第35話

 結局ヤイバたちは、ブランシェを自宅へと連れ帰った。

 彼女は猫との別れを少し渋ったが、無事を確認したから安心してくれたのだろう。それに、イクスが猫を探す魔法をブランシェに渡してしまったので、今後はいつでもどんな猫でも探したい放題である。

 無感情に見えても、やはりブランシェには心や気持ち、想いがあるようだった。


「……なにこれ、美味しい」

「そうじゃろ、そうじゃろ。あ、ワシは熱い茶がいいのう」


 夕暮れ時、ブランシェは居間のちゃぶ台でジュースを飲んでいた。いったい、伯爵と一緒の時はどういう食生活だったのだろう。目を丸くして驚き、何度も美味しいといって飲み干した。

 その姿に、チイもカホルもほっとした表情を見せる。

 なにより、孫を見るようなイクスのまなざしが温かい。

 起き出してきた母のミラも、ずり落ちそうなブラを直しつつ下着姿で出迎えた。


「でもイクス、帰っちゃうんだ」

「うむ、すまんが伯爵は放置していくゆえ、それだけが気がかりなのじゃが」

「また遊びに来てよね。ヤイバたちも喜ぶし、多分ツルギも」

「そうじゃな、たまには手を合わせに……と言いたいが、世界線移動の魔法も一応禁術でな」


 かつて魔王と闇の軍勢が跳梁していた200年前、人類は存亡の危機を迎えていた。エルフやドワーフ、ホビットといった亜人たちも協力し、中でも最強の魔導師であるイクスが禁術の使用を決断した。

 禁忌中の禁忌、異世界よりの召喚術。

 神が出るか悪魔が出るか、現れるのは救世主か、それとも――?

