何とか華応宮から逃げのびた朱璃は、無事東区域に到着した。

　息を切らしながら、蒼山宮まで続く最初の門を潜る。

　しかし「日没までには戻る」と約束していたのに、少し前に日が暮れてしまった。

（結構かかっちゃうなぁ。明日はもう少し早く後宮を出ないと……）

　あやかし捜索を終えた後は、侍女としての仕事が待っている。

　今は伯蓮が夕餉を開始した頃だから、その後の片付けや湯浴みの準備をしなければ。

　侍女としての仕事も頑張りたい朱璃が、頭の中で仕事手順をおさらいしながら歩いていた時。

「朱璃！」

　突然、覚えのある声で名前を呼ばれて顔を上げた。

「は、伯蓮様？」

　夕餉中の伯蓮が慌てた様子で、正面から石畳を駆けてくる。

　その後ろには、少し呆れ顔の侍従の関韋が小走りでやってきた。

　何かやらかしてしまっただろうかと朱璃が不安に思っていると、伯蓮が目の前で停止し肩で息をする。

「あ、あの……私また失敗を……？」

「はぁ、はぁ……いや、私が勝手に、心配しただけだ……」

　日没はとっくに過ぎているのに、なかなか帰ってこない朱璃を心配していた。

　いてもたってもいられなかった伯蓮は、わざわざ門まで様子を見にきたらしい。

　すると深呼吸して気持ちを切り替えた関韋が、無表情のまま詳細を語りはじめる。

「夕餉が開始できず、伯蓮様が何度も席を立ち窓の外を確認するので、中断してきました」

「か、関韋！　そんなことまで言わなくて良いっ」

　侍従もつい愚痴ってしまうほどに、落ち着きがなかった様子。

　それが朱璃の前で明かされ、焦った伯蓮はすぐに訂正した。

「朱璃のことだから、必ず帰ってくることはわかっていた」

「は、はい……」

「ただ、突然の雨や雪が降ってきたらと思い、心配していただけで……」

　落ち着かなかった原因は、空模様を心配していただけだと伯蓮が言い訳をする。

　しかし、その空模様は雲一つない星空が広がっていた。

　天候がすぐには荒れない事実を、もちろん関韋は気づいている。

　ただ、朱璃が伯蓮の話を疑うはずはなく、表情を和らげて礼を伝えた。

「そういうことでしたか。戻りが遅くなって申し訳ありませんでした」

「あ、ああ……ご苦労だった」

「明日はもっと早く戻ります」

　朝ぶりに見た朱璃の笑顔を確認して、安堵する伯蓮は部屋に戻ろうと踵を返す。

　すると報告漏れがあった朱璃が、その腕を咄嗟に掴んだ。

「あの、伯蓮様……」

　誰かに聞かれてはならない、あやかしについての話。

　そのため、朱璃は伯蓮の耳にそっと口元を近づけて、小さな声で報告する。

「流は見つからなかったのですが、また明日頑張りますから」

　不意打ちすぎる腕への絡みと、優しい声での耳打ち。

　伯蓮は一気に顔を紅潮させて、思考を停止させてしまった。

　その異変に気づいた朱璃は、慌てて腕を離して謝罪する。

「ご、ご無礼をはたらき、申し訳ございませんでした！」

　無断で皇太子に触れてしまい、朱璃はこの世の終わりのような顔で青ざめた。

　関韋がそばにいたことで、捜索報告は小声でなければならなかった。

　朱璃なりに考えての行動であることは、伯蓮もわかっている。

　一つ咳払いをして心を落ち着かせたあと、素っ気ない態度で「大事ない」と呟いた。

　不安が残る朱璃は、もう一度深々と頭を下げる。そして仕事があるため小走りで立ち去っていった。

　朱璃がいなくなったあとも、ずっと耳に残る声。さすがの伯蓮も、その場に膝をついて、大きなため息と共に項垂れる。

「伯蓮様。お気を確かに」

「……関韋。私は、気は確かだ」

　心配する関韋が声をかけるが、伯蓮は顔を地面に向けたまま平気なふりをする。

「左様でございますか。そうは見えないのですが」

「っ……少し、黙っていてくれ」

　石畳を見つめながら、伯蓮がふと考えた。

　それは、朱璃に振り回されたり、もどかしくなっている伯蓮の状況を、関韋は楽しんでいるのではないか。

　先ほどの関韋の一言で、その疑念がより強いものになった。

　しかし、いつまでも寒空の下でこうしているわけにもいかない。

　深呼吸を繰り返した伯蓮は、ようやく落ち着きを取り戻してスッと立ち上がる。

「……関韋、戻るぞ」

「かしこまりました」

　表情は凛々しく、姿勢を正し胸を張って歩く伯蓮。

　朱璃が心配で焦っていた時とは別人のような、誰もが尊敬する皇太子の姿だった。

　ただ、関韋は少し物足りなさを感じてしまう。

　気持ちに正直なまま行動する伯蓮を追いかけていた時の背中は、確かに皇太子らしさのかけらもなかった。

　その代わり、とても力強い意志と頼もしさ、一切迷いのない情熱をひしひしと感じられた。

　心の中でそう考えていた関韋は、伯蓮の後ろを歩きながら密かに微笑む。

　しかし、肝心の伯蓮は色々と反省していた。

（私は一体、何がしたいのだ……）

　距離を置くと決めた矢先、こんなに朱璃を意識してしまうとは思ってもみなかった。

　これほどに思い悩むことも、心が躍ることも初めての経験。

　正解や対策がわからないまま、伯蓮が部屋に戻る。

