伝書鳩の夏休み 第三回

 三 乗客たち


 列車は県境を越えて兵庫県に入った。兵庫はとても広いうえ、物資不足の中で拵えた特急列車ではどうしても鈍行にならざるを得ず、点検のために姫路で二時間ほど停まるために、北部の城崎への到着が明日の朝になるのだという。現在の時刻は午前二時頃。寝台に横になって一度は就寝したものの目が覚めてしまったので、こうして車窓から真夜中の姫路をぼんやり眺めていた。

 僕は火芝君と相部屋だった。部屋割りを決めたのは火芝君で、僕は、彼に選ばれたことが幸せだった。彼は今、ブランケットの角を緩く掴んでぐっすり眠っている。この隣のコンパートメントには相沢と山郷君が、次の六号車の一人用のコンパートメントには活良木君が収まっていた。活良木君に関しては色々な懸念点があったが、少なくとも昨日は、おとなしく部屋に閉じこもっていた。

 この列車には、火芝君の叔母上が招待した同窓生六名も同乗していた。彼らのことは遠目に眺めただけで終わっていたので、まだはっきりとした印象などは抱いていない。

 そして――まさに運命的と言うよりほかに無いが――六、七号車間にあるトイレに行ったとき、ガラス窓越しに見えた七号車の通路に見知った後姿を見つけた。声をかけると、思った通り、その著しく表情に乏しい青年は兄さんの知己の友、書道家の嶌津三蔵さんだった。彼は、愛用の四五式軍帽(軍の払下げ品だとか民間の複製品だとか様々な説があるが、どこから手に入れたものなのかは誰も知らない)の目庇を軽く押し上げて挨拶した。

「嶌津さんも城崎へ?」と僕が聞くと、彼はこくりと頷いた。彼と初めて会話をする人は、決まってその無口なことに疑問を抱くだろう。彼は先天性の理由から発話することが困難なので、専ら筆談やジェスチャーで生活している。戦時中に負った大怪我により、彼には左腕が存在していないために手話が使えないのだ。――蝋で固めたようにいつも無表情ゆえにその心中は計りえないが、彼の部屋に保管された記念写真の数々を見たことがあったので、人気の海水浴場へ出かけることは、むしろ自然なことだと思った。「美依さんとご一緒ですか?」と聞くと、これも当たりだった。仲の良い芸術家同士で自然豊かな土地へ旅に発つ。とても素敵なことだと思った。

 ――僕は寝台に入り直した。差し向かいで眠る火芝君の美しい寝顔を眺めているうちに、また眠気がやってきた。目が覚めたのは寺前駅をちょうど出たときだった。窓を覗くと、真緑の山々が夏の日差しを全面に受けて健やかに輝いていた。城崎は山間の町であり、列車はここから山間部を通っていくのだ。僕は時計を持っていないので正確な時刻は分からないが、日の昇り具合から察するに午前六時前後だろう。

「火芝君、こんなにも景色がきれいだよ。」僕は半ば興奮気味で火芝君を揺り動かした。車窓が木立でいっぱいになってしまってから、ようやく彼は眼を覚ました。

「ふわあ、おはよう、野崎君。」

「おはよう、火芝君。とても素敵な景色を見つけたのだけど、もう過ぎ去ってしまったよ。」僕は少々残念な気がした。

「それは悪いことをしてしまったね。けれど、ほら見て。下の方に川が見えるよ。」そう言って彼が指さした方向には、幅三尺ほどの小さな清流が木々の隙間からちらちら見えていた。そうして、段々と広くなっていき、やがて円山川という大きな川に接続された。

 数時間が経った頃、ノックの音がして「朝ごはんを食べに行こう。」という山郷君の声と「寝てるやつは置いてくぞ!」という相沢の声がした。扉を開くと、黙っていただけでキチンと活良木君も立っていた。

 僕たちはぞろぞろと食堂車に入って行った。真白いテーブルクロスの円卓を何組かの乗客たちが囲んで優雅な朝食を楽しんでいた。後方の卓に嶌津さんと美依さんが着いているのを見つけ、僕は挨拶に向かった。以前、初めて会った時よりも美依さんの表情は明るかった。

