伝書鳩の夏休み 第四回
四 第一の事件
「アカサワリンゴ? 誰だったかな。」呆れたことに相沢はけろりと忘れてしまっていた。
「あんなに熱狂していたのに、覚えていないのか?」
「ゴシップは鮮度が大事なんだよ。期限が切れるのは早いものさ。」
「赤沢さんは、何かで有名な人なの?」と端っこを歩いていた山郷君が無邪気に聞いた。
僕がどう答えようか逡巡していると、相沢が「思い出した。」と手を叩き、それから意地悪く笑って「精神と知能と肉体美の陥没を、親譲りの資産で間に合わせた恐るべきブルジョア女だ。」と今しがた存在を思い出したとは思えないような罵詈雑言を繰り出した。
僕は言い過ぎだと叱りつけた。
山郷君が「お金持ちなんだね。」とまたしても無邪気に述べたことがおかしくて、一同はそれぞれの方法で笑った。
朝食を済ませ、僕たちは最後尾の九号車を目指して歩いていた。七号車以降は夏冬季限定の臨時列車であり、九号車はバーになっていた。そこはハイカラなカクテルや一風変わった企画で好評を博していた。大酒飲みの嶌津さんがこの列車を選んだことと密接に関係があるに違いない。僕たち未成年はジュースで乾杯しようということになった。
九号車は、乗客みんなが来店しているのではないかと思うほどに混雑していた。僕たちは五人分の空席を一か所に見つけることができなかったので、ここでも二手に分かれることになるのかと思いきや、唐突に活良木君が部屋に戻ると言って、引き留める声にも構わずバーから出て行った。そうして四人になったことで同じテーブルを囲むことができたのだが、僕は落ち着かない気持ちだった。
「活良木君は気を遣ってくれたんだね。」と僕は言った。しかし、痛みを感じているのは僕だけだったようで、他の三人はすでにメニュー表を捲り始めていた。
その時、ちりんちりんとベルの音がカウンターの方から鳴り響いた。人々の視線の先には、白いスーツを着た長身の男性が大仰なお辞儀に続いて「みなさま、本日はご来店いただき誠にありがとうございます。ただいまより、〈BARカワカゼ〉恒例イベント『リカー・イン・カクテル』を開催いたします。」と宣言した。すると、客席の各地から拍手と共に「待ってました!」「日本一!」とまるで大向こうのような掛け声が飛んだ。
「ベストタイミング!」火芝君は指を鳴らした。「みんな知ってる? 『リカー・イン・カクテル』はいわゆる利き酒なんだけど、まずスピリッツを一口飲んで、何番目に出されたカクテルにそれが使われているのかを当てる遊びでね、正解者数に応じて、飲み物の値段が下がるんだ。」
それでこんなにも混雑しているのか、と僕は納得した。
カウンター席の一番端に嶌津さんが座っているのを発見して、きっと彼なら成功させるだろうと思った。
ラベルの無いまっさらの瓶からクリアな液体がショットグラスに注がれ、参加者たちの前に差し出されていった。参加者たちは、うんうんと頷くばかりである。赤いカクテル、青いカクテル、金のカクテル――バーテンダーたちは次々に輝かしい一杯を調合していき、ウェイトレスの少女たちは踊るように客席へ提供していく。陽気なピアノがジャズを演奏し、結果がどうであっても楽しい雰囲気に観客は魅了されていた。
――その時だった。
がたん、と何かが倒れ、緑野氏の大声が空間を引き裂いた。
数分後、最寄りの駅で医者が迎え入れられたが、その時すでに赤沢夫人に息は無かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます