第12話 再会
書庫の一番奥の隅に、格子窓から微かに漏れる月明かりが当たる。
そこには、人間離れした空色の髪をうなじで束ねる、端正な顔立ちと愛嬌のある目元の見知らぬ男がいた。
そんな男に背後から抱き抱えられるのは、ぐったりとしている朱璃だった。
「朱璃!」
すぐに駆け寄った伯蓮は、床に膝をついて朱璃の頬に触れる。
ヒヤリと冷たくて唇も青白い朱璃の姿に、伯蓮の心臓がぎゅっと縮こまった。
まさか――と最悪の事態が一瞬よぎったものの、すぐに小さな寝息が確認できた。
呼吸をしていたことにひとまず安堵する。
問題は、意識のない朱璃を抱き抱えている、目の前の不審な男。
「お前は一体……いや、まず侍女をこちらに渡してくれないか」
伯蓮はたくさんの質問を我慢して、朱璃の引き渡しを願い出た。
すると男は突然、伯蓮の首筋あたりの匂いを嗅ぎはじめて、軽蔑の眼差しを向けてくる。
「おいおい。媚薬臭を纏った男に可愛い侍女を渡すなんて、無理に決まってんじゃ〜ん!」
拍子抜けするほど軽い口調の男に、伯蓮は一瞬頭の中が真っ白になった。
そもそも、匂いだけで媚薬を飲んでしまったことがわかるとは知らず。
急に恥ずかしくなった伯蓮が、頬を赤くしながら言い訳をした。
「これは、飲まされたのだ!」
「まあどっちでもいいけど、その状態で女体に触れない方がいいよ」
「っ……」
言われて、何も反論できなくなった伯蓮が拳を握って悔しがる。
決して朱璃をどうこうしようなんて、微塵も思っていない。
しかし、体の火照りが治まったわけではなかった。
体内に薬が残る以上は、男の言う通り触れない方がいいのかもしれない。
「……朱璃……」
ようやく発見できたのに、冷たくなった体を暖めてあげることもできない。
伯蓮は唇を噛み締めて、朱璃に触れることをグッと耐えた。
不審な男の勝ち誇ったような表情に、ますます苛立ちを覚える。
しかし、伯蓮の隣にちょんと座った貂々が、冷静な声色と顔で男に指摘する。
「お前こそ、全裸のくせに何を言っている」
そのセリフを聞いた伯蓮が、冷静な眼で男の姿を確認する。
月明かりだけが頼りの書庫内でよく見えなかったが、貂々の言うように何も着ていなかった。
「お……おま……⁉︎」
「だって普段から服なんて着せてもらってないもんねー」
驚愕する伯蓮は言葉を失い、男は頭を掻いて照れ笑いを浮かべていた。
こんなふざけた不審な男の指示など聞くか!という気になった伯蓮が、朱璃の体を力ずくで奪う。
すると、朱璃を抱き抱えている時には隠れていた裸体が、今ようやくお披露目される。
「こ、こんな変態に朱璃を触れさせていたなんて……!」
「はあ⁉︎ 違う、俺は変態じゃない! 全裸は仕方ないんだ!」
不審な男の主張など聞く価値もないと無視して、伯蓮は朱璃に呼びかけた。
「朱璃、私だ。目を開けてくれ」
ようやく伯蓮の腕の中に収まった朱璃は、その声に刺激されてピクリと瞼を動かす。
ゆっくりと目を開けて最初に視界に入ったのは、伯蓮の心配そうな表情だった。
「……伯蓮、様……。心配ばかりかけて、すみません……」
「そんなこと気にするな。こんな目に遭わせてすまなかった。痛むところはないか?」
第一声が謝罪の言葉だった朱璃に対して、伯蓮は優しい声で尋ねる。
「寒気はしますが、先ほどよりは良くなりました……」
顔色が優れない朱璃に、伯蓮は自分の外套を羽織らせた。
そして早く暖まるようにと、その上からキツく朱璃の体を抱きしめる。
「は、伯蓮様⁉︎」
突然の密着に驚く朱璃が、頬を赤く染めてあたふたした。
