スカイハイ アンド アンダードッグ

縦縞ヨリ

第一章

第1話 青空のカナタとジュブナイル

 この世界には、男女の性別以外にバース性と呼ばれる三つの性がある。

 一つ目は「βベータ」バース性特有の体質を持たない多くの人々。所謂普通の人。

 二つ目は「αアルファ」容姿端麗で、身体能力、頭脳共に優れた性。男女共に妊娠させる身体機能を持っている。しかしα同士では子供が出来にくい。世界の人口の十パーセント程度とされている。

 三つ目は「ΩΩ」男女共に妊娠する事が出来る。定期的に来る発情期はαとβ、特にαをフェロモンで強烈に誘惑する。その為社会的な地位は上がりにくい。社会的弱者。


 しかし、Ωは最もαの子供を産む確率が高い。人口の三パーセント程度。


 その中でも男性のΩは、人口の一パーセントにも満たない。






「やめてください!」

 更衣室に響いた小さな怒声に、制服に着替えていた参加者の何人かが振り向く。

 自分も思わず目を向けると、さりげなく首筋の匂いを嗅いでいた男がぱっと離れた。

「自意識過剰なんだよ」

 気まずそうに目を背けて、足元に置いてある鞄なんかを避けながら、そそくさと知り合いであろう男の所に向かう。そうしたらたまたま、自分の近くに来てしまった。

「匂い分かった?」

「わかんねぇな」

 下卑た小声が聴こえる。

 それも、匂いを嗅いだ相手には聞こえていたのだろう。更衣室の奥でもそもそと着替えていた彼は、ただでさえ肩身が狭そうなのに、俯いて小さくため息をつくのが見えた。

 首筋の匂い、フェロモンだろうか。

(もしかしてオメガか……?)

 思わずまじまじと見てしまう。細身で、身長は170センチちょっとだろうか。体格も華奢だし、少なくともαアルファには見えない。

 紺のスーツをロッカーに掛けて、薄いブルーのネクタイを引き抜き、ワイシャツのボタンに手がかかる。

 男性のΩオメガは珍しい。どんな身体なのだろう。αである自分とはやはり違うんだろうか。

 するりと袖を抜いたワイシャツ。その下にはしっかりと長袖の黒いインナーを着込んでいた。

 俺はそこで初めて、彼の裸が見たいと思っていた事に気がついた。

(オメガでも更衣室分けて貰えないのか、可哀想だな……)

