第19話 『今川義元 大敗』 天下に激震が奔る

 今川軍は圧倒的な兵力と過去の戦績に過信していた。しかし、大軍を率いて湿地を行軍するのは予想以上に体力を消耗させた。それでも、明日には大軍を一気に進め、織田軍を殲滅できると考えていた。桶狭間の湿地を渡りきるまでに十分な休息をとってからでも遅くはないと、一部の兵は武具を置き、飯の準備を始めた。今川義元の本陣でも、幕を張り、軍議を開く準備をしていた矢先である。突然の怒号とともに、背後から馬に乗った兵士が駆け下ってきたのだ。


 予想もしない敵の奇襲に兵士たちは浮き足立った。慌てて武具を身につけようとしたが、うまくいかない者もいた。もちろん、隊列など整っていないため、兵たちは右往左往し、雷雨の中で指揮命令も聞こえなかった。混乱する兵の横手にも、織田軍は果敢に攻めてきた。しかも、真っ向から立ち向かうのではなく、すり抜けるような素早さであった。


 通常の戦では、本陣にいる大将は兵の士気を鼓舞するためにどっかと居座り、それを取り囲む屈強な兵士が大将の命を守る。また、大将がまだ生きていると、旗印を高く掲げ、周囲の兵士に無事を告げる。しかし、今回はその取り囲む兵士も混乱し、壁が崩れているにもかかわらず、旗だけは高く待っていた。織田軍からは大将、すなわち今川義元の居場所がはっきりとわかる状況であった。


 激しい戦が始まって間もない時刻に、今川本陣に向けて一気に駆け込む集団があった。我先にと先を争うように馬上から長刀を振り下ろす屈強な男と、足軽ながら猛スピードで走り寄る男の二人がぐいぐいと近づいてくる。弓の名手とうたわれた義元であったが、その勢いと圧力に弓は空を切るばかりであった。


「あそこにいるのが義元なり!」


誰かが叫んだ。声の方角には弓をつがえ、馬上の敵を狙う義元の姿があった。少々小太りに見えたが、肩からの筋肉は常人にはかなわぬ迫力があった。


「一番手柄、服部小平太、ここに見参!」


先ほどの屈強な男が長刀を振り下ろした。その瞬間、義元の肩口から血がほとばしった。それでも、義元は倒れなかった。なおも利き手で刀を抜き、打って返す小平太の馬の足をめがけて切りつけた。小平太は暴れる馬から転げ落ち、ドサッと鈍い音を立てた。


よろめく義元に飛びかかろうとした瞬間、北方向から一人の足軽が走り込み、義元に体当たりしたのが見えた。先ほどの毛利新介である。


「義元殿、ご覚悟を!」


体当たりと同時に刀が義元の腰に突き刺さった。口から血を吐いて義元が倒れ、馬乗りになった新介がその首に手をかけた。


「義元の首、毛利新介、頂戴つかまつった!」


 雷雨は少し小やみになっていたが、それでも大きな雷の音がその声をかき消しそうになった。今川本陣の守備兵は混乱の中でほとんどが討ち死にし、周囲の兵たちは散り散りに逃げていった。それを見た足軽たちもまた、恐れとも悲鳴ともわからない声を上げてあちこちに走り去っていった。


 今川義元、破れるの報は、すぐさま各地に大きな衝撃となって駆け巡った。京を目指し、海を欲していた武田信玄、尾張や美濃を狙っていた六角義賢、京の三好長慶、将軍義輝、多くの実力者が桶狭間の出来事のせいで、今後の戦略を考え直さざるを得なくなったのである。北畠具教もまた、その一人であった。

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