣いももらえるし」


 ニッと笑う光希に圧倒され、頷くまで帰してもらえない雰囲気で緋月は悟った。逆らえないと。


「……わかった。言っとくけど、ピアノは弾けないからな?」

「いいよ、別に。俺が、好きで誘ったわけだし」

「それと、……その、『南条くん』って、いうのやめてほしい」

「じゃあ、緋月?」


 ……いきなり、呼びつけで呼ぶとか、ありなのか。


 ため息をぐっと我慢して、頷くと、「俺も光希でいい」と笑うので、つられて笑ってしまう。誰かとこんなにたくさん話すのも、笑うのもいつぶりだっただろうと、内心ドギマギしながらこの強引な友人もどきの誘いにのることになった。


 ……ついていくだけ。弾けなくて、がっかりされるだろうけど、それでいいんだ。


「ほら、こっちだ」


 強引に肘を引っ張られ、光希について歩く。初めての出来事に、少しの不安と、そわそわとした気持ちが入り交じっていく。なんだか、少しだけ、光希の背中を見ていると、胸の奥深くにあった何かが開いた気がした。


 南条緋月が、生涯最愛の人に贈る至極の1曲までの旅路が、この瞬間から始まったのであった。

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