 まじまじと見ていた自分の事は棚に上げて、俺も制服のエプロンに袖を通した。

名札もきちんと着いているか確認する。

志津暁しづあきら

ふう、とひとつため息をついた。一日長そうだ。


 今日は会社主催の技術コンテストである。

 業態は関東から九州までに分布している大手のスーパーマーケットで、今日はその中でも精鋭を集めて、各々しのぎを削って技術の向上に生かしましょうというイベントだ。

 場所は本社横にある自社の研修センターで、各部門合わせておおよそ百名程がエントリーしている。

 ピリピリしている出場者に紛れて、俺はロビーのソファに座って時間を潰していた。

 腹減ったなあ。

 なんせ学校の寮からで二時間近くもかかったので朝も簡単にしか食べれなかったのだ。

 自分の競技は前座みたいなものだったので早々に終わり、午前中はあちこち自由に見学しつつ、昼食まで時間を潰す予定である。

「志津くん、トレーナーさんが一階の展示見てきても良いって」

「んー……俺は良いかな、あんま興味無いし」

 そう? と返事をして、同じ競技に出ていた女の子はパタパタと階下に降りていった。バイト先の会社の成り立ちとか、多分この先一生使わん知識だ。

 ほんと、一日長そうだなあ。

 と言うのも、俺は社員ではなくアルバイト部門のノミネートで、競技自体も各々決められたものを決められた手順で陳列する単純なものだった。

 早かったとは思うが、丁寧さみたいなものは減点を取られそうだなあ。

 とは言え、別に順位には興味が無く、ほんの少しのお手当てと、帰りに山と持たされると噂の土産目当てに来ただけなので、終わってしまえばあとはどうでも良いのだ。


 ふと、何処かで、場の雰囲気に似つかわしくない声がした。なにやら切羽詰まった、若い男の声だ。

 何となく興味が湧いて近付く。

 見ると、薄く扉の空いた控え室の奥で、さっきのΩらしき彼と知らない男が揉めていた。

「今どういう時間だと思っているんですか!? 妨害行為ですよ!?」

 やはりさっきの彼だ。ブルーのエプロンは俺と同じグロサリー部門のものだが、もちろん店も違うし、会ったことは無い。

 何歳くらいだろう、若く見えるが、バイトで無ければ自分より一つ二つ年上かも知れない。高卒で正社員になった口だろうか。

 艶のある少し長めの黒髪を、襟足から刈り込みツーブロックにしていて、清潔感もあるが、どちらかと言えば幼さが滲み出ている。口元は白いマスクをしているが、猫のように丸く切れ長の目が印象に残る。

「競技なんかどうでもいいんだよ……! 俺と付き合ってくれ、あんた、俺の運命の番だ!」

「はあ?」

 思わず小さな声が出てしまったが、気付かれてはいないようだ。眉唾な話に彼も顔を顰めた。

「俺に運命だって言ったのは、あんたで十一人目だ」

 忌々しげに吐き捨てる。やはりΩなのは確定らしい。

 男は一瞬動揺したが、食い下がる。

「俺が運命だ! あんたの匂いで一瞬で分かった」

「クソめんどくせぇな」

 彼の口調が荒くなってドキッとする。見た目には大人しそうな人に見えるのだが。

「あんた俺と競技一緒だろ? 俺より上位に着けたら話だけ聞いてやる。俺より下だったら二度と絡んでくんなよ」

「は、上等だ。俺が勝ったらその身体に嫌ってほど言い聞かせてやるよ」

 運命というからには、男はαなのだろう。αは総じて知能指数も高いし、身体能力も高い。負ける気の無い勝負なら臨むところという事だ。

「覚えてろよクソセクハラ野郎」

 ふん! と踵を返して、肩を怒らせたΩの彼がこちらに向かってくるのに気が付き、慌てて扉を離れて、近くのソファーに陣取って何食わぬ顔をする。

 そんな俺の前を、部屋から出てきた彼がイライラしながら横切って行った。確かに、一瞬甘い匂いが鼻を掠めた。

 大丈夫かよあの人。

 そうは思ったが、啖呵を切ったならもう自分の責任としか言いようが無いし、俺の知った事では無い。

 素知らぬ振りをして立ち去ろうとしたが、どうにもあの彼が心配で、後ろ髪を引かれる思いがしたことに自分で驚いた。


「八代くん、また虐められたのかい?」

 振り向くと、中澤ゾーンマネージャーがひょいと手を上げて挨拶してくれた。談笑の輪を抜けてわざわざ声をかけてくれた様だ。

 一瞬さっきの自称運命の番の件かと思ったが、多分誰にも見られてはいないし、恐らく更衣室でちょっかいを出された件だろう。

「いえ、慣れてますんで」

「そうかい。まあ、君は見世物でここにいるんじゃないからね。精々実力で捩じ伏せなさい」

 にっこりと笑うが、ゾーンマネージャーは各エリアの長。もちろん自分のエリアのトロフィーは多いに越したことはない。

 見世物、と煽られても平気なのはこの人の人柄を良く知っているからだ。俺だって、実力でここに呼ばれた自負はある。

「はい」

 きっちり仕事はこなしてみせなければ。自称運命なんてのはどうでも良いが、会社に見放されては、俺のようなはぐれ者は生きて行けない。

「これからだろう? がんばってね」

「はい! ありがとうございます!」


 午前の競技が全て終わったらしく、やっと食堂が開いた。意気揚々と食券を渡し、テキパキとトレーを惣菜で埋める。揚げたてのチキン南蛮。最高である。

 早く座って食べたいが、生憎と近くの席は混みあっていた。さてどうしようかと辺りを見回すと、偶然にもさっきのΩの彼が居た。

 トレーを持ってやはり席を探していた用だが、ふと誰かを見つけて駆け寄っていく。

「エナ!」

 振り返った女性は彼と同い年位で、髪色こそダークブラウンのボブにしているが、目はしっかりとアイシャドウで彩られ、派手なメイクの目立つタイプだった。一言で言えばギャルっぽい。

