君の行く先

六畳のえる

君の行く先

「じゃあ霧島、来週火曜までに提出頼むぞ。今の成績なら間違いなく難関大も狙えるからな」

「はい……」


 担任の鹿野しかの先生に念を押され、私は俯いたまま職員室を出る。放課後、日直の仕事で英語のプリントを置きに行ったら、「出してないのは三人くらいだ」とお小言を言われる羽目になった。


「はあ、進路かあ」


 バッグからクリアファイルを取り出す。挟んであった「進路希望調査票」と書かれたプリントを取り出し、溜息を吹きかけた。就職予定と書くこともできるものの、大学進学が大多数を占めるうちの学校では、実質的に志望校調査に近い。まだ木曜だから時間があるとはいえ、何も決まってないものを書かなきゃいけないと思うと、腰が重かった。


 高校二年生の十一月。まだ共通テストまで一年以上あるし、もう少し何も考えずに過ごしていたい。でも、こうして書類だったり先生からの言葉だったりで、自分が受験生になるタイムリミットを否が応でも突きつけられる。二時間半かかる東京近郊に行くことも、北上して東北の大学に行くことも、県内に留まることもできるからこそ、道もゴールもない平地に放り出されたようで、不安だけが募った。

 選択肢を狭める方法、がないわけじゃないけど。


「あれ、梨音りねじゃん、どうしたの?」

「日直の仕事終わって、忘れ物取りに来たの。彰人こそどうしたの」


 教室に戻ると、丘崎おかざき彰人あきとが机の上のプリントを見つつ、椅子をガッタンガッタンと揺らしていた。他にも二グループのクラスメイトが残り、思い思いに話している。


「生物の宿題忘れたからさ、岡田先生から罰としてプリントが来たってわけ」

「また? しょっちゅう忘れてるじゃん」

「学年トップ20に入るような秀才には分からないだろうねえ、毎日宿題をやることの大変さが。結構しんどいんだぜえ」


 ワックスで遊ばせた黒髪の無造作ヘアにぐしゃっと手を当て、わざとらしく泣いているような演技をしてみせる。こういう仕草ももう何十回と見てきたから「はいはい」とスルーして席に戻り、置き忘れていたペンケースをバッグに詰める。


 彰人と付き合い始めたのは中学二年生のときなので、もう丸三年になる。秋の文化祭、クラスの出し物の準備で仲良くなり、そのまま彼から告白されて付き合うようになった。


 私はもう一段レベルが上の高校も狙えたけど、「一緒の高校行けたらいいよな」という彰人の言葉が嬉しくて、今の高校を受けた。彰人はお世辞にも勉強が得意とは言えなかったけど、私なりにしっかり教えて、無事に合格することができた。彼が中学で頑張っていたテニスの県大会の成績も内申点として加点されたに違いない。テニスは高校一年ですぐ「先輩とソリが合わない」といって辞めてしまったけど。


 高校二年から文系選択で一緒のクラス。始めこそクラス内カップルとして騒がれたけど、付き合って三年ともなると私達二人も大分落ち着いてしまい、今は当たり前のようにペア扱いされている。


「ねえ梨音、ここ教えてくれない? 遺伝がさっぱり分からなくてさ」

「やーだー、いっつも寝てる方が悪い。たまにはちゃんと自分でやりなよ」

「いやいや、次からちゃんとやるからさ。今週土曜に映画行くじゃん、その日の午前に勉強しようと思って。時間あったら一緒にやろうぜ」


 頼むよ、と文句を言う彰人に、私は進路調査票を見たときよりも大きな溜息を吐き出した。



 最近、なんで付き合ってるのか、分からなくなるときがある。デートも行くし、そういうときは長時間おしゃべりできるけど、それは付き合いが長いから話すネタに事欠かないだけのようにも思える。学校にいるときは勉強や宿題のことで私が彼をたしなめることばっかりで、彼氏・彼女という肩書きも薄れている。


「進路希望票、出した?」

「やっば、出してない! 鹿野先生、明日あたりめっちゃ言ってきそう」

 やっぱりだ。「あと数人」の中に彰人もいた。


 近くの女子グループが大声で笑っている。今なら聞き耳を立てられることもないだろう、と私は彰人の横に立ち、思い切って訊いてみた。


「ねえ、彰人。大学どこ行くか、決めた?」

「ううん、それも決めてないんだよなあ。なんで? 梨音は決めたの?」


 一瞬言葉に詰まる。いつものように、軽いトーンで言おう。そう決めて、両手をギュッと握る。


「ううん、私もまだ決めてなくてさ。なんか、その、ほら、一緒のところとかさ——」

 私の勇気は、彼の睨むような真顔で遮られた。


「なんで? 俺のことなんか気にするなよ。梨音の行きたいところ行けばいいだろ」

「そ、れは……」


 そんなこと、言われなくても分かってる。でも、「彼と一緒のところも志望校の一つに入れたい」なんて思うのは間違ってるのだろうか。そう返したいけど、会話を終わらせたように机の上に視線を戻した彰人を見てると、どうしても言えなかった。


