十六.第一王女の苦悩

 台地の上には日が降り注いでいた。表戸の前の白い階段を踏む。出る時には半ば隠れておったのに、帰る時は堂々としていられるとは、おもしろいことだ。

 私はオイゲンの後について歩いていた。後ろからオリヴァーも騎士たちを伴ってついてくる。図書館の横を過ぎ、書棟に立ち入った。すでに席についていた朝の早い文官たちが宰相にあいさつをする。次いで後ろにいるのが誰かを見て、そろって驚いた顔をした。

 オイゲンは真っ直ぐ文官長の机へ向かった。これだけの人の中にいて、決して高い方の背ではないのに、ぴんと伸びた背筋と颯爽とした歩き方は人目を惹く。彼に向けられる好意の視線がそのままこちらに向けられるのは快かった。恩恵を享受する気分だ。にまにまする口もとを袖で隠す。

「ハルメダール殿」

 宰相に呼ばれたダーフィトは書類から顔を上げ、私に気づいてその目を輝かせた。金茶の豊かなひげの中の口がにっこりする。

「第三王子殿下! よくぞお帰りくださいましたなあ!」

 嬉しそうに大声をとどろかせ、彼はすばやく立ち上がるとぎゅっと私の手を握った。

「ありがとう、ダーフィト。お前に仕事を土産に持って来てあるぞ」

「ハイスレイ公が外で待っておるのでね。用意を頼みますよ」

 オイゲンがいうと、ダーフィトは慌ただしく机の上を探って、

「今日でしたな! ご一緒にいらしたのですかな? さっそく侍従を向かわせましょう」

 といそいそと出てゆく。相変わらずそそっかしいやつだ。二週と少しでは変わりようもないがな。

 くすくす笑っていると、オイゲンは私を宰相の部屋に招いた。それは書棟の一角にあり、文官長以下の文官のいるところと兄上の執務室に通じる廊下との境にあった。先のがいた時は立ち入ったこともなく、どう変えられたのかはわからぬが、広い机はきちんと整えられ、大窓から光がたっぷりと取り込まれていて清々しい空気になっている。両側の棚には本や書類の束がきっちり詰め込まれていた。

「貴方は整理整頓が得意と見えるな。学者というものは、そこかしこに資料を広げておく者が多いというが」

 部屋を見回して言う。オイゲンは荷を机に置きながら、

「真面目と綺麗好きが同居するかというと違うのですよ、殿下。この部屋の半分は弟子の掃除好きによって成り立っておりますのでね」

 弟子? 前に言っていた?

 首を傾げる間に、オイゲンは侍従を呼んで、一の君に宰相が参ったと報せるよう命じた。侍従は飛んで帰ってきた。兄上の方がこちらへ足を運ぶというので。私は慌てて廊下に飛び出した。

