覚悟
「基本方針、ですか?」
住職の説法はさすが生業としているだけあると思わせるものだった。
帰城直後に五郎を呼び寄せて、あることを語ることにした。
旧佐柄領一帯5000人の命を支配していることを思い出した。
寒気がする。今まで考えることを避けてきたこと。俺が失敗すれば、数千人に被害が及ぶ。かつてとある大国が一人の男の失政によりボロボロになったことを、数億人の人口を擁した大国ですら政策一つで崩れることを、知っている。その失政を行った男が、傑出した人物であったことも。
政治家の家に生まれたわけではない。政治学も帝王学も俺には縁のない世界だった。そんな俺の手に数千人が乗っている。
間違えるわけにはいかない。
適当にやった政策で民が喜んだから宴だと?ぞっとする。五郎の言う通りだ。俺は領地を、人を治める自覚が足りていなかった。人を治めるとはなんなのか。あれからまんじりもせず考えた。人とはなにか。生活とはなにか。何を第一にするべきか。考えて、考えた。結果、ひとつの揺るがせにせずに通すべきことが見つかった。
「民を、飢えさせぬ。」
これは、覚悟だ。領主としての、この世界の一員としての覚悟。
※
五郎は困惑していた。主がいつまでもならず者の長気分なので神聖教に顔つなぎに行ってきてはどうかと提案したのは自分だ。とりあえず領内の有力者に顔と名前を覚えてもらう。実務は、何も殿がやる必要はない。有能で、信頼のおける人物を集めればよい。いざとなれば南郷や尼子に頼る手もある。家が侵食されるので良いことではないが、立ち行かなくなることはない。
だから飾り物でもなんでも領主であると挨拶して回ることを優先させ、殿を送り出したのだが、帰城後、妙なことを言い出した。いや、妙なことでは語弊がある。民を飢えさせないことを掲げる領主もいないではない。だが、大抵は周辺が安定した領地の何代目かの安穏としている、苦労を知らない領主が掲げるお題目である。実現に問題があるからだ。
だが、上座にどんと座る、努力と苦労の分だけ人相が悪い男が平和ボケ領主のイメージと合致しない。何なのだろうか。
「…殿、たしかにわたしは今朝苦言を呈しました。しかしながらあれは考えなしの政策が領地に影響を与えることに対してであり、領主の自覚はあとから付いてくるものです。」
とにかく一度おちついていただこう。神聖教の坊主どもになにやら吹き込まれたのやもしれぬ。殿がそうやすやすと染められるとも考え難いが、神聖教は口が上手いと評判だった。万が一を頭の片隅においていた。
「五郎。」
自分が想像しうる現状。対策案。そのすべてを押さえつけるような、静かで、染み渡る声が主の口から発せられた。
「俺は飯が食えないつらさを知っている。お前も知っているだろう。俺は水が飲めない苦しさを知っている。お前と共に味わったものだ。」
独特の、抑揚のなく、広がっていくその言葉が、五郎の中に入っていく。
「山中村を襲った日の朝、俺は飢えで世界が歪んで見えた。実り豊かな山中村に向けて放った言葉はほとんど本心だったよ。飢えは人を壊す。食い物のことしか考えられない状態が、水を求めて友を蹴倒す姿が、果たして人間と呼べるだろうかと、ふと思ってな。」
彼の言葉は重みがあった。当然だ、彼が体験したことだからだ。そして、五郎も身をもって学んでいた。
「食い物がなければ、民たちは死にものぐるいであばれよう。暴れなくては妻が、子が、自分自身が、そうでなくなってしまうのだからな。」
そうだ。たしかにそれはそのとおりだ。五郎も認める。飢えない社会。飢えない世界。それはとても素晴らしい。…だが、
「殿、領主たちとて、意地悪で民を飢えさせているのではありません。他家へ備え、家臣の生活を支え、民たちの暮らしを守る。そのためには食料その他が必要なのです。」
穏やかな表情に強く輝く瞳。五郎の主は静かに、確かに、告げた。
「そのとおりだ。 」
五郎は追いすがるように口を開く。
「絶対数が足りぬのです。民を守るために、民に堪えてもらわねばならぬのです。」
コメも、アワも、ゼニもなにもかも。乱世を生き抜くためにはいくらあっても足りない。
「領内を整備する。不足分は周辺から奪う。我らのために、ほかを潰す。」
どの家も他家から分捕って自家を栄えさせている。五郎の実家もそうだった。物心ついた頃から常に小競り合いを繰り返していた。だが、なぜだろうか、高みに座る男からはそういった日常生活の延長のような匂いを感じない。
…やる気なのだ。本気で。自家のために、自領の民のために、他家を他領をないがしろにするつもりだ。馴れ合いもなしに。
理解して、冷たいものが背筋をはしった。他領を徹底的に潰すせば、今までのどっちもどっちだからとなあなあで終わることができなくなる。下手をすればこちらが潰される。…怖い。
未知の在り方。未知の何かに五郎は恐怖し、固まった。その蒼白な顔に安崎が向き合った。
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