 女性はぱっと顔を輝かせて両手を広げた。

「カナタ! 超久しぶり!」

「来てたんだ! ご飯一緒しよう」

「今どこだっけ?」

「青空店だよ」

 トレーを持っていたので胸に飛び込んだりはしなかったが、手ぶらだったら抱きついたのでは無いかと言う勢いだった。

「なんだ彼女か?」

 近くに居た見知らぬ社員が誰にともなく言うのが聞こえる。超久しぶり、という言葉からするに彼女ではなさそうだ。しかし付き合っていてもおかしくない距離感。

 何となく気になる。

 二人は窓際の小さなテーブルを取る事にしたらしい。

 素知らぬ振りをしてその背後のテーブルに陣取り、昼食を食べ始める。

 窓際の席は明るいが、奥まっているのもあり比較的静かだ。

 オメガの彼とは丁度背中合わせになっていて、微かに甘い香りがするような気もする。気の所為かもしれないが。甘くて優しい良い香りだ。ミルクに蜂蜜を溶かし込んだのに、薔薇の花弁を一枚浮かべたみたいな。

 ……たしかに、これは運命を感じなくも無い。先程のイザコザを見ていなければ、危うく十二番目の運命になりそうだった。そういう甘い魅力のある香りだった。

「ねえ、ちょっと前にカレシいたじゃん、アレ結局何で別れたの?」

 ひそひそと聞いてはいるが、地の声が大きいためか割と聴こえる。

「えっと……」

 彼は人目を気にしているのか、小声でぽそぽそと何か言っているが聞き取れない。

「……何かに……の…………いから……」

「はあ!? 意味わからん! サイコ野郎じゃん!」

「俺も悪いんだけどさ」

「最悪だわ……別れて正解だよ、もっと大事にしてくれる人探しなよ」

「そんな人居ないよ、俺こんな体だもん」

 寂しそうに言うのが聴こえる。流れしか分からなかったが、酷い男に引っかかって別れたらしい。

 馬鹿だなあと思う反面、自分だったらどうするかなとも考えてしまう。

「あのね、今日私の友達も仕事で来てて、女の子なんだけど、前にカナタの話したら会いたいって言ってて……」

 しばらくそうして聞いていたが、話が興味のないものに逸れた頃、ちょうど食べ終わったので席を立った。


 正直に言えば、Ωの身体に興味がある。しかし男となると話は別で、バイでも無いので流石に抵抗があるか。

 正直貞操観念は薄い方で、お付き合いとなれば早々にやる事はやるし、付き合うまで至らない相手でもお誘いがあれば喜んで乗る方だ。

 俺も所謂だらしない男らしいが、女の子に関しては向こうから来るので自分は悪くないと思う。

 しかしながら歴代の彼女達は皆「思っていたのと違う」と言って去っていった。付き合う以前は大して話した事も無かったのに、どう思われていたのだろう。

 彼女達はαというステータスとαの男のセックスに興味を引かれているのであって、俺自身を好きになっている訳では無いのだ。

 なのに懲りずにお付き合いを重ねているのは、情けない話だが性欲を適当に発散したいからに他ならない。

 元々両親とは折り合いが悪く、素行が悪すぎて遠方の学校の寮に叩き込まれた身である。孤独は思春期の心を容赦なく苛んでいたし、セックスに慣れることは自己肯定感を上げることにも一役買っている気もする。

 俺はもう子供では無いから、ちょっと寂しくても大丈夫なのだ。きっと。たぶん。


 酷い緊張感の中競技を終えて、やっと表彰式が始まったのはもうもう三時を回った頃だった。青果部門、精肉部門、と順々に受賞者が呼び出され、上位三位までが受賞者となる。

 たまたま来ていた馴染みの先輩達も、受賞は確定で問題なさそうだとお墨付きをくれた。

 問題は順位である。今更だが胃がキリキリした。

 正直、恐ろしかった。相手が元々失礼な態度であったものの、変な事を言って返って期待させてしまったかも知れない。

 αとΩはそもそも対等な間柄では無い。二人きりになったら最悪逃げられないかも知れない。腕力は勿論のこと、フェロモンで威圧グレアされたら立っていられないような状態に陥る事もある。