 兄上が足早にこちらに向かってきていた。その後ろに文官が一人従っている。

「ヴィンフリート」

 兄上は白い面に安堵のような表情をのせ、ほっとした声で私を呼んだ。その白金の髪が日にきらきらと輝き、緑玉の瞳がきらめいている。どれほどこの方にお会いしたかったか。

「兄上っ」

 たっと駆け寄った。するとその温かい腕の中に抱き寄せられる。

「お帰り、ヴィン」

 優しい声が耳をくすぐった。その腕に手を添え、自然にあふれる笑みをそのままに答える。

「ただいま帰りました、兄上」

 抱擁を解くと、兄上は少しだけ眉根を寄せ、

「苦労をかけたね。大事なかったか」

 と聞くので、私は首を横に振った。

「いいえ。オイゲンもオリヴァーも、私に本当によくしてくれました。兄上はよい者たちをお選びになりましたね」

 ちらりとオイゲンを見上げて微笑む。

「そう思うか?」

 と兄上もくすりとする。

「ええ。多く学ぶことがございましたよ」

 勢い込んで言うと、兄上は私の髪をくしゃりとなぜて、

「夜に幾らでも聞かせてくれ。きっと聞き飽きぬだろう」

 と笑って流した。

「ともかく、お前が無事で帰ってくれてよかったよ、ヴィン」

 くすぐったく思いながら口をつぐむ。仕事中に兄上のお時間をもらうことはできぬゆえな。事実、兄上はすぐに背後の文官を呼んだ。

「そうだ、お前と彼を引き合わせておかねばな。ハルトムート、こちらへ」

 呼ばれた若者は進み出て、私に控えめに笑いかけた。中肉中背で栗色の波打つ髪を短く整え、若葉色の垂れ目をしている。年はスヴェンたちと同じくらいだ。ずいぶん若い。

「第三王子殿下でございますか?」

 若者は涼やかに響く声で確認を取った。

「ああ、そうだが」

「お初にお目にかかります。ハルトムート・ツヴィクルと申します。宰相オイゲン様に師事させていただいている者です。どうぞお見知りおきを」

 丁寧な口上に私は目をまたたかせた。オイゲンを振り返る。

「前に貴方が言っていた?」

「おお、覚えていてくださいましたか? ええ、私めの妹のところの次男で、弟子に取っております。上手く育てば一の殿下の未来の宰相ですよ」

 とオイゲンはいたずらっぽく笑う。

「そうか、貴方が!」

 私は感心してうなずいた。現宰相家の血を引いているが、違う家名を持つ宰相候補。これは歓迎すべきことだ。上手くゆけば母上のような悲劇が起こらなくなるのだから。

 ハルトムートは恥ずかしそうに、しかしきっぱりと、

「おやめください、尊称など。私めはただの文官の家の末子でございまして、今は新人の文官に過ぎませぬ故。先生も大言壮語は控えてくださいませ」

「ほう?」

 私はにやりとした。公爵家の血を自慢にせぬとは、謙虚なことだ。

「他の文官同様お前と呼びかけるのでよいと? 変わったやつだな」

「分不相応は災いのもとですよ、殿下」

 ハルトムートはちょっと微笑む。私はふは、と笑った。

「私は兄上もオイゲンも信頼する者を過小評価しようとは思わぬよ。だが、お前が望むならそうしよう」

 言うと若者は困ったように笑んだ。兄上がふふ、と笑う。

「ハルト、お前も頑固だな。話の続きはそちらでしよう。例のを持ってくるといい」

 ハルトムートは一礼して向こうの会議室へ消える。それから兄上は宰相に向き直り、

「オイゲン、お前もご苦労だった。よくやってくれた」

「いえいえ。三の君をお預かりできるとは光栄でございましたよ」

 オイゲンは笑って済ました。

 どうやら兄上とハルトムートは親しいらしい。愛称で呼んでもいる。オイゲンに問うと、

「あやつは一時いっとき第一王子殿下の学友扱いされておったのですよ。私が殿下にお教えしていた折、まだ十四、五だったあれは相当感化されまして、以来殿下のお傍を目指すようになったのです。まだ若輩故に尻込みすることも多いようですが、頭の方は保証いたします。殿下も勉学に困ったことがあればあやつを使っていただいてよろしゅうございますよ」

 それはよいな、と私は答えた。ああいう男が私のようないい加減なのを好いてくれようか定かではないが、それなら中を深める機会はありそうだ。


 一旦内宮へ下がろうと文官たちのいる方へ出ると、エトガーが立っていた。彼は私をじっと見つめて、珍しく表情を崩し、

「これは殿下。……ご無事でようございました」

 と何のひねりもないユースフェルト語で言う。彼も心配してくれていたらしい! 私はジョルベ語の軽い調子で、

「戻ったぞ、エトガー。そんな顔をするな、私は見ての通り傷一つもない」

 ふっとエトガーが笑みを見せる。

「再びそのお声が聞けて喜ばしく思いますよ」

 とティエビエン語が返ってきた。調子に乗って数か国語で元気にしていたかといった会話を続けていると、不思議に思ってのぞきに来たらしいオイゲンに驚かれた。そういえば、外語の話はしていなかったな!


 今度こそ回廊へ出る。そこへ焦ったような足音が届いて、目をやった私は、また一つ会いたかった顔を見つけた。

「カスパー!」

 彼とジークがこちらへやってきていた。二人の方へ駆けてゆくと、私の騎士は灰がかった緑の揺れる瞳で私を捉え、人目も気にせずひざまずいた。

「ヴィン様……!」

 震える声に、固く握りしめられた立てた片膝の上の拳。

 ああ、と私は心の内に呟いた。……私は何ということを、こやつに課してしまったことだろう……。

「カスパー」

 そっとその肩に手をかける。

「顔を上げてくれ」

 私を見上げる面に、目が強い光を放っていた。

「申し訳ありません。……私は至らぬ護衛でございました」

 と彼はかすれた声で告げる。その声があまり深かったので、つと胸を突かれた気がした。長く離してしまった、——私の騎士。

「謝るな。お前はよく務めを果たした」

「ですが」

「お前が命を聞き、悪意ある手から守ってくれたからこそ、私は再びこうしてこの場に立つことができておるのだぞ? 立つがいい、カスパー」

 微笑みかけ、ぐいとその手を引く。立ち上がりいつもの目線に戻った彼は、

「ヴィン様……私は本当に不用意を悔いました。もう二度とあんなことは」

 と目を伏せる。

「言うな。あれは仕方のないことだった。私にとってどうしても必要だったからああしたのだ。……むしろ、お前をだますような命を聞かせた私の方が謝らねばならぬだろう。すまなかった」