しかし、解放する気なんてない伯蓮の暖かさが伝ってきて、恥ずかしさより安心感が勝ってくる。
体が癒やされていく感覚に、朱璃は伯蓮の襟元をキュッと握って目を閉じた。
その仕草に気づいた伯蓮の胸の中で、とてつもない愛おしさが込み上げてくる。
朱璃の全てが心を刺激してくることを自覚して、鼓動が加速していった。
そんな中、初々しい男女の反応を傍観していた不審な男が、二人の再会に水をさす。
「変なこと考えんなよ」
「……なっ! 考えてなどいない!」
「まだプンプンにおってんだからなー」
男は揶揄うように鼻を押さえ、伯蓮は再び頬を赤くして必死に否定した。
その声を聞いてハッとした朱璃は、意識を失う直前のことを思い出す。
手足の縄を解いてくれた人物の姿を、やっと確認できる。
そう思って顔を上げた途端、廟内に悲鳴が響き渡った。
「キャアアアア! ななななんではだか⁉︎」
見てはいけないものを見てしまったと思った朱璃が、両手で顔を覆い伯蓮い縋りつく。
その反応が納得できない男は、全裸にもかかわらず朱璃に対してプリプリ怒った。
「朱璃までなんだよ! せっかく助けてやったのに!」
「前を! せめて前を隠してくださいぃぃ!」
朱璃の正常な反応に、伯蓮はお返しと言わんばかりに不審な男を軽蔑の眼差しを向ける。
こんな寒い夜に、一体どういう理由があって全裸なのか。
普段も服を着ていないとは、この男はまともな人間なのか。
男子禁制の後宮内であってはならない事態が発生し、伯蓮が頭を悩ませていた時。
朱璃が大事なことを思い出して、伯蓮に尋ねた。
「この書庫で流を発見したんです!」
「え……流が⁉︎」
「会えていませんか?」
伯蓮が首を振ると、朱璃はひどく残念そうに眉を下げる。
書庫には今のところ、朱璃と不審な男しかいなかった。
しかし、朱璃が嘘を言っているようには思えない。
「まだ近くにいるはずだ。朱璃の体温が回復したらもう一度探す」
「あ、ありがとうございます……」
安心した朱璃が先ほどよりも良い顔色となり、伯蓮の腕の中で微笑んだ。
命の危険にさらされた自分の体よりも、流の心配をしてくれる朱璃。
底知れぬ優しさと心の清さを感じた伯蓮も、自然な笑みで応えた。
そこで、ふと二人の距離が近すぎることに気づいてぎこちなくなる。
いつもより身近に伯蓮を感じるせいか、朱璃の心もざわざわと騒がしい。
そんな中、不審かつ全裸の男が得意げに話しはじめた。
「ははは。その“流”とは、俺のことだ」
親指で自分を指差す、“流”を名乗る男に伯蓮は嫌悪感を抱いた。
流はそもそもあやかしで、男と同じ空色の毛並みをした綺麗な――。
「…………え?」
「だーかーらー。朱璃の手足の縄を解いて助けがくる間ずっと人肌で暖めていたのは、おーれ!」
まるで石化したように動かなくなった伯蓮に、流と同じ空色の髪をした男はニコリと微笑んで説明する。
わけのわからない状況に、朱璃も首を傾げることしかできなかった。
ただ、同じあやかしの貂々だけは、流だと名乗る男の話す意味を理解する。
ため息をついて、説明不足の流に代わり重い口を開いた。
「私たちあやかしは、“元人間”なのだ」
「て、貂々⁉︎」
突然話しはじめた貂々に、朱璃が驚愕して口をパクパクさせる。
久々に会う貂々は、変わらず元気そうで。先ほどまで危険と隣り合わせだった朱璃が嬉しさのあまりに涙ぐむ。
今までどこにいたのか、何をしていたのか。
聞きたいことはたくさんあったけれど、それよりも今重要なのは「あやかしが元人間」という驚きの情報。
