蝶蝶恋恋

田所米子

序 完璧

 気だるく揺れる蓮の花が、碧の水面を紅に染めている。ふっくらとした指を伸ばした女は、しかしはたと動きを止めた。愛しいあの人はもういないのに、恋心を表す蓮など摘んで何になろう。霜と雪に覆われても色を変えぬ松柏になれもしなかった身で。

 碧の鏡に映る女の頬に涙が伝う。紅の涙を流すのは、これで何度目になるのだろう。あの人はもういないのに、装いをこらさねばならぬ虚しさに胸を締め付けられるのは。

 季節の花々に満ちた苑をそぞろ歩きすると、柘榴の花の朱がいつも視界の端にちらつく。華やかな八重の花で人々の目を楽しませはするが、実を付けぬこの樹を植えたのは誰なのか。一つの実に多くの種子を宿す柘榴は本来、多子多福の表れであるものを。

 花嫁を迎える前、夫となる者は妻となる者に柘榴を贈る。古の風俗が脳裏に過るや否や、女は己の下腹に手を置かずにはいられなかった。

 ――まるで、優玉ゆうぎょくさまの子を産むことも許されなかった、わたしを嘲笑っているかのよう。 

 ひたすらに小さな足を進めると、憎らしい花と同じ色の裙に刺繍された、金の翡翠かわせみが震えた。夫婦和合を暗示する鳥の意匠を、あの人ではない男のために纏う罪深さには、未だに慣れない。生涯、慣れることはないのだろう。

 魂。あるいは蝶となってふわふわと禁中の園で物思いに耽っていると、あの人が自分を呼んでくれそうな気がしてならなかった。男にしては高い、けれども落ち着いた声で。満開の桃の花よりも麗しい面をほころばせながら。僕の蝶々、と。


 互いの父が決めた幼少のみぎりからの許嫁が、窈児ようじを蝶々と呼びだしたのは、いつの頃からだっただろう。

 初めて会った日から、窈児は優玉に恋をしていた。幸運にも、優玉も窈児を慈しんでくれた。後宮を彩る万の花々を色褪せさせ、先の帝の寵愛を一身に受けたという、叔母譲りの美貌の彼の足元にも及ばぬ見目の己を。

 幼き日の窈児が韻もろくに踏んでいない詩を贈れば、彼は必ず想いを返してくれた。このような才女を妻に迎えられる僕は幸せだ。あなたを妻と呼べる日が待ち遠しい、とはにかみながら。同い年のはずの彼は、窈児の兄よりもよほど大人びていた。

 箏も、舞も、全ては彼のためだけに研鑽を重ねた。初めて会った時からずっと、窈児の目には彼以外の男など、影すらも映ってはいなかった。長じて優雅な青年となった彼に妻として抱きしめられる夜を、窈児はどれほど夢想しただろう。彼の愛を受け、彼の子を宿し、彼の子を育む。未だ夢に見る幸福な時は、永遠に現実にはならないのだけれど。

 涼やかな風が、芳しい蓮の香りを懊悩する女に届ける。最後まで誠実だった彼との誓を破った罪を忘れてはならぬとばかりに。

 眉を曇らせつつ胸元を探ると、香嚢においぶくろが一つ。

 一言一句をよどみなく諳んじられるとはいえ、窈児は彼から贈られた文の数々を生家に置いてきた。置いてこざるを得なかった。半身を引きちぎられる思いで入った後宮に、唯一持ち込めた思い出の品は、まさしく己そのものだった。つたない蝶と蓮の刺繍も、既に失せた香りも、何もかも。

 寄り添う二頭の蝶にも、蓮にも、夫婦和合の願いが込められている。それぞれ蝶を一頭刺繍した、稚拙な作りの匂い袋を二つ並べて差し出した己の意図を、あの人はきちんと汲んでくれたのだった。あの時の窈児は真っ赤にした顔を俯かせ、ただただ無言で突っ立っていたのに。

 ――僕たちも早くこの蝶々のようになりましょうね。

 柔らかな囁きに誘われてようよう面を上げると、広がっていたのは仙女も羨む微笑であった。

 愛の証は、定情の信物はここにあるのに、あの人がわたしの隣にいないのはなぜなのだろう。

 誰にも。優玉を窈児から奪った天からも見えぬように、彼と己の想いを掌で包む。熱い目を閉ざすと、あの日の彼の、幸福そのもののかんばせが眼裏まなうらに浮かび上がった。

 互いの父母の目を盗んではこっそり己を訪れてくれた彼の笑みを。囁きを、交わした約束を、完璧だった日々を、窈児は決して忘れない。この命が尽きるまで、ずっと。

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