 重ねた手をきゅっと握った。

「お前以上の近衛はない。……まだ私を守ってくれるか?」

 お前を謀ったような主でも、と言外に含ませて聞くと、

「はい……もちろんですとも。何をおっしゃるやら」

 彼は泣き笑いするような声で言って微笑む。

「よくぞお帰りくださいました」

「ああ、ただいま」

 私もその目と目を見交わして微笑んだ。ジークが笑みを浮かべながら、

「私もお戻りを歓迎しますよ、ヴィン様」

 と言ってくれる。

「ありがとう、ジーク。カスパーは借りていってよいな?」

 赤茶の髪の騎士隊長を見上げて問うと、

「無論。ハスにもやっと本来の仕事をさせてやれますね。私はアレク様のもとへ参りますが、ハイスレイ公爵にご挨拶をなさるなら、昼前には戻ってこられるとよろしいですよ」

 と返ってきた。彼はそのまま兄上の方へ歩いてゆく。

「では行こうか?」

 私は焦げ茶の髪の騎士を見上げ、嬉しそうな彼と共に内宮へ向かった。


「ヴィン様!」

 部屋の戸を開けた途端に、わっと三人分の声がして、黒の巻き毛の侍女が飛びついてくる。

「ご無事でようございました……! ごめんなさい、不手際をしてご出立の際もお傍におれず……わたくし、ずっと不安で、皆沈んでしまって、」

 モニカはあふれるように喋り出し、ふいに声を詰まらせて顔をおおってしまった。私はそっとその腕に触れて、

「私を元気づけようとしてしてくれたことだったろう? 心配をかけたな、もう平気だ」

 それからアリーセとエーミールの方を見る。

「お前たちにも。やっと顔が見れて嬉しいぞ」

 泣き出しそうに固い顔をしていた二人は、ほっとしたようにそれぞれ薄い青灰色と黒の瞳をうるませる。

「お帰りなさいませ、ヴィン様」

「いいえ、いいえ……! ヴィン様がご無事でいてくださったのですから、もう何も不安はありません。僕、これからもっと誠心誠意努めますからっ」

 一生懸命に想いを伝えてくれようとするエーミールに、私はふふっと笑った。

「そうしてくれ。やはりここはよいな、お前たちの顔を見ると帰ってきたという気がするよ」

 軽くモニカの腕を叩く。

「ほら、顔を上げなさい、もう私のことで泣くことはないぞ。お前の仕事に心を配る必要ができたのだから……アリーセ、姫たちに会いにゆくのは明日にすべきかな?」

 私の荷物を解いている茶の髪の侍女に振り向く。アリーセはうなずき、

「そうですね。後で後宮へ伝えておきましょう」

「ありがとう。さあ、モニカ、明日は姫たちに会うのだから、白の上着にして、それに似合うものを選んでもらおうか。お前の得意な仕事だろう?」

 笑いかけると彼女はくすりとした。ぬれた深緑の目を細める。

「わかりましたわ。わたくし働きますわ、ヴィン様がいらっしゃらなかった分も埋めてしまえるくらい」

 戸を出てゆこうとする彼女を、廊下でカスパーが呼び止めた。ハンカチを貸してやったらしい。

 私は小さく笑い、久しぶりに気に入りのソファに身を横たえて、少しの休息を取った。


 昼になる前にオリヴァーを見送りに行った。今夜はオイゲンの館に泊まり、明朝発つという。兄上への報告もとどこおりなく済んだようだ。懐の中のものを大事に押さえる手が見えた。公爵の印でも入っておるのだろう。

「世話になったな、オリヴァー」

 カミラ殿とゲッツにもよろしく伝えてくれ、と言うと了承してくれた。私たちは握手をして別れた。

 彼を乗せた馬車は公領の騎士たちに守られて坂を下ってゆく。遠ざかっていくその影に呟いた。

「……これよりハイスレイ公の名を聞いて眉をひそめることはあるまいな」

 同じ名を背負う者の明らかな違い。それはよかったですね、とカスパーが答えるのを聞き、私は満足してうなずいた。


 宰相の仕事ぶりが気になり、彼の部屋に入り浸っていると、昼餉を共にさせてもらえた。これは幸運だ。

 彼のもとへは高官たちが入れ替わり立ち代わり訪ねてくる。事業について宰相の了解を得るとかいうので。先のがおろそかにしていた件が回ってきているのだとオイゲンが教えてくれた。ついでにそれぞれが何を目的としているのかも。

