始まり
母は俺によく似ていた。中身のない自信を根底に持った被害妄想者。
中学三年の冬、自分は正しいと信じる母と、母はおかしいと信じる俺の亀裂は決定的なものとなり、卒業証書を片手に俺は家を出ていった。
※
「逃がすな!追え!」
薄暗い、任侠映画を切り取ったような倉庫街に怒号が響き渡る。
「安崎ィ!てめえ逃げられるとでも思ったんかぁ!」
右頬に傷を持つ髭面の大男を前に、安崎はひきつった笑みを浮かべた。
「佐々木さん。俺二日は飲まず食わずなんだよ。」
「だからなんだぁ?おい!?」
「手心加えたってばち当たらねえんじゃねえかなあ。」
軽口にまったく反応せず、男たちは安崎は囲い込む。
安崎は観念したかのように両の手を挙げ、後ろも見ずに背後の湖に飛び込んだ。
※
意識を取り戻したとき、湖に浮かんでいた。
周囲に悪趣味なアクセサリーをジャラジャラとつけた男たちがいないことを確認して、犬かきで陸地にたどり着く。つい先ほどまで倉庫街にいたはずなのだがと辺りを見渡した。
鬱蒼と茂る森と朗らかな陽気。・・・どこだココ。
考えを巡らせるが、空腹で頭に血が廻らない。ひとまず家に帰るべく歩き出す。
「おいっ何もんじゃおめえ!?」
疑念といら立ちをにじませた声色に顔をしかめて振り向いき、安崎は思考停止に陥った。
そこには異様なほど猫背で、ボロボロの麻布をまとった百姓がいた。
時代劇に登場する農民を三倍ほど小汚く10倍ほど人相を悪くした男。
「おりゃっ。」
弁明する間もなく正体不明の百姓に襲いかかられる。
間の抜けた声と共に間の抜けていない振り下ろされ方をした鎌を転がるようにして避けた。
勢いそのままに手元にあった石を襲撃者の顔面めがけて投擲し、ひるんだ隙に飛びかかり、したたかに殴打した。
一撃でだらんと力が抜けた百姓の首を、奪い取った鎌でためらいなくを切り裂いた。
※
奪い取った衣服をまといながら思案する。多少は怪しまれなくなるはず。ついでに死体の腹をかっさばき、河原の石を詰めて湖の中へ。いずれ誰かに気づかれるだろうが、放置するよりは多分マシだろうと判断した。
大きく深呼吸し、心を落ち着かせる。手動く足動く。自分は安崎オチバ。2006年11月27日生まれ。17歳。家族はいる。日本人、男。よし、問題なし。
次にどこにいるのか確認する。右手側、森。左手側、川と森。目の前、川と木々とさらに奥に家屋らしき建物群。・・・なんだろうあれ。いや、現実逃避はだめだ。いやいや現実で初対面の男に襲われるはずはない、チンピラとも浮浪者とも違う、あれはもっと別のナニカだ。うむ、よし。まあ落ち着け、客観的に考えて家屋が集まっている場所に人影が確認できるエリアの名称はひとつ。あれは村だ!・・・村かぁ。
それにしても困ったことになったと眼前に広がる村?を前にため息をつく。一縷の望みをかけて話を聞きに行っても良いが、頭をひねって考えてみても先ほどの農民風襲撃者はあの村の住民だろう。ならば家族だのがいるはず。夜になっても帰ってこなかったら家族はどうするだろうか。十中八九捜索に出る、そこで見知らぬ男を発見したらどうなるのか。
安崎は考え、考えて、深く息を吐く。なにもひどいめにあうとわかっているのに行動しない理由はあるまい。早く立ち去ろう。
※
右手側の森に入ることに決めたのは失敗だった。
安崎は獣のうめき声に身をすくませながら木に寄りかかる。
足元には昔見たキャンプ映画から見よう見まねで作った焚火がある。ヘビースモーカーな友人のために、ライターを常備している。ライターは水にぬれていたが、火はついた。
倉庫街で逃走劇を繰り広げ、湖に飛び込み、ヒトを殺して、日中歩き続けた。疲労で体が重い。焚火を眺めながら、とりとめもなく回る思考に身をゆだねる。
・・・人を殺した?
真暗な森を見つめ、ふとさっきは機敏にうごけたなあと回想し、ぞっとした。
初めて人を殺したのである。だのに今の今まで微塵も心が動いていなかった。面識がない?それはそうだ。現実味がない?たしかに。
だが、まぎれもなくあれは人だった。人を、殺したのだ。すこしずつ、すこしずつ体が震えだした。
鎌で切りつけた時の妙な弾力が右手によみがえってきた。ぞわぞわとぞわぞわと実感が湧いてきた。俺は、なにを・・・
安崎が愕然と右手を見つめたちょうどそのとき、獣の唸り声が強くなった。
はっと顔を上げる。真っ暗だ、焚火の周りだけがかすかに明るい。グルルルという唸り声と木々のざわめきが安崎の体をこわばらせる。
多い。安崎はこの鳴き声を知っている。昔友人が飼っていた柴犬が怒った時に聞いた音。
心臓が早鐘を打つ。
わけがわからない。俺は倉庫街で取引をしていたはずなのに。いまごろは仲間と酒盛りをしていたはずなのに。ここはどこだ。なんなんだ。いや、なにがなにやらわからない中でためらいもなく人を殺したのは・・・
ガオォッ!!!!!
思考が揺れる、安崎は恐怖のまま鎌を横なぎにふるう。自分とは思えない力と感じたことのない感触に、思わず手を離した。
確かな手ごたえとともに謎の生物が横に吹き飛び、鈍い音が響いた。
ほぼ、間違いない。野犬の
ギャウと短く声に構わず燃える枝を投げ続ける。鎌は獣その一に刺さったままだ。場所もわからない。夜に、丸腰で、イヌ科の獣と、やり合えるわけがない。
無我夢中で投げ続ける。火の明かりで先ほどの村に見つかるかもしれない。山火事になるかもしれない。自分が焼け死ぬかも。湧き出る考えをそのままに安崎は体を動かす。なんでもいい。今を切り抜けなければ死んでしまう。
半グレの男に恫喝されたときをはるかに上回る恐怖。感じたことがないたぐいの悪寒。遺伝子に刻み込まれたそれに従い、無我夢中に枝を投げた。
気がついたときには獣の唸り声は聞こえなくなっていた。
※
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