いつからいなかった…

業 藍衣

いつからいなかった


 隣の部屋は、いつから空き室だったのだろう。


 郵便受けから溢れ落ちたチラシが、部屋の前に転がっていた時から。

 夜になっても部屋の灯りが点いていなかったから。

 少なくとも以前は違った。ベランダからのぞく、よく手入れされた観葉植物。廊下側の磨りガラスに大きさ順に並んだ調味料入れ。隣の住人は几帳面な人で、こんな風に放置されていると言うことはもう住んでいないのだろう。

 そんな事を考えながら廊下の突き当たりにある自室のドアノブに手をかけると、冬だというのに、ほんのりとした温かさが残っている。私は驚いて思わず手をひいた。

 翌朝、管理人にその話をすると怪訝そうに、

「隣ですか? 一年前から空室ですね」

 事務所の台帳をめくる指は迷いがなく、私の部屋番号の隣にあるのは白い空欄。消した跡も、書き直した跡もない。

「でも、最近……」

「防犯カメラには特に何も映っていませんし、昼間には陽のあたる場所ですからね。その熱が残っていただけじゃないんですかね」

 管理人はそれ以上取り合ってはくれず、話は終わった。

 そんな事のあった翌日、私の郵便受けには宛名のない広告だけが溜まっていた。おかしい、今日届くはずの封筒が無い。昨夜発送通知が送られて来ていたはずなのに…

 スマートフォンで配送状況を確認すると、「配達先不明」と表示されていた。何度見ても、私の住所は正しい。


 翌日、出社すると自分の席がなくなっていた。正確には、私物が全てなくなっている。机も椅子もパソコンもそのままなのに、そこは誰のものでもない空間のように扱われていた。

「席、変わった?」

 同僚に尋ねると、不思議そうな顔をしている。

「前からそこは空いていたよ」

 そう答えた彼は、私と視線を合わせようとしなかった。


 帰り道、マンションのエントランスで自動ドアが反応をしない。立ち位置を変えても、何度センサーの前を横切っても、目前のガラスは沈黙したままだ。後ろから来た住人が私を避けるように通り抜けると、ドアはその人のために開く。透明な板に、私の姿だけが残っていた。

 エレベーターを降り、廊下を歩いていると隣室のドアが、少しだけ、内側に傾いていることに気づく。内見でも来て閉め忘れたのだろうか。隙間からのぞく三和土には、踵に擦り傷のついた革靴が並んでいる。自分の部屋に戻り、靴を脱いでから、ふと足元を見ると、見覚えのある擦り傷が、私の靴に残っていた。

 

 管理人に呼び止められたのは、出勤前だった。

「昨夜、騒音の件で苦情がありまして」

 私が首を振ると、管理人は一瞬、言葉を探すような顔をした。

「いえ、あなたではなくて……隣の方です」

 そう言いながら、管理人は自然に、私の部屋番号を指した。訂正する間もなく、話は続いた。

「夜中に水を使われると、下の階に響くそうで」

 私の部屋では、昨夜、水道は使っていない。しかし、話が長くなると遅刻してしまう。

「気をつけます」

 そう答えた私の声は、思っていたよりも小さかった。管理人は頷き、もう興味を失ったようだった。

 エントランスを通り抜ける瞬間に、鏡に映る自分と目が合う。そこに違和感はない。だが、表示板の住戸案内から、私の番号だけが抜け落ちていることに気づく。何度見返しても、そこは空白だったが、時間に追われていたのでそのままマンションを後にした。

 会社では、私宛てのメールが届かなくなっていた。迷惑メールにも入っていない。送信者に確認すると、そんな宛先は存在しないと言われた。

「じゃあ、昨日の資料は誰に?」

 そう聞くと、同僚は困ったように笑った。

「直接渡したよ。ほら、いつもの人」

 指差された先には、誰もいなかった。

 昼休み、給湯室で見知らぬマグカップを見つけた。色も、猫のイラストのかすれ具合も私のものと同じだ。裏返すと、油性ペンで書かれた名前がある。

 私の名前だった。

 悪戯だと思いたかった。

 たが周囲は静かだった。

 午後、上司に呼ばれた。

「最近、印象が変わりましたね」

 褒め言葉とも取れる口調だった。

「前より、存在感が出た」

 何について話しているのか分からず、私は曖昧に頷いた。

「それで、君はどう思う?」

 質問のはずなのに、上司の視線は、私の隣に向けられていた。

 退社時、タイムカードを通すと、エラー音が鳴る。

「登録されていません」

 機械的な表示が、冷たく点灯する。

 受付に相談すると、首を傾げられた。

「すみません、こちらのシステムには、そのお名前が見当たりません」

 帰り際、同僚が声をかけてきた。

「先に帰るんだね」

 誰に向かって言っているのか分からないまま、私は頷いた。

 その視線は、最後まで、私を捉えていなかった。

 その日の帰宅は、いつもより少し遅くなった。

 廊下の照明は点いている。足音も、エレベーターの作動音も、いつもと変わらない。それなのに、自分の部屋番号を見つけた瞬間、胸の奥が冷えた。

 ドアの前に、傘立てが置かれていた。

 見覚えがある。以前、安売りで買ったものだ。錆びた縁も、底に溜まる水の跡も同じだった。ただし、それは一年前に捨てたはずだ。

 鍵を差し込む。回らない。

 もう一度、角度を変えて試す。金属が擦れる感触だけが指に返ってくる。鍵穴の形が、わずかに違っているような気がする。

 中から、生活音がしている。

 テレビの騒がしい音。食器が触れ合う乾いた響き。誰かが、ここで当たり前の夜を過ごしている。

 インターホンに手を伸ばし、止めた。押したところで、誰が応じるのか分からなかった。

 通りかかった管理人が、足を止めた。

「どうしました?」

 事情を説明しようとしたが、言葉が出てこない。管理人は私の手元の鍵を一瞥し、首を振った。

「その部屋ではありませんよ」

 そう言って、廊下の反対側を指した。

「あなたは、あちらです」

 示された先は、隣室だった。

「先日引っ越されて来たばかりで、間違えたのですね」

 管理人は、私を気遣うように微笑んだ。

 私は何も言えなかった。

 隣室のドアが開いている。昨夜より、少しだけ広く。中から、暖かい空気が流れ出てきた。

「おかえり」

 誰かが言った。

 声は、私のものだった。

 管理人は、それを聞いて、安心したように頷いた。

「ちゃんと帰ってきてますよ」

 そう言って、彼は去っていく。

 いつの間にか開かれていたドアは閉ざされ、廊下には、私だけが残される。手の中で、鍵がゆっくりと冷えていくのを感じた。

 行く場所がなくなってから、時間の感覚が曖昧になってきた。廊下に座っていても、誰にも声をかけられない。朝になっても、夜になっても、世界は私を避けるように流れていく。空腹を感じファミレスに入るが、店員は私を見ない。椅子に腰掛けても、次に来た誰かが当然のように私の上に座る。

 それでも、書くことだけはできた。スマートフォンのメモ帳に指を滑らせると、文字はきちんと並ぶ。消えない。名前を書いても、住所を書いても、そこではまだ、私は私のままだった。誰にも届かなくても、誰にも読まれなくても、この画面の中では、私は確かに存在している。

 だから、これを書いている。もしこれを読んでいるのなら、あなたは私を知っている。今、この瞬間だけは、私はここにいる。思い出してほしいとは言わない。ただ、読み終えるまででいい。あなたの中に、私がいたという事実だけが残れば、それで十分だ。

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いつからいなかった… 業 藍衣 @karumaaoi

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