 流し込まれる情報の多さに私は音を上げた。悪いが半分しか理解できなくなってしまった、頼むから説明係より先生役をしてくれ、と。彼は笑って、重要だと思われることを詳しく教えるようにしてくれた。とても楽しそうに語ってくれる。やはり教師気質なのだ。

「しかし、そのさまを見るに、権の全てを握ったとは言い難いようだな。どうやって私を呼び戻せたのだ?」

 オイゲンの多忙さに、私はとうとう口を挟んだ。彼は机の上の書類の山から顔を上げ、

「第一王子殿下が宣言なさったからですよ。それが可能でしたのも、一の殿下というより、殿下ご自身の資質あってのことでしたがね」

 と笑う。

 私の? 首を傾げると、

「お気づきになりませぬか?」

「何をだ?」

「殿下は随分と慕われていらっしゃる」

 彼の笑顔の説明によると、私に王位簒奪の企みに関わった疑いはないという声が大きかったのだという。内宮に出てからの私の姿を知っていた者たちが、第三王子に不当な処分を与えるべきではないと言ってくれていたのだと。

 顔が熱くなって、表情を取り繕えぬと思って、袖で口もとを隠した。

「……まことに? ならば、本当に、ありがたいことだ」

 私の努力は間違ってはいなかったのだ。

 私を、認めてもらえた……。

「……私は応えねばな。オイゲン、お前がこのように時間を割いてくれるなら、もっと学ぶことができよう。どうかよろしく頼むぞ」

 感情のままに迫ると、彼は悠々と笑って時々は先生役をしようと約束してくれた。


 夕刻になって兄上とハルトムートが宰相室へ戻ってきた。弟子は師匠の机が書類で埋まっているのを見て、師匠に注意しつつ片づけ出す。朝の美しい状態はハルトムートによるものだったのだな、と納得したところで、兄上がオイゲンを呼んだ。

「少し気になることを耳にしてな」

 オリヴァーが例のまじない石の細工の話をしたらしい。私は顔をしかめた。何であったか? どこかで石細工を見たように思うのに、思い出せん。

「宝飾品で取ってあるのは由来あるものだし、気にすることはないと思うがな」

 あごに手を添え、兄上が言う。

「後宮の方々は大丈夫でしょうか……」

 呟くと、兄上は私を見て、

「今年は贅沢もできぬようにしてしまったし、問題なかろうが……ふむ、少々心配だな」

「でしたら、明日後宮へご一緒してくださいませぬか? 姫たちに会おうと思いますゆえ」

 と述べると、兄上は微笑んだ。

「それはよいな、姫たちも兄が務めに来ぬと困っていたそうだぞ。お前が二人に会っている間、私は妃様方に話を聞こう」

 それで明日の予定が成ったので、夕食は和やかに進んだ。エルヴィラ様はまるで何事もなかったかのように私の席を用意してくれていて、すっかり以前と同じように、急くこともなく会話が弾んだ。

 兄上が公領でのことを聞きたがったので、あちらでも馬に乗ったことや、街や森を見たこと、りんご畑の収穫を目にしたことなどを伝えた。まだ話し足りぬが、これからは毎日お目にかかれるのだし、焦ることはない。少し疲れていたので、早めにあいさつをして部屋に戻った。


 自室に入ると、机の上に文があった。送り主の名に、とくん、と心の臓の音が大きくなる。

 いつもの流麗な字。ヘマ……。

 モニカがはりきって湯殿を整えてくれていたので、さっと風呂に入り寝間着に着替えた。静かな時が来るのを待ってから、手紙を開く。

『親愛なるヴィン

 便りをありがとう。お前が閉じ込められているのではないと知って安心したわ。新しい宰相殿も公爵殿もすてきな方のようですね? お前が少しでも笑っていられるといいのだけれど!

