岸田真治という人間離れしすぎている怪物との死闘
「そうか。つまり君は、僕との闘いを選ぶのだね。悲しいが仕方ない」
「お前、状況がわかっているのか」
獅道は思わず呟いていた。拳銃を突きつけられた今の状況で、まだ闘いなどと言っていられるとは……。
こうなれば、撃ち殺すしかないのか。いや、そんなことをすれば唯子はどうなる?
獅道の気持ちに迷いが生じる。だが、それは致命的なミスだった。
突然、岸田の体が視界から消える──
「なにい!?」
獅道は、確かに岸田から目を離していなかった。だが、その意識は岸田から離れていた。ほんの一瞬ではあるが、あの男の方を向いているだけで見ていない、という状態にあったのだ。時間にして、零コンマ何秒という僅かな間である。
だが、岸田には一瞬あれば充分だった。座っていたパイプ椅子ごと背後に倒れた。音もなく、自然な動きで倒れている。零コンマ何秒の意識の空白を突かれ、獅道の目には消えたように見えたのである。
これは、格闘技の試合でも起こる現象なのだ。何気なく振った下手なパンチが、なぜか相手の顔面に当たり倒れる……零コンマ何秒の集中の途切れがもたらした現象である。
今、獅道の身にも同じことが起きていた。ほんの僅かな意識の隙間を突かれ、次に取るべき行動を見失ったのである。
岸田の方は真逆だった。後方に倒れると同時に、瞬時に椅子を蹴飛ばす。椅子は、獅道めがけ吹っ飛んでいった。
だが、獅道とて数々の修羅場を潜ってきた男である。すぐさま椅子を躱した。
直後、右手首に激痛が走る。痛みのあまり、拳銃を落とした──
椅子を蹴ると同時に立ち上がり、一瞬で間合いを詰めていた岸田。獅道の方は、飛んでくる椅子に気を取られ、敵の接近に全く気づいていなかったのだ。
放たれたのは右ミドルキック。その爪先は、獅道の手首に命中していた。鞭のような威力だ。激痛のあまり、構えていた拳銃が落ちる。
しかも、攻撃はそれだけでは終わらない。続いて、体の回転を利かせた左の後ろ蹴りが飛んできた。岸田の足裏が、獅道の腹を抉る。
強烈な痛みが走り、その場に崩れ落ちた。常人なら、内臓が破裂していただろう。だが、獅道の意識は残っている。戦意も消えていない。次に何をすればいいかもわかっている。倒れたと同時に、床を蹴って己の体を滑らせた。半ば転がるような動きで、その場から離れ間合いを調整した。顔を上げ、岸田を睨みつける。
直後、表情が歪んだ──
岸田は、リラックスした表情で立っていた。その手には拳銃が握られている。獅道が落としたベレッタだ。
形勢は逆転した──
「こんなつまらんものを、我々の闘いに介入させないで欲しいな。人間を人間たらしめているのは、道具の使用の有無だ。道具を捨て、素手で殺し合う。その時、人は獣に帰れるのだよ。すなわち、素手の殺し合いとは獣に帰れるだけの力を持った者にのみ与えられし権利だ……僕は、そう思う」
言いながら、岸田は拳銃を己のポケットへと入れる。それを使う気はないらしい。
何を言っているのか、何を考えているのか、獅道には理解不能だ。しかし、今わかることはひとつ。
この岸田は、自ら勝利の機会を手放した……そう思った時だった。
「さあ、来たまえ。僕を殺せば、唯子さんは君のものだよ」
言いながら、手招きする岸田。こちらの内面を何もかも悟っているかのような態度だ。
その言葉は、獅道の裡に秘めたものを刺激した。
「このクソバカが……殺す」
毒づいた直後、獅道は襲いかかった──
一気に間合いを詰めた獅道だっだが、岸田もゆらりと動いた。幽霊のようにフワリと横に移動したかと思うと、大振りの右パンチを放つ。先ほどの蹴りとは違う、素人が力任せにぶん殴るタイプのパンチである。獅道は簡単に躱した。
続いて、ブンというロングフックが飛んでくる。獅道は、簡単に見切り躱した。こんな程度の腕なのか、と思った瞬間だった。
突然、岸田が視界から消える。
その一瞬後、踵が頬に炸裂した。獅道は吹っ飛び、床の上を転がる──
何もかも、理解の外だった。
素人まるだしの大振りパンチから、いきなりの胴回し回転蹴り。この技は、体を高速で一回転し逆立ちのような体勢で放つ踵蹴りである。格闘家でも、使いこなせる者は少ない技だ。
しかも、ここはコンクリートの床である。間違えて頭から落ちれば、自分もダメージを受けるのだ。これは試合ではない。命を懸けた戦いの場で、胴回し回転蹴りのようなリスクの大きい技を何のためらいもなく出せる……狂人と紙一重の才能を持つ者にしか出来ない芸当だ。
その天才は、すました顔で獅道を見下ろしている。緊張感はまるで感じられない。楽しくてしかない、といった様子だ。その瞳には、異様な輝きがあった。
獅道は、相手を睨みながら慎重に立ち上がる。ゆっくり口を開け閉めしてみた。顎は外れていない。歯も折れていない。痛みはあるが、耐えられる程度のものだ。まだ動ける。
もっとも、不利な状況であることに変わりはない。この男、何もかもがでたらめだ。しかし、そのでたらめぶりが逆に武器となっている。
その時、岸田はクスリと笑った。
「ところで、君はこんなことをしていていいのかな」
どういう意味だ? 襲いかかろうとしていた獅道の動きが止まった。相手の意図が読めない。睨みつけながら、相手の次の言葉を待つ。
次の瞬間、とんでもない言葉が放たれた──