「天の神の監視の下、あやかしは人間界で生活できるのだ」
「天の神……?」
あやかしの世界の話に、人間の朱璃も伯蓮も理解するのがやっと。
流は難しい話が苦手であさってを向いている。
「天の神はあやかしを野放しにしているわけではない。元人間という事情を汲んで、人間界での生活を許してくれているのだ」
貂々の話が真実ならば、天の神はとても心の優しい慈悲深いお方。
そんなふうに思い、不思議で幻想的な話に感動した朱璃が胸に手を添えた。
「その天の神とあやかしを繋いでいるのが、流星」
「え? 地上に災いをもたらすというあの流星が?」
朱璃が聞き返すと、貂々は静かに頷いた。
不規則に、またいつ発生するかわからない、夜空を駆ける流星。
人間界では地上に災禍をもたらす“天の
それがまさか、地上のあやかしと天の神を繋ぐ光だったとは。
「流星が空を駆けたとき、あやかしの声が天の神に届く」
「……そこで、流が“人間の姿になりたい”と願った?」
「天の神が聞き入れれば、叶うこともある」
言葉を話したいと願うあやかし。空を飛びたいと願うあやかし。
もちろん、願いの中には叶えられないものもあるが、それは天の神の匙加減で決まる。
その話を聞いた伯蓮は、自責の念に駆られながら流に問いかけた。
「……凍える朱璃を、助けるために?」
すると流は、ようやく理解したかと思いながら大きな態度で腕を組む。
「そうだよ。あやかしの姿のままじゃ暖められないし、こういう時は人肌が良いと思った」
いつもあやかしの流と星を撫でてくれる伯蓮から教わった、人肌の暖かさ。
主人の普段の優しい接し方が、流を人間の姿にして朱璃を助けた。
流自身も、そんなことを考える。
「流星なんて、見ようと思って見えるものでもないのに……」
伯蓮は驚きつつも、やはり流星は恐ろしいものではなかったと安堵した。
一日の流星の数は計り知れないが、実際に目視できるものはごく僅か。
それに、その光は一瞬の輝きだ。
それほど貴重な流星が流れた瞬間に、流は自分の叶えたい欲望よりも朱璃を助けたいと思ってくれた。
その結果が今の人間の姿なのだとしたら、それを心から感謝しなくてはいけない。
伯蓮は自身が着ていた深緑色の上衣と飾りの腰帯を、そっと流に手渡した。
「誤解してすまなかった。朱璃を助けてくれたこと、感謝する……」
人間の姿の流に一礼した伯蓮は、少し気まずい表情をしていた。
上衣を借りた流は、それを正しく羽織り腰紐をキュッと結ぶ。
そして、伯蓮に疑われていたことなど何にも気にしていないように、笑い飛ばす。
「あはは! もういいって。伯蓮にはいつもフカフカの
「……しかし流の正体が、私と歳の近い男だったとは」
あやかしの姿の流を思い出して、伯蓮は残念な表情で呟いた。
両手のひらに収まるほどに小さく、空色の毛並みが美しくて愛らしい流。
つがいの星と共に私室で面倒をみていただけに、かなりの衝撃を受ける。
朱璃の無事も確認できて、流も発見できた。
伯蓮はずっと疑問に思っていたことを、今こそと口にする。
「流は、なぜ私の部屋からいなくなったのだ?」
「え〜? 知りたい〜?」
心配していた伯蓮の気も知らず、行方不明だった理由を流は言うのを勿体ぶる。
その態度に苛立ちを覚えた伯蓮だが、流の行方不明の件がなければ、朱璃との出会いもなかった。
侍女としての昇進も、あやかし捜索係の任命も考えなかった。
今では、もしかすると特別な感情を抱くまでに、大切な存在になっている。
そんな朱璃との関係は、全て流の行方不明からはじまっていた。