 私の方は無事です。心配しないでくださいね。姉様たちが私を呼ばないので、何も起こりようがないのですもの。

 こちらの王城には新しい動きはないわ。そちらではきっと新しいことが起こっているのでしょうね。それがお前にとってよいものになりますように。

 暗い話はないけれど、明るい話題もないのでつまらないわ。この手紙までつまらなくなってしまわないように、楽しいことを書いておくわね。この間、ヴェントゾが塔の頂上に寝そべって昼寝しているのを見つけました。そちらの王宮でずっと屋根の上にいたから、高いところで眠るくせがついてしまったのかも。お前と一緒にしたとんでもない冒険を思い出しました。

 会えない間に想いは募るというけれど、本当ね。会ってお前の声を聞きたいです。早くそうできるようになるといいのですが。

 ヴィン、私の想いを覚えていてくださいね。顔が見えなくても笑顔を祈っているわ。

 愛を込めて      

 ヘマ』   

 私は小さく笑んだ。同じ想いを抱いている。寂しさも、心配も、恋しさも。その言葉の一つ一つが愛おしい。

 返事には同じくらいの想いを送ろう。言葉全てを選ぶようにしたためたい。

 大事にそのひやりとした便箋を折りたたんで、封筒に入れ引き出しにしまい込んだ。



 翌朝はエッボのところへ報告をしに行ったのだが、道中見かける騎士たちの顔は緊張しているようだった。

「何を警戒している?」

 誰にともなく問えば、白髪をくくった小柄な老人がてきぱきと動きながら、

「じき一日がやってきますでのう」

 と答える。はっとした。月は欠けていっている。

「……本当にあの男が現れると思っておるのか?」

 あれは約束を違えることなど何とも思っておらぬだろう。

 エッボは困り顔をする。

「第一王子殿下が静観を保っておられますからのう。いつ命が下るとも知れませんで、若いのはぴりぴりしておりますじゃ」

「なるほどな……」

 私は軽くうなずいた。どうりで馬たちの準備が万全なはずだ。

「どうなるかはわからぬが……エッボ、無理はしてくれるなよ。お前を頼りにしておるのだからな」

「ほっほ……承知しとりますじゃよ、殿下」

 かけた言葉に、老馬番は笑って返した。


 昼から後宮へ共に向かうはずだったのに、昼食に乱入者があった。これから開かれる文官の会議に提出する書類に関して、確認が取れていなかったのだという。

「すまぬな、ヴィン。先に向かって姫たちに謝っておいてくれるか?」

 と兄上は文官と立ち話を始めてしまった。仕方ない、伝令の役もするとしよう。

 カスパーを連れて後宮へ向かう。侍従長に通された応接室には、姫たちが揃っていた。

「お兄様!」

「あにうえさまっ」

 二人が飛びついてくる。私は二人を両腕に抱えた。

「戻ったぞ、私のかわいい姫たち」

 アルマはしっかと私の衣をつかんで、

「どこにいっていたのですか? ちっともかえってこないし、ははうえさまもおしえてくれないし、わたしはおこりました!」

 と愛らしくむくれる。その一つにまとめた柔らかな金の髪をなぜ、笑いつつ謝った。

「すまなかったな。だが、王宮では色々なことが起こるのだよ。こうして帰ったのだから許してはくれぬか」

 もう! と腰に手を当て、小さい姫はそっぽを向いてしまう。それを笑っていると、ジルケが気づかわしげに己の衣の胸のところをつかんで、

「お兄様……本当に大丈夫ですの? さいしょうが変わったのだと聞きましたわ」

 私は彼女の方を振り向いて、妹姫と同じように焦げ茶のさらりとする髪をなぜてやった。

「そうか、それは心配をかけたな。案ずることはない、新しい宰相のことは私も気に入ったのだよ。……そうだ、兄上に申し上げれば今度会わせてくれるかもしれぬぞ。言ってみるか?」