　案の定、夕餉はすっかり冷えてしまっていた。

　　＊＊＊

　それからというもの、朱璃は連日後宮に通っては流を捜索する。

　南から北へと徐々に捜索範囲を広げ、建物内も慎重にひとつひとつ確認していた。

　しかし、努力も虚しく流はまだ見つからない。

　そうして五日目の日没間際、ついに事件は起こる。

「三々、今日も協力してくれてありがとうね」

「だけど流は見つけられなかったな」

　今日の捜索を終えて、朱璃は肩に乗る三々に笑顔で礼を伝えた。

　どんなに疲れていても、発見できないことに心をすり減らしていても笑顔を忘れない。

　そんな朱璃を、三々はずっと心配していた。

「お前は今日も、貂々のところに寄るのか？」

「うん。最近いつも昼寝していた木の上にいなくて、会えないままだから」

　言いながら、華応宮の中庭へと足が向かう。

　棲み家を移したのか、それとも何か他の原因があるのか。

　こんなに貂々が不在なことも初めてで、朱璃の不安は徐々に募っていた。

　行方不明の流も見つからなくて、あやかしが突然いなくなってしまうことに少し敏感になる。

「三々。あやかしが攫われる話とかは、聞いたことある？」

「いや、凶暴なあやかしはもっと人里離れた山奥や海にいる。王宮（ここ）のは大人しい奴ばかりだ」

　三々が説明してくれて、朱璃は少し考えた。

　凶暴なあやかしがここにはいないなら、少しは安心できる。

　けれど、その凶暴なあやかしが夜な夜な王宮に忍び込んでいる可能性もある。

　もしくは、朱璃と伯蓮以外にあやかしが見える人間がいて、あやかしを攫っている可能性も――。

　流も貂々も、そんなことに巻き込まれていなければ良いのだけれど、と朱璃は願った。

「……ところで、凶暴なあやかしってどんなの？　ちょっと見てみたいかも」

「やめろ、いい事ないぞ」

　危険なあやかしにまで興味を持つ朱璃を、三々は冷静に窘めた。

　世の中には恐ろしいあやかしもいるし、人間に危害を加えるものもいる。

　三々がいつになく真剣に注意するので、朱璃もその危険性を理解した。

「そろそろ日が暮れるぞ」

「わ、ほんとだ！　急がないと」

　日没までには、蒼山宮に帰らないと。

　伯蓮に出迎えられた日以降、夕餉に間に合うように帰ることを強く心がけていた。

　そうしないと、また伯蓮に冷えた食事をさせてしまうと思ったから。

「ていうか、あの皇太子はちょっと過保護すぎだな」

「え？　私が頼りないから心配してくれているんだよ」

「……それだけだと本気で思っているのか？」

　三々でさえ感じていた、伯蓮が朱璃に対する特別な振る舞い。

　しかし、三々の言っている意味がよくわかっていない朱璃は、伯蓮の素晴らしさを語る。

「伯蓮様は、私のような元下女にも優しく丁寧に接してくれる人格者なのよ」

「あ、そう（わかってねーなー）」

　

　残念ながら、朱璃本人には伯蓮の密かな想いが全然伝わっていない。

　そのことを伯蓮に教えてあげたくなる三々だった。

　＊

　華応宮の門前に到着して、朱璃は三々と別れた。

　日没も近いから、中庭にいるかもしれない貂々の姿を急いで確認しなければ。

　朱璃はそっと門を開けて、中庭目指して進んでいくと――。

　突然、ガシッと腕を強く掴まれた。

「え……⁉︎」

　朱璃の背後にいる二人の侍女が、左右の腕を掴んでいた。

　その周囲を、数人が一斉に取り囲む。

　抵抗する間もなく取り押さえられた朱璃の体は、地面に膝をつけて動きを封じられる。

　そこへ優雅に歩いてきたのは、嬉しそうに微笑む尚華妃。

「ふふ、懲りもせず毎日ノコノコやってくるのが悪いのよ」

「尚、華様……？」

　肉刑を下された日以降会っていなかった尚華が、目の前に立ち朱璃を見下ろしてくる。

　この状況を指示したのが妃だとすぐに理解して、なぜこんなことをするのか尋ねようとした。

　しかし、朱璃が声を出すより前に、その口は長い巾で覆われ後頭部で玉結びにされる。

「んー！」

「勝手に喋らないで。あんたの命はわたくしが握っているんのだから」

　それは一体どういう意味なのか。

　初夜を妨害した恨みがまだ強く、これから刑の執行をするのだろうか。

　それとも伯蓮の侍女に昇進したことが癇に障り、集団で暴行されるのだろうか。

　色んな憶測が頭の中をぐるぐると駆け巡ったが、おそらくその全てが当てはまりそうな状況だった。

「例の場所に連れていって。絶対に見つけられないようにしなさい」

「かしこまりました」

　尚華の指示は事前に計画していたような口ぶりで、侍女たちはすんなりと聞き入れる。

　そして朱璃を無理やり立たせると、“例の場所”へと向かって歩きはじめた。

　華応宮の敷地内で起こった出来事。

　もう少しで、貂々が戻ってきているか確認できたのに。

　それが叶わなくて、朱璃は顔を歪ませた。

（――どうしよう、伯蓮様……！）

　今夜は蒼山宮に戻れないことを悟ると、朱璃は胸が押し潰されるほどに苦しさを覚えた。

　約束をした伯蓮に、また心配をかけてしまうことになるから。