そう考えて、咎めるべきことを躊躇してしまう伯蓮に、流が正直に話し出した。
「俺さ〜、好きなんだよねぇ〜」
「え?」
「美女」
流が発した二文字は、耳を傾けていた伯蓮の眉を歪ませ、朱璃の表情を困惑させた。
そして貂々は、大きなため息をついて呆れ果てている。
周囲が冷ややかな空気であることも気にしない流は、さらにおしゃべりが進む。
「王都柊安で一番美しいといわれる胡尚華! 彼女が入内するって聞いて、どうしても一目見たかったんだ!」
「……それで蒼山宮を抜け出し、後宮に向かったと?」
理由を聞いて、ますます呆れた伯蓮の声が徐々に低くなっていく。
それを察した朱璃も、複雑な心境を抱えた。
もしかすると、流を捜索しなくてもひょっこり帰ってきた案件だったのかもしれない。
そうしたら、今聞いた理由は知らずに済んだ――とも考える。
「でもさ〜、後宮に入れたはいいけど胡尚華の宮がわからなくて」
「……つがいの星が聞いたら泣くな」
「とりあえず今晩は廟の書庫で寝ようとしたら、朱璃が侍女たちに連れられてきたってわけ」
悪びれもなく説明を終えた流が、てへっと可愛らしく頭を掻いた。
その様子に、今頃私室で大人しく眠っている星を思う。
こんな好色男と共に生活させていたなんて、星に申し訳なかったと反省した。
すると、貂々が流の望みをへし折りにきた。
「おそらく、尚華にはもう会えないぞ」
「え⁉︎ なんで!」
衝撃を受けている流が、そのばに膝をついて嘆いている。
そのワケを知っている貂々は、ちらりと伯蓮に視線を送った。
流が一目見てみたいと憧れを抱いた尚華はお、皇太子に狼藉を働いた。
妃としての地位を剥奪され、後宮を追い出されるだろう。
その父、豪子もまた今回の件を罪に問われる。
ただ、あの豪子のことだから証拠はすでに処分しているはず。
伯蓮が難しい顔をしていると、腕の中の朱璃が心配そうに見上げていた。
「伯蓮様? 大丈夫ですか?」
その呼びかけにハッとした伯蓮は、気持ちを切り替えて微笑んだ。
ひとまず今は、朱璃が無事だったことを喜び、そして――。
「朱璃、蒼山宮に帰ろうか」
「……は、はいっ」
いつもの優しい伯蓮に安堵して、朱璃もとびきりの笑顔で応えた。
そして伯蓮に支えられている体を、自力で起こそうとしたその時。
なぜか朱璃の体が、ふわりと宙に浮いた。
伯蓮に抱き抱えられたまま、ひょいと持ち上げられてしまう。
「ええ⁉︎ 伯蓮様、自分で歩けますので降ろしてください!」
「無理をするな。しっかり掴まっていろ」
「そんなわけにはいきません! あ、この外套もお返します!」
外は寒い。また伯蓮が風邪を引いてしまうと思い、朱璃が借りていた外套を外そうとした。
すると、伯蓮はほんのり頬を赤く染め、愁色の瞳を向けながら答える。
「私がそうしたいのだ。嫌かもしれぬが、しばし我慢してくれ……」
そんなふうに言われたら、朱璃が反論なんてできるはずもなく。
返答に困りながらも、喉の奥からなんとか声を搾り出した。
「い、嫌では、ありません……」
「そうか。良かった」
安心した伯蓮は、朱璃の体を落とさないように慎重に歩きはじめる。
生まれて初めての体験に、朱璃は胸が高鳴った。
慣れない状況に気持ちが追いつかない。
一方で、皇太子の伯蓮との距離が近すぎて、錯覚を起こしそうになる。
それは決して芽生えてはならない、異性を慕う特別な感情だった。
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