 だが、イクスは賭けに勝った。

 召喚された少年少女は勇者となり、共に旅して魔王を倒したのだ。

 その一人が、ヤイバの母親のミラである。


「とりあえずミラ、だらしない格好はやめい」

「そうなのよねー、最近お腹がちょっと出てきたかなって」

「そういう意味ではなくてな、まずは服をな」

「あー、はいはい。……でも、あとはご飯食べてお風呂入って寝るだけだし」

「お主は友人の見送りに裸でいいと申すか」

「……ちょっと、なにか羽織ってきまーす」


 まあ、いつもの調子の母である。

 そして、改めてヤイバはブランシェにたずねてみた。皆に飲み物をくばりつつ、彼女にもジュースのおかわりを注いでやる。

 表情こそ変わらないものの、ブランシェは嬉しそうに二杯目を飲み始めた。


「ねえ、僕たちは君のことをブランシェって呼んでるけど……本当の名前は?」

「名前? 名前……わたし、ブランク・スクロール。からっぽの白紙」

「そっか……じゃあ、今日からブランシェって名前でイクスさんと生きるといいよ」

「うん、わかった。あと、もう白紙じゃない。何個か魔法もらった。……盗っちゃった」


 少し自己嫌悪、罪悪感があるらしい。

 だが、隣に座るイクスが頭を撫でて優しく諭す。


「よいよい、全ては伯爵のしわざぞ。今後はワシと二人で魔法を守っていこうのう。……もう、あちらの世界には魔法はいらんからのう」


 恐らくイクスにとっても、それは罪滅ぼしなのだろう。

 残りの百年、魔王の一派としてダークエルフを弾圧し、滅ぼしてしまった身だから。

 イクスが優しく頭を撫でると、ブランシェは小さく頷く。


「さて、それではそろそろ行くかの。……この転移魔法もこれが最後ぞ」

「えっ、もうですか? せめて夕食を食べてからとか、明日とか」

「よいよい、よいのじゃ。長いすると未練が残るからのう」


 そう言ってイクスは立ち上がった。

 二杯目のジュースを飲み終えたブランシェも、それに続く。


「世話になったのう、チイもカホルも。お主らの想いにも幸あれと祈っておくぞよ」

「イクスんも元気でね! ブランシェちゃんも」

「イクスさん、あの……向こうの世界ではもう。いえ、それでも戻るんですね」


 チイの言葉に頷き、そしてイクスはそっとヤイバの頬に触れてきた。

 小さなイクスが背伸びして、それでも上目遣いで見詰めてくる。


「少年、ツルギの子、ヤイバよ。どうかいつまでも、そのままの少年でいておくれ」

「いや、どうかな……でも、努力してみます。大人にはなりますけど」

「大人はいつでも子供に戻れるものぞ? 少年、どうか健やかであれ」


 イクスはそっと微笑み離れると、ブランシェの手を取り縁側へと歩いてゆく。西日で茜色に染まる庭で、最後の禁術が展開されようとしていた。

 やはり、世界線を超えて異世界へ行き来する魔法は危険なのだろう。

 でも、それを使ってでもイクスは恐らく会いたかったのだ。

 ミラは勿論、きっとツルギに。

 なんとなくヤイバは、父のツルギに向けられた想いの化石がイクスの胸に眠ってる気がした。だが、それももう過去になりつつある。

 百年の終活のその最初に、彼女はわざわざ来てくれた。

 大変な日々だったけど、今はなんだかあっという間で懐かしくもある。


「ちょいまち、イクス! ほら、服着たから! ……またね。気をつけて」

「うむ、ミラも達者でな。皆も息災でいておくれ。では、さらばじゃ」


 庭一面に大きな魔法陣が広がった。

 ヤイバは、初めて空からイクスが現れた時のことを思い出す。

 色々あったが、そんな非日常も終わりだ。


「イクスさん。僕、学校……行ってみることにします」

「それがええ。人はどこでも学べるが、一生は短い。さらに短い少年時代を、家事育児で費やすのももったいないからのう」

「いや、僕は育児は」

「ミラの世話は育児みたいなもんじゃろ、ムフフ」

「確かに」


 不満を口にするミラも、すぐに笑顔になる。

 そしてみんなで、二人のエルフを見送った。

 ――筈だった。

 しんみりとした別れの雰囲気が、いびつな哄笑で霧散する。

 誰もが空気を読めよと思った男の登場だった。


「皆々様、ごきげんよう! そして、麗しきイクスロール……キルライン、ここに参上いたしましたぞ!」

「……あー、なんじゃ。お主も一緒に帰るか? っていうか、強引に連れ戻しても構わんが」


 傘のように開いた杖のプロペラを使って、空から伯爵が現れた。

 すぐにヤイバが変身すれば、チイとカホルも光に包まれた。あっという間に着衣がほどけて消え、防具に身を固めた冒険者の姿になる。

 だが、警戒する少年少女を一瞥してから、伯爵はブランシェを睨む。


「ブランクスクロール……何故、勝手に町へと出たのです? 餌はちゃんとあげた筈ですが」

「そ、その……昨日のねこ、心配、だった」

「おやおや、そうでしたか。魔導書如きが勝手を! 許しませんよ!」


 着地するなり、伯爵は杖の持ち手をひねった。

 ダイヤルになっているらしく、カチリと音が小さくなる。

 瞬間、ブランシェは悲鳴をあげて倒れた。

 彼女の全身を走るベルトが、その全てがギリギリと幼女の柔肌に食い込んでゆく。やはりあれは拘束具。そして、伯爵はブランシェを道具としてしか見ていない。

 慌ててイクスが魔法を放つ。

 光の矢はしかし、伯爵をかすめて夕焼け空に消えた。


「やはり殺せませんかな? 我輩を。イクスロール様、お優しい」

「やめよ、伯爵! 子供をこうも無惨に……お主はそれでも人間か!」

「いいえ? 既に我輩、人間はやめておりますれば。人間、環境破壊を繰り返し、戦争ばかりしている愚かな人間! 我輩はそうではない……あの世界を救う救世主なのです」

「そういうのを魔王と言うんじゃ! 200年前からなにを学んだ!」

「人間の愚かさと、邪悪さ! 科学文明のおぞましさ!」


 伯爵は自分に酔いしれるように両手を広げる。

 片眼鏡の奥で、瞳が炯々とギラついていた。


「嗚呼、イクスロール様……そこの哀れな白紙の魔導書が、もし惜しいなら差し上げましょう。なに、魔法を手に入れる手段は一つではないのですから」


 すぐにヤイバはナイフを抜いた。

 どのナイフがいいのか、考える暇もなかった。

 どうにかしてブランシェの束縛を解こうとするが、どうしても刃が通らない。特殊な皮で作られているらしく、もしかしたらあちらの世界で失われつつあるマジックアイテムの一種かもしれない。

 カホルも両手の腕力でどうにか引っ剥がそうとするが、ベルトは食い込むばかりである。

 そして、伯爵は恍惚の言葉を声に乗せた。


「イクスロール様、あなたそのものを手に入れればいいのです。どうです? もし我輩のものとなっていただけるのなら……模写するための贋作の魔導書は不必要になりましょう」

「ブランシェを救いたくば、ワシにお主のもとへこいと言うか!」

「流石は聡明なるイクスロール様! スペリオールの称号を持つ最強の魔導師! ……その白い肌に這い回る、無数の紋様。傷跡、痣、入れ墨のようなそれもまた美しい」

「……なんと言うんじゃったかな、こちらの世界でこういうやからを」


 チイとカホル、ミラが口を揃えて返事をする。


「キモいじゃん?」

「キモい、ですね」

「キモいだよ、イクスッ!」


 うん、と頷きイクスは普段の杖を放り投げた。ホームセンターで買った、高齢者の歩行用の杖だ。それに代わって、なにもない空間から魔法の長杖が飛び出してくる。

 それを身構え、イクスは凛冽たる表情で伯爵を睨んだ。


「キモいんじゃよ、伯爵! じゃが、好機……最後の転移魔法で、お主も元の世界にもどってもらうぞよ!」


 ちらりと肩越しに振り返ったイクスが、ヤイバを見詰めて小さく頷く。

 ブランシェの救出を任されたヤイバは、どうにかして幼子の拘束を解放しようと悪戦苦闘しはじめるのだった。

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