「俺は俺で決めるから」

「そう、だよね……うん、分かった! 変なこと聞いてごめんね!」


 明るくこの場を締める。どうか、声が上擦ってるのが、バレませんように。


「プリント頑張ってね、またね」


 足早に教室を出ていく。涙を拭うのは誰にも見られないところにしたい。


「ふう……ふっ……うっ……」


 靴箱の手前で、体を隠すように隅の柱に寄りかかる。浅くなった呼吸はだんだんしゃっくりのようになっていき、数十秒後には紛れもない泣き声になった。


 なるべく一緒にいたいと、そう願っただけで、なんであんなに拒絶されないといけないのか。


 彰人のことが分からなくて、彰人となんで付き合ってるのか、どこが好きなのか、私自身も分からなくなって。感情が渇いた心から、よくこんなに出てくるなと感心するくらい、涙が止まらなかった。


「梨音……ちゃん?」


 後ろを向いていたのに不意に名前を呼ばれ、思わず「えっ」と返事をしてしまう。目を擦って慌てて振り向いたけど、泣いていたことはバレバレだろう。


「あ……悠真ゆうま君」


 芳田よしだ悠真君がダークブラウンのさらさらな髪を揺らして、私の表情を確かめるように顔を近づけた。


 一年のときに同じクラスで、何かと気を遣ってくれる。同じ文系を選びつつ隣のクラスになってしまったけど、今でもうちのクラスに来る機会がある度に声をかけてくれる友達だ。


「……泣いてるの?」

「ん、ちょっとね」

「また丘崎に何かされたの?」

「……ふふっ、悠真君には隠せないね」

「僕はずっと聞いてるからさ」


 一年のときから、私が彰人に対して怒ったり悲しんだりしてるときは、よくこうして話を聞いてくれている。今日も自然と「帰ろう」と促してくれて、駅まで一緒に歩くことになった。


「そっか、そんなことがあったんだ」


 口笛のように音を立てる風が吹く寒空の下、駅までの道を並んで歩きながら、私の話を聞いた悠真君は、手を口に当てて考え込むように唸った。自分のじゃないことでこんなに悩んでくれるなんて、優しい人だなと思う。


「それで、梨音ちゃんはどうしたいの?」

「どうしたいって……大学を?」

「それもだけど……丘崎とのこと」

「ん、それ、は……」

 直球の質問を受けて思わず言葉に詰まってしまう。


「どうなんだろ……別れたい、とか考えたことはないけど、付き合ってる理由とか、なんか三年も一緒にいるとぼやけてきちゃって、惰性みたいなところもあるのかな……楽しいけど、でも、今回みたいに悲しい思いすることもあって……ってごめん、まとまってないね」


 自嘲するように苦笑した私に、彼もフッと笑みを零して真っ直ぐ前を向く。


「謝ることじゃないよ。急にあんなこと訊かれたら答えに困るだろうし。でもそもそも、僕ならそんな思いさせないけどなあ」

「えっ……」


 あまりにも自然に口にしたその言葉を理解するのに、少しだけ時間がかかる。それは、どういびつに解釈しようとしても、好意の証だった。


 もちろん、気付いていなかったわけじゃない。私に向けられる優しさや気遣いが他のクラスメイトに対するものと比べてやや違うことは、さすがになんとなく分かっていた。それでも、ただただ、彼の真っ直ぐな想いに甘えていた。


「ねえ、梨音ちゃん。今度さ、一緒に志望校決めない?」

「え、一緒にって……?」

「ううん、別に一緒の学校にするってことじゃなくてさ。大学のこと、学部とかレベルとかちゃんと調べて、進路希望調査票に書く大学決めようよ。僕、十月に自分でやってみたから調べ方のポイントとか教えてあげられるよ」


 確かに、成績が一緒くらいの悠真君と一緒に調べれば、うまく決められそうな気がする。

 どうせ書かなきゃいけないんだ。彰人も行きたいところに行けばいいって言ってたし、私が勝手に決めればいいんだ。


「うん、じゃあ、そうしようかな」


 こうして、悠真君と約束して、駅のホームで別れる。悠真君は反対側のホームから、小さく手を振ってくれた。


 翌日金曜の夜、具体的な時間も決まったので、彰人と通話する。悠真君との約束を伝えるために。


「だから、明日の土曜の午前中、大学選びやることにしたの」

「そっか。じゃあ俺、映画館の近くで勉強してるからさ。終わったら合流してお昼でも食べようぜ」


 そう言えば、勉強するって言ってたな。でも、悠真君が平日は難しいと言ってたから、そこしか空いてる時間がなかった。


「ううん、ちょっと分かんない。食べてから合流になるかも」


 その反応を窺うような一言は、彰人への期待でもあった。イヤだと思ってくれたらいいな、嫉妬してくれたらいいな、なんて、子どもっぽいと分かっていつつも口にしてしまう。期待通りじゃなかったときのダメージが大きいことも分かってるくせに。