「実はね、先ほど立花から連絡が入った。白土連盟の事務所を襲った真犯人の居場所がわかったらしい。そこに希望くんも一緒にいる可能性が高い、とも言っていたよ」
血の気が引いていた。まさか、ナタリーの存在まで掴んでいたとは。
呆然となる獅道に向かい、岸田は楽しげに語る。
「今頃は、ふたりとも捕われの身だろう。こんな状況で、君は何をする気だい? もう、何をしても無駄じゃないのかな」
だが、獅道の方もすぐに気を取り直した。希望の
あいつが負けるはずがない。
「あんまり、うちの人間をなめない方がいいぜ。ナタリーはな、俺以上の地獄を見た女だ」
その言葉に、岸田の表情が僅かに変化した。ポケットから、スマホを取り出す。
「だったら、立花に聞いてみるとしようか。今、どんな状況かをね」
言いながら、スマホを耳に当てタッチパネルを操作する。と、その表情が曇った。
「なあ、この人は君の知り合いかい?」
言いながら、またしてもタッチパネルに触れる。途端に声が聞こえてきた。
(もう一度言う、このスマホの持ち主は死んだ。これ以上、我々に構うな。でないと、今度はこちらから戦争を仕掛けるぞ)
冷静な声。紛れもなくナタリーのものだ。こんな状況にもかかわらず、獅道の表情が緩んだ。
やはり、あの女に頼んで正解だった。
「ああ、俺の知り合いだよ」
「ということは、立花は死んだのか」
涼しい顔で言ったかと思うと、岸田は拳銃を抜いた。
銃口は、真っすぐ獅道へと向けられている。そのまま、岸田は語り続ける。
「大丈夫だよ。竹川唯子さんは、この扉を開けた突き当たりの部屋にいる。僕は一切、手を出していない。彼女は無事だ。ただし、樫本氏は別だがね」
こちらに向けられた瞳は澄んでいた。今さっき、鬼神のごとき立ち回りを演じた者と同一人物とは思えない。
だが、その銃口はこちらを向いている。
獅道は、奥歯を噛み締めた。ようやく、本気で殺す気になったらしい……絶望感に襲われた時、岸田の口から思いもよらぬ言葉が飛び出した。
「立花のいない世界など、面白くも何ともない。僕の生きる理由は、なくなってしまったよ」
こいつ、何を言っているんだ……困惑する獅道に向かい、岸田はなおも語る。
「もう充分だ。人生最後の日に、君のような人間に出会えて本当によかった。ありがとう」
言ったかと思うと、岸田は思わぬ行動に出た。銃口を、己のこめかみに押し当てたのだ。
直後、にっこり微笑む。
極めて純粋で、この世のものとも思えぬ美しい笑顔だった……。
「ま、待て!」
思わず叫ぶ。だが、岸田の指は動いていた。何のためらいもなくトリガーを引く。
轟く銃声。弾丸は、岸田の脳を貫く。微笑んだ顔のまま、ばたりと倒れた。
彼の命を奪ったのは、皮肉にも立花の命を奪ったのと同じ二十二口径の弾丸であった。
「き、岸田……」
獅道は、ただ呟くことしか出来なかった。凡人が羨むものを、全て持っていた天才。獅道に、圧倒的な力の差を見せつけた怪物。その気になれば、自分の命を奪うことなど何でもなかったはずだ。
にもかかわらず、目の前で死体となっている──
「お前は、何がしたかったんだよ」
思わず呟いていた。だが、岸田は答えてはくれない。
美しい顔に笑みを浮かべたまま、床に倒れていた。
やがて、獅道は気を取り直し扉を開けた。通路の奥へと進んでいく。
やがて、通路の突き当たりへとたどり着いた。目の前には、鉄の扉がある。
ドアノブを捻ると、扉は簡単に開く。
そこは異様な部屋だった。中世ヨーロッパの牢獄のように、石造り風にデザインされた壁に覆われている。部屋の明かりも、どこか暗い雰囲気だ。部屋の半分は鉄格子に覆われた檻のような形状になっており、中にはベッドが設置されている。
鉄格子の中には、ふたりの人間がいた。片方は両手両足を縛られ、床に転がされている。小太りの中年男で、両手両足を縛られ床に転がされている。凄まじい暴行を受けたのだろうか、顔面は血まみれだ。鼻も前歯もへし折られ、まぶたは腫れ上がっている。着ているスーツにも、大量の血がこびりついていた。死体のようにも見えるが、まだ息はある。
この男が、樫本直也だった。今回の騒動の元凶である。必ず殺す、そう誓ったはずだった。
だが、今はそんな気にはなれなかった。獅道の目は、もう片方の人物に注がれていた。
その人物は、タンクトップにホットパンツという格好の女だ。顔立ちは美しく、肉感的な体つきをしている。白志館学園では、ルミと呼ばれ男たちの慰み者となっていた。士想会幹部の大塚啓一は特に彼女を気に入っており、二日に一度は現れ豊満な肉体を貪っていたのだ。
だが、獅道は知っている。彼女の本当の名前がルミでないことを──
「久しぶりだね、唯子さん」
そっと、呟くように言った。
しかし、女は何も答えない。虚ろな目で、じっと床を見つめている。半開きの口からは、時おり意味不明の言葉が漏れ出る。何を言っているのかはわからなかった。
獅道は、胸が潰れそうな思い堪えて目を逸らす。その時に気づいた。ベッドの上に、白い大学ノートが置かれていた。
ノートを手に取り、ページをめくる。綺麗な字だった。書いたのは、岸田らしい。読んでいくうち、獅道の表情が険しくなっていく。
そこには、竹川親子を襲った事件のあらましが書かれていた──
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