 薄紫の目をのぞき込んで言うと、ジルケは頬をゆるませる。

「本当ですの? わたしもお会いしてみたいですわ」

 その笑みがどこかはかなげで、目がはっきりと合わない気がして、私はふいに不安にかられた。どうしたことだ? 何かがいつもと違って、引っかかる。

 眉をひそめていると、アルマが元気に跳んで、

「そうですっ、一のあにうえさまは? 三のあにうえさまといっしょではないですか?」

 と聞く。私はふっと笑った。

「少し落ち着きなさい、アルマ。一の兄上はすぐにいらっしゃる、文官の用に時間を取られているだけだ」

「おちつけませんっ!」

 アルマは頬をふくらませて小さい腕を勢いよく振る。ついくくっと笑ってしまって、私は彼女を使いに出すことにした。

「では、ちょっと母君方のところへ行ってくるといい。もうすぐ兄上がいらっしゃるとお伝えするのだ」

「わかりました!」

 仕事を得たアルマはぱっと滑らかな頬を紅潮させ、戸を開け放して廊下へ飛び出していった。

「転ばぬように! あまり走るでないぞ!」

 その小さい背に声をかけたが、届いているやら。全く、と首を振りつつ部屋へ戻ると、ジルケが口を手でおおってくすくす笑っていた。やがて彼女はその手をゆっくりと降ろす。

 いや、そう見えただけかもしれない。私の目はその胸もとに釘づけになっていたのだから。

 銀の首飾り。大きな赤の宝石を、小粒の灰色をした石のようなものが囲んでいる。

 ——これだ。

 直観が告げた。これだ、——私の気にかかっていたものは。

「……? どうかなさいましたの、お兄様?」

 ジルケが首を傾げる。日の光に照らされた白い肌と淡茶のドレスの中で、その色がやけに不吉に映った。

「……ジルケ」

 急にのどが渇いたようだ。いや、まだそうと決まったわけではない。早まってはならん。ごくりとつばを飲み込む。不思議そうにしている彼女に問うた。

「……まだその石をつけておったのか?」

「え? ええ」

 彼女ははっとしたように石に手をやる。

「それは……いつ手に入れたものなのだ?」

 聞くと、ジルケは一瞬目を見開いて、

「え、ええと……おぼえていませんわ」

 細い手がきゅっと石を握り込む。わからん。私の能力は兄上の力ではない。兄上を待つべきか?

「そうか……。古いものなら構わぬのだがな、新しいものか?」

「え、ええ……」

 ジルケは言いよどむ。

「うーむ……いや、すまん、少し気になってな。事故が起こるかもしれぬという装飾品の話があってな、特徴が同じなのでどうも気にかかるのだ」

 私は少し気を落ち着けて、険しい顔をしたのを弁明した。姫は私を見上げ、

「そうなのですか……?」

「ああ。もしよければだが、触れてみてもよいか?」

 と笑ってみせると、ジルケは少しためらってから、ふれるだけなら……と石を私の手の平にのせてくれた。指を滑らせれば、何の変哲もない宝石に、たぶんまじない石だ。私はまじない師ではないからわからぬのがもどかしい。

「よくわからぬな……ジルケ、しばし外して、私に貸してみてはくれぬか?」

 とたん、彼女が顔色を変えた。薄紫の目がかげり、みるみる大きくなる。

 宝石をきつく握りしめて、ジルケは叫んだ。

「外すのはだめですっ!」

 常にない高い声。私は驚いて手を引いた。

「ジルケ? どうしたのだ」

 彼女は口を引き結び、くるりと身をひるがえした。風のように廊下を駆け抜けてゆく。

「ジルケ! 待ちなさい!」

 私は焦って叫んだが、彼女は足を止めなかった。ぽかんと口を開けた使用人や目を見張る衛士たちが顔をのぞかせる。

「誰か! その子を止めてくれ!」

 戸口に手をかけて言うが、ジルケはその間にも人々の間をすり抜け、廊下を曲がって姿を消してしまう。

「くっ……ぼうっとするな、彼女を追うのだ! カスパー、来いっ!」

 衛士たちに命じ、戸口に控えていたカスパーを呼んで走り出したが、もうどこに行ったかわからなかった。廊下の真ん中で途方に暮れる。

「なぜ……あの子はどうしたというのだ?」

 やみくもに周囲を見回す。後宮は騒ぎになっていた。そこかしこで人の声がして、風が届ける音も途切れ途切れだ。

 そして、裏庭から悲鳴が上がった。

「きゃあああ、殿下!」

「姫様あ!」

 私はすぐさま駆け出し、息を切らして裏庭へ出た。侍従たちが見上げる回廊の上の青い屋根に、淡い茶の色を見る。血の気が引くとはこういうことを言うのだろう。

「ジルケ!」

 その名を呼ばわった。ジルケは斜めになった屋根の上にしゃがんで、片手にしっかりとあの石をつかんでいた。

「何をしている……⁉ そこは危ない! 降りろ!」

 彼女には風の力もないのに!

 辺りには風がごうごうと吹いていて、他の人の声はかすれていた。追いかけてくれたのだろう衛士が二人、回廊の向こうの窓から手を差し出して呼んでいるようだが、その声も聞こえない。

 ジルケはじっとして動かない。

「ジルケ! 私が悪かった! お前の大切なものならば、決して取り上げなどしない。どうか降りてきてくれ!」

 その辺りの風を抑え込んで、声を張り上げた。ジルケがこちらを見下ろす。

「いやですわ」

 暗い声が返ってきた。

「一体どうしたというのだ……? 何があるのだ、ジルケ、その首飾りに」

 必死になって呼びかけると、彼女はぐっと息を飲み下すように胸もとを抑えて、

「わかりませんわ。わかりませんわ、あの人がお兄様ではないお兄様たちには」

「……二の王子のことか?」

 私は呆然と呟いた。兄ではない? 全く同じ親を持つわけではないということか?