 例の自称運命十一号は、隣のパイプ椅子に座っていた。互いに最前列。受賞者は基本前の席を指定されている。

 先程からちらちらと視線を送られて、ゾワゾワと背筋が泡立った。

 どうか、どうか、お願いします、この人よりは上にしてください……!

「加食雑貨部、前列の方、前に出てください」

 普段滅多にお会いできない社長は、俺の前に立つと、鋭い瞳を輝かせてニカッと笑った。

「金賞、青空店、八代奏多やしろかなたさん」



 受賞式で、例のΩの彼は見事に金賞をかっさらっていった。銀賞だったらしいαは物凄い顔で彼を睨んでいたが、あれだけ啖呵を切った手前、これ以上手出しは出来ないんじゃないだろうか。

 別に彼自体……名前は八代奏多さんか、八代さんに、個人的な興味がある訳では無いが、流石にあんな現場を見た手前心配ではあった。

「ありがとうございます。これからも日々邁進して、お店と地域の皆様に貢献したいです」

 そう言って、トロフィーと賞金を受け取った八代さんが、深々と頭を下げる。周りと一緒に拍手をしながら、自分の順位を思い返した。

 六人中、三位。

 ある程度準備というか練習はしたが、特別身が入っていたかと言われればそんなことも無い。何となく、羨ましい様な気がした。

 自分には昔から、所謂やりたい事というものが無い。

 正直言ってαなので人よりも「できてしまう」という事はままある。サッカーやバスケ、時にはロックダンスのチームに入っている友人に誘われたりして、やってみるとそれなりにできてしまうのだ。

 できて少し楽しくなって、少し練習して、それでいつも、

『そりゃαだもんなあ、やれば出来るに決まってんだよな』

 自分たちが積み上げてきたものを、数週間かあるいは数日で抜かれるのはどういう気持ちだろうか。

 そう言う友人たちの目には一種の呆れか、羨ましさか、時には嫌悪の色が現れてさえいた。

 本当にやりたい事が無いのか、やってる時は楽しかったじゃないか……そう思う事もあるが、何より、誘ってくれた友人達の態度が辛くて、中途半端な興味で頑張るのは止めた。

 俺がΩだったら、友人達も『Ωなのに凄い』と言って、笑ってくれただろうか。

 でも、三位の小さなメダルが、なんだか今日は情けない。もしも一番になったら、八代さんにどんな表情を向けられるんだろう。 


 無事に表彰式が終わって解散となり、俺は同期の橋本絵奈の友人とやらに呼び出されていた。

 エナはまだ仕事があるので、一緒には来れないらしい。要件は聞いていないが、悪い子ではないので大丈夫だろうとのこと。

 場所は沢山ある会議室のうちの一室で、今回のコンテストには取引先から見学という形で来ているらしい。

「はじめまして、お時間いただいてすみませんね、私、橋本の友人で四方清華よもせいかと申します」

 会議室は端の机が向かい合わせになっていて、そこに対面に座っている。

 何となくだが採用面接みたいな空気感だった。

「お世話になっております。青空店の八代奏多と申します。派遣会社の内勤の方ですよね? 今日はどういったご要件ですか?」

 スーパーマーケットは常に人不足、故に派遣会社との取引もある。

 四方氏はスラリとした体型で、ピタリと体のラインが出るホワイトのスーツに、黒のハイヒール。黒い長髪を優雅にゆったりと流している。知的でクールな美人たが、なんとなく腹の中が読めない。エナの言う「悪い子じゃない」がなんとなく疑わしい。