「あー、分かった。じゃあ終わったら連絡くれればいいよ」

「そう、だね」


 心臓がキュッと締めつけられる。まるでちょっと買い物に行くのを許可されたかのような、軽いトーン。他の男子と週末遊ぶことを、何とも思ってないような素振りに、降る時期には少し早い雪のように、悲しさが心に積もる。


「じゃあ、またね」

「ああ、またな」


 通話終了のボタンを押してから、しばらく呆然とする。

 これで良かった。今の彰人といても、私が傷つくだけだ。


 そう思っているはずなのに、「お昼は別々かも」なんて言わなきゃよかったと後悔しているのはなぜだろう。理由も曖昧なまま、私は毛布を被ってベッドに横になった。



 ***



「やっぱり梨音ちゃんは英・国・社どれもバランス良いからどこでも狙えるね。ほら、この大学も二次の配点高いけど、英・社だから行けそうだよ」

「ホントだ。東京の大学なんて無理かな、と思ってたけど、ちゃんと選べば狙えそう」


 土曜日、私と悠真君はカフェで志望校選びを始めた。学校の近くの店でやるかと思ったけど、悠真君の提案で、ショッピングモールも近くにある、私の最寄りから二駅の大きな駅に集合した。


「まあ二次試験の勉強難しいと思うけど……」

 不安を顔に出すと、彼は柔和な笑顔で「ちょっと待ってて」と手早くスマホを検索する。


「でもさ、このサイト見てみて。例えば日本史の出題範囲、江戸以降みたい。だから、早めに志望校決めて集中的に勉強すれば十分行けると思う」

「わっ、本当だ、狭く深くやる感じなんだね。私、江戸以降の方が好きだからこの大学相性良いかも」

 志望校に書けそうな大学が見つかった。嬉しくて、ついつい話が脱線してしまう。


「悠真君は世界史だよね? 世界史って難しくない? 私、カタカナたくさん出てくるの苦手で。あと、14世とか15世とかも苦手! 世襲制やめてほしい!」

「確かにそういうの覚えるの大変だけど、慣れてくると意外と大丈夫。あと、テレビで遺跡の話とか出てきても分かるから面白いよ。この前の『世界の裏側、こんなところ』でもやってたよね」

「あ、私も見た! あの番組面白いよね。あれ見ると世界史に憧れる!」

「ふふっ、憧れるってどういうこと」


 梨音ちゃんは面白いなあ、といって悠真君がおかしそうに笑う。そのままテレビの話から音楽の話、漫画の話と移っていく。


 色々話せて楽しい。楽しいけど、心の中ではずっと、一つの想いが渦巻いていた。



「悠真君、色々教えてくれてありがとね。すっごく助かった!」


 志望校に書けそうな大学もまとまり、お昼近くなって、私は悠真君に改めてお礼を言う。彼は、目一杯照れたような表情を浮かべ、カロリーゼロの甘味料の袋と同じピンク色に頬を染める。そして、数秒言い淀んだかと思うと、真っ直ぐ私の方を見て口を開いた。