 他の衛士たちが出てきて、はしごやらを持って寄ろうとする。

「近づかないで!」

 ジルケが叫んだ。皆ぴたりと動きを止めてしまい、辺りがしんとする。

「ジルケ! 頼む……」

 私は彼女のいる下の辺りへ駆け寄った。カスパーが草を踏み分ける音もついてくる。

「かまわないでください! もうわたしを放っておいて!」

 悲痛な声が叫んだ。

「わたしなんて、このまま消えてしまえばいいのだわ……!」

 胸が苦しくて、声も出なかった。私のおらぬ間に何があった? それとも、もっと前から? この子の内側にこんな苦しみが巣くっていようとは。

「ジルケ……お願いだから」

 私はそっと声をかけた。

「お前が消えてしまうなど、私にはたえられぬよ。わけを聞かせてもくれぬのか? 私ではお前の痛みを分かち合えぬか?」

「そんな……」

 揺れる瞳がちらりとこちらを覗く。

「そんなのは……無理よ。だって、わたしが……守らなければ……」

「何を……?」

 静かに問いかける。そこへ、急に足音が立って、兄上とジークが外へ出てきた。

「ジルケ……!」

 涼やかな声が震えて、姫の名を呼ぶ。

「お兄、様」

 ジルケが身をかがめた。その瞬間、突風が長い髪をなびかせた。彼女の体がかしぐ。

「……っ」

「ジルケ!」

 私は叫んで、夢中で両手を上へ差し出した。風を解放してしまい、上方へ風の塊が一気に流れる。

「きゃあっ」

 それが効いたのか、ふわ、とそのドレスが持ち上がって、私が腕にそれを収めたあとにどさり、と体が落ちてきた。

「……ぐっ」

 背後に私の騎士の熱があり、支えてくれたのだとわかった。ジルケは私の上に乗っていて、その目を一杯に見開いて固まっている。

「ジルケ! けがは⁉」

 私はがばと身を起こして、彼女の両肩をきつくつかんだ。ジルケが目をしばたく。

「あ、りません……」

「よかった……!」

 ぎゅう、と彼女を固く抱きしめた。ジルケの体は温もっていて、消えることなどなかったと教えていた。

「消えるなどと言ってくれるな……私はもうたくさんだ……!」

 心臓はばくばくとうるさくて、口走った言葉には何の思慮もなかった。耳もとでジルケが小さく息を飲む。

「……っ、お兄様……、ヴィンフリートお兄様……」

 愛らしい声が震えていた。

「ジルケ……! ヴィンフリート!」

 私たちを呼ぶ声がして、二人を共に包む大きな影があった。兄上は私たちを抱き寄せて離すと、傷がないのを確認して、

「神に感謝せねばな、今ばかりは……無事でよかった」

 とささやく。

「何があったのだ?」

 次ぐ問いかけに、私は迷ったがジルケを抱く手をゆるめた。首飾りがあらわになる。

「それは」

 目にした兄上ははっと息を飲む。そこで変なことに気がついた——影になっているのに、赤い石が明滅している。

「ジルケ……それを外せるか?」

 兄上が真剣な声で聞く。

「だ、だめです……」

「外しなさい」

 有無を言わせぬ声に、ジルケはもたつきつつも鎖を外した。宝石が兄上の手に落ちる。兄上がそれを持って立ち上がった時、宝石が大きくチカリと光って、辺りに赤の色をまき散らした。

「まずいっ」

 兄上が呟くのと、周囲でわっと人が騒ぐのが同時だった。兄上が手首をひるがえして石を遠くへ投げたのが見え、目の前が影になった。兄上が上着を広げて私たちにおおいかぶさったのだ。

 ぼっ、と炎が上がった。

 視界が赤く染まる。

「アレク様!」

 ジークの声。悲鳴。怒号。

 目を見開き固まる私に、兄上の鋭い声が言う。

「ヴィン! 火を消せ!」

 私ははっとして、ジルケを兄上の腕に預け立ち上がった。カスパーが私の前に立ってくれる。草むらの中心に炎ができて、風がびゅうびゅうとそちらへ流れていた。衛士たちがベストや靴で消そうとしているが、火は増すばかり。逃げ腰になっている。