 貼り付けたような笑顔だが、値踏みする様に俺を見ている。

「Ωの男性が居ると伺って、是非お会いしたいと思いまして」

「はあ……」

 バース性の話題は正直面白くない。派遣会社だってΩは扱いにくいのではないだろうか。なんせ発情期ヒートの時は外出もままならないのがΩだ。

 そもそも、今の会社は大変なりに気に入っているので、転職するつもりは無い。

「今のご待遇に満足されていますか?」

「ええ。特別不満はありません」

 不満が無いわけでは無いが、実のある話では無さそうなのでとっとと切り上げたい所だ。

「転職の予定はございませんので、すみませんがこれで失礼致します」

 正直疲れているし、もう帰りたいのだ。

 立ち上がろうとする俺を四方氏がまあまあと引き止めた。

「今のお仕事を続けながら、空き時間でアルバイトをなさいませんか?」

「バイトですか……?」

 正社員にアルバイトを進めるってなんだろう。

「あの……?」

「……私、こういうお仕事のご紹介もしているんです」 

 そう言ってパラパラと広げれた、色とりどりの小さな紙を見て、俺は頭に血が上るのを感じた。 

「もう帰りますので! 失礼します!」

「……なんで? あなたは若くて美しいし、今が一番稼げる時だよ? Ωだし将来色々不安なんじゃないの?」

「あんた……っ」

 不気味に微笑む四方は、広げられたショップカードを一枚拾うと、丁寧に、見せ付けるように俺の前に置いた。

『可愛いΩの男の子多数登録! 癒しと官能の 一時をお楽しみください』

この手の話を 振られた事が無い訳では無い。要するに、彼女は俺で不労所得を得たいらしい。

「はっ、あんたに何割入るの?」

「二割。言っとくけど良心的な歩合だよ?」

 この四方という女、派遣の内勤の他に水商売のスカウトもやっているのだ。

「こんなの会社にバレたらあんたもクビになるだろ!」

「別に構わないわよ? 私だってまだまだ身体で稼げるし」

 にやっと笑った四方氏の顔に、かつて父親に言われた暴言がフラッシュバックした。


『ふざけるな! 学歴も何も無いΩがどうやって生きていくんだ!水商売で食っていくつもりか!?』


「ふざけないでくれ! そこまで落ちぶれてない!」

 口に出してしまった後、後味の悪さに罪悪感を覚える。なにもそういう仕事の人を貶したい訳では無かったが、そう取られても仕方ない事を言った。

 だけど譲れないものもある。

 四方氏はかっと目を見開き、明らかに怒りの形相をして俺を見た。

「……あんたが、何しても構わないし興味無いけど、俺はそういう事はしないって意味だよ」

「何がダメなの? はは、もしかして処女?」

 目が座っている。何か地雷を踏んだのは間違いないが、先に失礼な話を振ったのはそっちだ。

 立ち去ろうと席を立ったその時、四方氏はスーツのポケットから、何かを取り出した。

 小さな、アトマイザー……? 

「社会勉強させてやるよ、一回やればどうでも良くなるよ」

 シュッとかけられたスプレーの匂いは甘く、そしてものすごく嫌な感じがする。

 なんだこれ、気持ち悪い……!

 慌てて会議室を出ようと駆け出す。もうこんな所には居たくない。それにこの匂いをどうにかして洗い流さないと……

 ガチャ、と扉を開けると、すぐ先のソファに、例の十一番目の運命の男が座っていた。どうやら待ち伏せられて居たらしい。

 なんで。いや、なんだか、頭が働かない。

怖い。

 男の目付きが一気に変わった。

「……ヒートか?」

 ぞっとした。あの日、あの最悪の日の記憶が蘇る。

 咄嗟に今出たばかりの会議室に飛び込んだ。内鍵をかける。しかし、鍵があれば外からでも開く扉だ。まずい。

 ガンッ!!

