69 王都出発前夜



 その夜。

 エステルは緊張していた。

 湯殿の後、念入りに髪を梳かし、室内用の淡いピンクのワンピースに着替え、夫婦の居間に向かう。


(クラウド様のお顔を見るのは久しぶりで……緊張するっ……)


 久しぶりといっても、あのダンスの予行以来二週間ばかりしか経っていない。

 しかし、会いたい気持ちを抑えて他のことに没頭していたので、エステルにとってはとても久しぶりに感じた。


「あ、あの、アグネスさん、わたし変じゃないですか? ワンピース、これでいいですか? 着替え直したほうが……」

「何をおっしゃいます。とってもお綺麗ですよ。ほら、もうこの扉の向こうからエステル様を待ちわびるクラウド様の想いが伝わってくるようです」

 アグネスが朗らかに笑う。

「そ、そんなことは」

「ほら、前にお伝えしたでしょう。自信と誇り、ですよ」

 クラウドの妻としての自信と誇りを持つ。

 そう思うと、取るに足らない自分のことが大切に思えて、勇気が湧いてくる。

「は、はい……そうですね!」

「うん、いい笑顔です。さ、お入りになってください」


 促されて室内に入る。最近では忙しさにかこつけて食事も別にしていたため、夫婦の居間に来るのも久しぶりだった。


「エステル……」

 ソファに座っていたクラウドが立ち上がった。


「久しぶりだな」

「は、はい」

「元気にしていたか」

「はい、クラウド様も」


 この頃、クラウドはテンプルトンと熱心に執務室で話すことが多いと聞いていた。

 クラウドが衣装にこだわりがあるのが意外だったが、エステルもクラウドのために美しくありたくて衣装にはこだわったし、テンプルトンと話すのは楽しかった。

 クラウドも同じ気持ちだったとわかって、エステルはうれしくなる。



 そこへグスタフが書類を抱えていそいそと入ってきた。

「御足労いただいて申しわけございません」



 今夜は舞踏会の段取りなどについて、グスタフから直前の説明を受けることになっていた。


 しかしどことなくグスタフの顔には戸惑いの表情が浮かんでいる。

 クラウドもそれを察したのか、グスタフにソファに座るよう促した。


「グスタフ、どんなことでも隠さなくていい。問題ないから、なんでも話せ」

「はい……」


 グスタフは白い口髭を整えるように手を当てて話し始めた。


「実は、王都の別邸はまだ完成しておりませんで」

「問題ない。それは知っている」


 王都在住でない貴族は通常、王都に別邸を持っている。

 今回のように王家主催のパーティーや王都での用事の際に滞在するときに使うのだが、そこが何かの事情で使えなければホテルに宿泊したり、別の貴族の別邸に招かれたりする。


「王太子からは、宿泊する屋敷を用意したと聞いているが」

「それが……」


 グスタフが苦し気に言った。


「王太子様より滞在許可を賜った場所は、王都の西大門にほど近い場所」

「西大門ですか?」


 エステルは思わず呟く。

 王都の西大門は王都の中で最もさびれたエリアで、爵位の低い貴族や王家の不興を買って社交界から弾かれた貴族が別邸を連ねている。王城からも最も遠い。


「間違いないのか、畏れながら王城へ確認の使者も出したのですが、その場所で間違いないと……ですが、我がトレンメル家は畏れ多くも王家に連なる公爵家より奥様をお迎えしております。それなのに、西大門の近くとは、いかに王太子様のなされようだとしても、あんまりかと……」


 グスタフは唇をかむ。いつも穏やかなグスタフから怒りを感じて、エステルは驚いた。

 辺境伯とはいえクラウドは英雄、その妻がリヴィエール公爵家の令嬢ともなれば、王城に宿泊してもおかしくない。王太子の指示がいかに非常識かわかる。


「問題ない、グスタフ。手数をかけさせてすまなかったな」

 クラウドはグスタフに笑んだ。

「王家や王太子に侮られても痛くもかゆくも無い。それに、リヴィエール公爵家とは縁を切りたいと思っているところだ。エステルを適切な貴族の家に養子縁組して、そこから嫁いだということにしようと思っている」


 グスタフは目を瞠った。


「ですがクラウド様、それは」

「いいんだ。政略結婚などどうでもよくなった。公爵家の権威を得るためにエステルを迎えたが、所詮それは王家に媚びへつらうことだ。どのみち、王家と公爵家は魔石鉱泉の利益を寄越せと言ってくるだろう」


 エステルはハッとクラウドを見上げた。クラウドは、すべてわかっていたのだ。


「俺は社交界や政界で何かを為すつもりはない。与えられたこの領地領民を守ることに心血を注ぎたい。それには、この地域の民との結びつきを強くすることが最も大事だとよくわかった。だからもう、公爵家の権威などどうでもいい。俺は、エステルが何者でもない、ただ一人の女性として、妻としてここにいてくれればそれでいいんだ」


 隣のクラウドから熱が伝わってくる。

 グスタフに説明しつつも、それがエステルに向けられた言葉だとわかって。

 エステルはうれしいと同時に、苦しくなった。


(クラウド様がそんなことを言ってくださるなんて……!)


 リヴィエール公爵家の権威がなくても、エステルにここにいてほしいと言ってくれるクラウドの気持ちが、夢心地のようにエステルに響く。


(でも、クラウド様はこの土地と民を懸命に守ろうとしている)


 クラウドはエステルを大切にしてくれている。

 しかし、同時にトレンメル領の土地や民もクラウドにとってはかけがえのないものだ。


 クラウドの気持ちを知って尚、離婚宣言は成功させなくてはならない。むしろ、いまのクラウドの言葉を聞いたからこそ、エステルは身を切られるような思いで決意を固めた。


(見ていてくださいクラウド様。ぜったいに『離婚宣言』を成功させますから!)


 怒りで硬くなっていたグスタフの顔が、柔らかくほどけた。

「そうですか、クラウド様がそうおっしゃるのであれば、我らにも異存はありません。エステル様が公爵令嬢でないことなど、我々にとっては微塵も問題にはなりませんので」


(グスタフさん……ありがとうございます……)

 エステルは、微笑んでくれたグスタフに微笑みを返すのが精いっぱいだった。

 この場で何か言ったら、泣きだしてしまいそうで。


 それからはグスタフに舞踏会までのスカジュールや舞踏会当日の流れについて説明を受けた。

「いよいよ明日は、王都へ出発ですな。クラウド様もエステル様も、よくお休みになられますように」

 グスタフは一礼して部屋を後にした。


「…………」

「…………」


 グスタフが出ていってしまうと、怖いほどの静寂が夫婦の居間を包む。


 クラウドに伝えたいことは山ほどあるが、それをクラウドの目の前で言葉にする自信がエステルにはなかった。

 今の話を聞いてしまってからは、尚更だ。


 エステルは思い切って立ち上がった。

「あの、クラウド様、おやすみさなさいませっ……」

 

 立ち去ろうとすると、背中からクラウドの静かな声が追いかけてきた。



「エステル、もう行ってしまうのか?」

 クラウドの声に心臓が跳ね上がり、エステルは思わず立ち止まった。




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