第29話 六角義賢 敗走

まだ夜の暗いうち、六角親子が陣取っている観音寺城に伝令が知らせに来た。城内に入るやいなや、息を切らし、評定の間に飛び込んできた。


「箕作城、敵の急襲を受け、奮戦中。我が軍劣勢!」


知らせに皆驚いた。


「和田山城の様子はどうなっている?」


六角義治は控えていた別の兵に詰問した。兵が立ち去ると、代わりの兵がすぐに入ってきた。


「和田山城はすでに交戦中の模様。城近くで一万の兵と戦っております。」


「では、援軍は出せないのか?」


織田軍の速い攻めに義治は焦った。六角軍はまだ戦略を立てていない。地理的に有利な和田山城と観音寺城では籠城して長期戦に持ち込めば、敵を疲弊させ、勝機も見つかると考えていた。何より、敵の動きを察知することさえまともにできていなかった。


「油断があったか…」


六角義賢は織田信長という男をたまたま勝利しただけの田舎侍と見くびっていた。秀吉を始め、家臣の緻密な策略があることは知っていたが、そういった策略が嫌いな義賢はその対策を講じていなかったのだ。今更ながらに後悔があった。


考える間もなく、また別の伝令が入ってきた。


「織田軍本体、本城に向け全軍で攻めて参りました。総勢四万ほどと思われます。」


「なんじゃと、総攻撃だというのか!」


親子はこの素早さに思考が止まってしまった。これでは総崩れになる。評定の間には緊張感を通り越して相当な混乱が広がった。


「殿、下知を!」


「とても今の兵では勝てませぬ。退却を!」


口々に家臣が発言し始めた。


「和田山城、落城。建部源八郎殿、吉田出雲殿、すでに城を抜けたとのことにございます。」


伝令が新しい情報を知らせたのにも、誰も返事ができなかった。


「父上、浅井に援軍を頼みましょう。」


六角義治は、浅井が信長の軍に合流していることを知らなかった。そこに居合わせた伝令役の兵のひとりが叫ぶように言った。


「浅井はすでに信長軍に合流しております!」


「ええい、孤立無援ではないか。他に頼れるところはないのか!」


義治は評定の間をうろうろと歩き回るばかりで、よい案など浮かんでは来ない様子だった。


「殿、まずは私の領地がある甲賀へ参りましょう。」


家臣のひとりが提案した。この男、三雲成持(みくも しげもち)といい、甲賀には一族が支配する地域があった。甲賀は伊賀の山違いで、草の者として大名に雇われる者も多かった。三雲はいったん甲賀に身を隠し、再起を図るべきといっているのだ。すかさず義治が同意した。

「仕方ない、三雲、案内せい」

義賢も渋々ながら命令した。『同意』と何人かが立ち上がった


『主が先に立って敗走する』、この混乱ぶりに家臣はしんがりを申し出る者などなく、信長に味方すると出て行く者、一緒について行く者、それぞれに自分の意志で動き始めた。



こうなると城というものは防御がいくら頑丈だといえどもろい。朝日が差し込む頃、信長軍がこれから総攻撃を掛けようとしたときには、すでにほとんどがどこかに逃げ、残っている兵も降伏の意志を示す者ばかりで、中にはけがをしている者もいた。


簡単な蔵の中には、籠城のために用意していたと思われる食料や武器がまだ多くあった。城から逃げる場合には、城に火を放ち、敵に少しでも有利にならないようにするのだが、観音寺城ではその間もなく、城を出る兵士が多かったので、さながら無血開城といえた。


「主はすでになく、城は我が手に入りましたぞ。」


柴田勝家はいささか拍子抜けした心持ちで信長に報告した。


「これ以上は殺生はならぬと皆の者に伝えよ。六角義賢ら逃げた兵は捨て置け。あとでじっくりあぶり出す。今降伏した兵は、それぞれの配下として召し抱えよ。兵を整えた上は、義昭公と京へのぼる。」


柴田勝家らは、捕虜の確保などにあたった。この時代、戦が終わると残党狩りと称して、逃げた兵を見つけ出し、勝った方の陣屋へ引き出して手柄を立てる者も多かった。しかし信長が京への道を優先させ、深追いするなと命令したため、残党狩りはほとんどなかった。


しかし、六角という名家を追いやったことや、電光石火の奇襲で箕作城の中には多くの死体が転がっていた。その様子を見て、「信長は容赦がない」と噂する者もあった。


その噂を聞きつけた信長は当然よい気分ではなかった。しかし、そのような噂にいちいち対応している余裕はなかった。義昭が次期将軍宣下を受けることに想いが集中していたからである。


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織田信長と北畠具教 天下安寧を夢みたふたりの男 @ts_sakamoto

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