「さっき教えた、梨音ちゃんが『相性良いかも』って言ってた大学さ、僕の志望校なんだよね」

「えっ、そうなの?」

「うん……なんか、その、一緒のところ狙えたらさ、頑張れるなって……」

「…………っ」


 言葉に詰まった私ができるのは、緊張と動揺で渇ききった口で、唾を飲み込むことだけだった。


 なんて返事するのがいいんだろう。イヤな気持ちはしないから、素直にお礼を言えばいいんだろうか。「私も、頑張ってみようかな」と答えればいいんだろうか。


 迷っていたとき、手元に置いておいたスマホが震える。液晶を覗くと、彰人から写真が送られてきていた。


【なんとなく分かった気がする!】


 そこには、生物の遺伝に関する問題プリントが映されていた。書き込まれているのは、紛れもない彰人の字。パッと見ただけで分かる。ところどころ、間違っている。


 午後はモールで映画を観る予定だ。この近くで一人でやってるはず。

 ああ、うん。世話が焼けるけど、教えてあげたいなあ。


 悠真君の方が、受験生として一緒に切磋琢磨できるかもしれない。

 でも、来年一緒の時間を過ごしたい相手は、違っていた。

 どれだけ考えても、たくさん話したいのは、たった一人だった。



「悠馬君、ごめんね。志望校は、その……まだ分かんなくて。私、やっぱり……」


 どう伝えていいか、どう謝っていいか分からないまま話しかけて、そのまま黙ってしまう。そんな私をフォローするように、悠真君は眉をハの字に曲げながら笑った。


「いいよ、そんな気がしてたから。さっきから梨音ちゃん、心ここに在らずなときあるもん。それに、今もスマホ見て、すっごく嬉しそうな顔してたしね」

「ごめんね、だからお昼も——」

「大丈夫だって」

 彼は私から視線を外さないまま、人差し指を出口に向ける。


「そういうこともあるんじゃないかと思ってさ。何のために僕が、映画館のある場所で集合したと思ってるの?」

 全部お見通しだったことに、私も思わず涙ぐみながら笑ってしまった。


「ホントに悠真君には隠せないね」

「僕はずっと見てるからさ」

 ありがとね、ともう一度お礼を言ってバッグに荷物をまとめる。


 席を離れるとき、悠真君は私を手首をキュッと掴んだ。

「諦める気ないから」

「ん……うん」

 ダメだと否定するのも違う気がして、小さく頷いて、私は急いでカフェを出た。



 彰人に場所を聞いて、送られてきたファミレスに向かう。自然と早足になる。


 なんで付き合ったかとか、どこら辺がタイプだとか、分からなくなるときもあるけど、ただ一緒にいたい。それで、十分な気がした。



「待ってたぞ」

「ごめん、ちょっと迷っちゃって」


 ファミレスのソファ席で待っていた彰人に挨拶して向かいに座る。勉強していたことを褒めてほしそうだったので、「結構間違ってたよ」と言うと「ええー」と肩を落としていた。


「それで、大学は決まったのか?」


 タッチパネルを見ながら訊いてきた彰人に、悠真君と一緒に選んできたことを話す。そして、一言、まっすぐな気持ちを付け加えた。


「でも……やっぱり私、彰人の希望も知りたいな。別に無理に一緒のところに行きたいってことじゃないんだけど」


 彼は、どう返そうか迷ってるらしく、髪を手で撚りながら黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「俺さ、高校入ったとき、すっごく後悔したんだよ。自分にとってレベルが高かったっていうのもあるけど、梨音は本当はもっとレベル高い高校行けたのに、俺のために落としてくれたんだってこと思い出してさ。上の高校入ってればもっと色んな選択肢があったかもしれないのに、俺と一緒にいようとしたから可能性潰しちゃったんじゃないかなって」

「そんなこと、思ってたんだ」

「そうだよ。大学はちゃんと自分の意志で選んでほしかった。俺がどこに行くとか関係なくさ。一番行きたいところに行ってほしかったんだよ」


 だからこの前、あんな言い方をしたのか。


「それに、梨音の大学が決まれば、俺はその近くで少しレベル落としたところ探せばいいやって。近くにいたいのは、俺も一緒だからさ」


 照れているのか、彰人はずっと目を逸らしたまま。


 ああ、そっか。久しぶりに思い出した気がする。文化祭のときから、今までずっと、私は彼のこういう不器用な優しさに惹かれていたんだ。


「まったく、素直じゃないんだから」

「うっせ。それより、悠真から何か言われたりしてないだろうな」

「え?」


 急にぶっきらぼうな言い草になり、やや不機嫌そうに私に視線を向けた。


「志望校選びは手伝えないから、アイツに手伝ってもらった方が梨音も助かるだろうと思ったけど、許したのはそこまでだからな」


 口を尖らせる彰人。ちゃんと嫉妬してくれてたんだと思うと、申し訳ないと思うと同時に、嬉しさが込み上げてきてしまい、口元が綻ぶ。


「ふふっ、彰人はかわいいなあ」

「あーもうっ、ほら、食べるもの選ぶぞ! 早く食べて映画行かないと!」


 タッチパネルを差し出す彼の手に触れる。熱が伝わってきて、私の顔も熱くなった。



 ***



 翌週月曜の昼休み、私は職員室に行って調査票を提出した。大学名を見ながら、鹿野先生が納得したように頷く。


「うん、良いところ選んできたな。そういえば、丘崎がまだ出してないんだよ。明日までだからなって言っておいてくれ」

「分かりました。明日にはちゃんと出せると思います!」


 放課後、彰人の相談に乗りながら一緒に選ぶつもりだ。


 二人の行く先は分からないけど、もうしばらく、同じ方向を向いていられるように。


 〈了〉

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君の行く先 六畳のえる @rokujo_noel

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