 外から、扉を思い切り蹴られた。扉を突き抜けて叫び声がする。

「とっとと開けろ! てめぇやっぱり俺の番だ! 身体が一番わかってるじゃねえか!」

 足が震える。奥歯が噛み合わない。あの日、あの雨の日、見ず知らずの男に酷く犯された記憶が蘇る。

 怖い、助けて、誰か、お父さん……

「やめて……っ!」

 声に涙が混じっていたかも知れない。それでも相手は止まらず、ガチャガチャドアノブが暴れ、ドアが蹴破られようとする様はパニックホラーの映画の様だ。

 ふ、と肩に手が置かれて我に返る。

「四方さん……」

「……ごめん、私勘違いしてたわ」

 手を引かれて、なるべく奥の席にと促される。

 怒号が遠くなって、怖いのは変わらなくても少しだけ落ち着く。

「……八代くん、君、水商売しないんじゃなくて出来ないんでしょ? ……その怯え方普通じゃ無いよ」

 ハンカチで頬を拭われて、自分が泣いている事に気がついた。

「これはオメガの擬似発情フェロモンのコロン。ちょっとしたおもちゃだけど……あのひと多分急性発情ラットになっちゃってる。タイミングが悪かったのかな」

「っ、あのひと、……おれのこと、……っつ、番だって……」

 呼吸がおかしい。どうしよう、苦しい。

「ちょっと……ごめんね……どうしよう……」

 背中をさすってくれる手に悪意は無さそうだ。エナの言う通り、根から悪い人では無いのかも知れない。

 でも嫌がらせにしては行き過ぎている気もするし、よほど俺が逆鱗に触れたのだろう。

 扉が蹴られる音は止まない。

 人の気配が増えている気がする。そうか、今日は社内でも選りすぐりの精鋭、しかも主に若手があつまっている。他にもαが居ない訳が無い。

 大方、奴のラットにびっくりして集まって、そのまま触発されたとかそんな所だろうか。

「とりあえず中和剤吹いとこう、でもそれであの人達が治まるかな……ちょっと脅すつもりだったんだ、こんな事になっちゃって申し訳ない」

四方氏は流石に反省した様で、しゅんと項垂れている。

「あんただけでも先に逃がせば良かった……」

 扉が開けば間違いなく襲われる。ラットのαが複数人居るなら四方氏もただでは済まない。

「いや、私が全部悪いんだほんと、言い訳するとね、私風俗で学費稼いで大学まで出たの」

 改めて顔を上げると、四方氏は先程までの貼り付けたような仕事用の笑顔ではなく、年相応の女の子の顔だった。眉根を寄せて、はは、と困った様に笑う。

「無茶してでも稼げる時に稼いで良かったってマジで思ってんの。でも君みたいな子も居るよね。ちょっとマヒしてたわ」

 彼女なりの親切兼お小遣い稼ぎというところか。ようやく呼吸が落ち着いてきたが、状況は変わっていない。

「あのね……社会勉強はとっくに済んでんだ」

 学生の時に見知らぬ人に襲われた。その時の恐怖が、現在まで自分を苛み続けている。告白されて男性と付き合ってみた事もあったが、結局何も出来なくて別れた。

「……ごめん、ほんと。普通じゃなかったんだ?」

「……わかんの?」

「君の怯え方は異常だよ」

「う、……っ」

 呼吸が苦しい。アルファの濃い、重いフェロモンが扉の向こうから漂ってくる。

『そこのガキ、鍵もってこい! お前αだろ?俺らの後にやらしてやるよ』

 ガキ、α。誰だろう。

 思い浮かんだのは、表彰されていた高校生の男の子だ。

 男の子自体そんなに居なかったし、端正な顔立ちにスラリと高い身長、見た目にもαと推測できる恵まれた容姿の子だった。異国の血が入っているのか色素が薄く肌も白くて、正直天使の様な子がいると思ったくらいだ。

 呼吸を何とか整える。そろりそろりと、今にも壊れそうな扉に寄っていく。

 誰か、一人でも聴いてくれたら。扉に向かって震える声で、祈る様に語りかけた。

「……どなたかお心のある人が居ましたら、番のいるαの方を呼んできてください。ゾーンマネージャーの中澤さんか……すみません、あとは分からないのですが、どなたか……」

 否定を込めて、ガン、と蹴られた。大して頑丈そうな扉でも無い。

 怖い。怖いが、このままでは自分が犯されるだけでなく、この彼女も巻き添えを食いかねない。

「誰か、助けてください……!」

 


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