 しばらく互いの近況について話した中で、僕は今回の城崎行きの経緯を説明した。

「良い誘いだね。君たちは、海水浴に行くのだろう。」

「ええ。」

「僕たちは、温泉街に逗留する予定なんだ。だから、現地では会えないかもしれないね。」

「温泉ですか?」僕は、温泉というのは冬に体を温めるために入るものだとばかり考えていたので意外に思った。

「夏は、空が青く高く、緑は濃く張りがあって別の良さがあるのさ。――城崎の自然豊かな環境の中で浸かる湯はきっと格別に違いない。」そう言って美依さんは白い歯を見せた。僕は、新しい見識を得て一種の充足感を覚えた。

 僕たちは、嶌津さんたちから少し離れた卓に分かれて座った。僕は、小夜子さんの依頼のこともあって相沢の様子を観察したいと思ったのだが、火芝君に腕を掴まれ二人席に連行されてしまった。なんだか、それが強引すぎるように思えたが、楽しげにメニュー表を捲る彼に抗議して場を白けさせる気にはならなかった。

「あの人たちが知鶴さんの同窓生だね。」僕は火芝君に聞いた。彼らは通路を挟んで二人ずつに分かれて食事をしていた。「挨拶してこようか。」

「君は律儀なんだね。それなら、僕が声をかけてあげよう。」火芝君は、腿をぽんと叩いて立ち上がった。

「お食事中に失礼します。ご無沙汰しております、戸黒さん。知鶴の甥の火芝星造です。」それから彼は西洋風のお辞儀をした。僕には同じ動作をするだけの勇気が無かったので、まっすぐ腰を折った。

「これはこれは、久しぶりだね、星造君。」車外に目を向けていた戸黒と呼ばれた官吏風の男性は、火芝君と僕、それからその背後に目を向けて「お友達もたくさんで結構。」と言った。

 戸黒氏に声をかけられて茶髪の女性が振り返った。「あら、知鶴の甥っ子君? 初めまして、緑野千草です。お友達ともどもよろしくね。」緑野氏の風体には有無を言わさぬ闊達さがあった。首元で大きな真珠がぴかぴか輝いていた。

 緑野氏が呼びかけたことによって他三名の視線がこちらに向いた。僕は驚いた。その内のひとりに見覚えがあったのだ。記憶が確かならば、彼女は、貿易を主に取り扱う〈赤沢グループ〉の会長赤沢圭一郎氏の一人娘、赤沢林檎氏だ。三年ほど前、新聞や雑誌で連日彼女の離婚騒動が書き立てられていたことを覚えている。相沢が隣で開けっぴろげに読み続けていたせいだ。彼らが言うところの「セレブ」な彼女は、向かいに座る男性の注意が、彼女から余所に向いたことをひどく気を悪くしたようだった。元からへの字に曲がった口元が、さらに曲がって醜さに拍車がかかった。

「僕は赤沢克海といいます。彼女の夫です。」その気弱な婿養子は、すぐに正面に向き直り妻に減刑を求めるような態度を見せたが、夫人は機嫌を損ねたまま一瞥もしなかった。

「へえ? 甥っ子は叔母さんと違って健康そうだな。」そう言ったのは、縞柄のハンチングを斜めに頭髪に乗せた、卑俗な感じの男性だった。

「水口君っ。」緑野氏の鋭い声が飛んだ。知鶴氏は病弱なのだろうか?

 僕は、気まずい心持になったので、そろそろ席に戻ろうと火芝君の袖を人知れず引っ張った。

 別れの挨拶もほどほどに僕たちは席に戻った。通路を横切るとき、存在を主張せず会話に影を落とさなかった残り一人がいたことを、視界の端で捉えた。ベージュのポロシャツがでっぷりと横に膨れたその男性は、どろりと濁った眼玉で火芝君を見ていた。相沢が例えるところの「グロテスク」な、その醜怪なる人物は、何がためか僕たちが席についてなお、卑怯に周囲に露見しないように火芝君を見ていた。僕は、少々の恐怖とそれを忘れさせるほどの憤怒に駆られて、その男を睨みながらやや腰を上げた。しかし、その男がわずか怯んだと見えると同時に、火芝君が僕を呼んだ。ハッとして火芝君を見ると、彼は変わらぬ微笑のまま前方を示した。ウェイトレスが皿の乗ったワゴンを押していた。

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