「おい、お前たち、そこをどけ!」

 怒鳴ると、兵士たちは怯えた顔をしながらも、

「しかし、殿下」

「火を消しませんと」

 と踏み留まろうとする。

「いいからどけ! 窒息したいなら別だがな」

 言うと彼らは顔を見合わせじりじりと退いた。私は片手を上げ、ゆっくりと指を閉じていった。合わせて風がゆっくりと火の外へ流れていくようにする。空気がなければ、火は魔力を取り込めず消えるのだ。

 思う通りに火は消え、黒いくすぶりと細い煙だけが残った。再びゆっくりと風を自由にする。

 人々がざわざわとし出す。水を汲んできてそこを片づけてくれと命じて、兄上たちを振り返った。

「あ……」

 ジルケが怯えた顔で私の背後を見ていた。見る間にその目に涙が盛り上がって、こぼれ落ちる。

「うそだわ……こんな……こんな」

 彼女は呆然として呟く。

「こんな、ひどい……こんなことまでするなんて……!」

 ぽろぽろと大粒の涙が頬を伝う。

「ジルケ」

 そっとその前髪をかき上げるように触れると、ジルケは顔をくしゃりとさせた。

「ごめんなさい……ごめんなさい、お兄様……! わたしうそをつきました……!」

 彼女は顔をおおってしゃくり上げる。

「あれはお兄様に、ゲレオンお兄様に……いいえ、あの男にもらったのです……! やくそくなんて、守るべきではありませんでした……っあんな人との口やくそくなんてっ、ああ……!」

「二の王子に⁉」

 驚く私に、兄上が鋭く目を向ける。その目に答えるように口を開いた。

「確か……騎士団のための夜会で、あの首飾りをつけていたな?」

「っまさか」

 兄上が声をもらす。それからはっとしたようにジルケに向き直って、その体を抱え直して抱き上げた。

「もうよい、ジルケ。お前は何も悪くないよ。怪我がなくて幸いだった」

 ジルケは涙にぬれた顔をゆがめ兄上に抱きついて、

「いいえ、わたしが悪いのですわ、お、お守りだからって、ずっと身に着けていればっ、お母様を、守れるって……わたし、わたしが信じてしまったから……!」

「ジルケ、もうよいのだ。少し目を閉じなさい」

 ジルケは言われた通りにして、兄上の肩に小さな頭をもたせかけた。兄上は大きな手でその頭をなでてやり、運んでゆく。

 私はちらと振り返って、ジークが処理の指揮をとっているのを確かめ、兄上の後を追った。

 後宮の入り口に、長い髪を乱してかの方が立っていた。小走りにこちらへ来ると、ジルケが抱えられているのを見て、慌ててその髪をかき上げ、泣きながら眠ってしまった顔をのぞく。

「ジルケ……」

 娘の名を呟くと、ヤスミーン様は両手で顔をおおってうつむいた。

「申し訳もございません、殿下……あの子はなんてことを……!」

 清流のごとき声が波立つ。兄上は静かに返した。

「お話をさせていただきたい。私はもはや、彼を捕えなくてはならなくなるかもしれません」

 ヤスミーン様はただ頭を下げた。


 ジルケを橙の間のソファに寝かせ、兄上とヤスミーン様は隣の緑の間で対面した。私は引き戸が開かれたままになっている橙の間へ入って、勝手にクッションを引きずってきてジルケの顔が見える位置に寄りそって座った。

 青白い面に涙のあとがある。すうすうと小さい息の音が聞こえた。そっと手を伸ばしてその髪をなぜる。

 かわいそうな姫! 後宮を出たこともないのに、王宮の闘争に巻き込まれるとは……!

 ヤスミーン様が、兄上の問いかけに答えて口を開く。

「ゲレオンは、騎士団と共に帰った休息の日に、わたくしを訪ねて参りました」

 あの帰還の翌日だった。晩餐会でヤスミーン様に使者の不手際を糾弾された第二王子は、その謝罪と称して後宮を訪れた。やつは使者に後宮へ立ち入る者は制限されているという説明を与えておらず、使者は侍従長に追い返されてしまったのだという。

 侍従長から話を聞いたヤスミーン様は、使者の失態を言い訳に急な来訪をしようとしていたのではないかと推測し、夕食会でそれとなく釘を刺したのだそうだ。

「あの子の悪い噂は耳に入っておりました。帰都を先延ばしにしていると……。初めは、あれが尊敬する先王陛下の不実を聞き、宮へ戻って真実を目にしたくないのではと、心を痛めもいたしました。ですが、ほどなく違うものと思い至りましたわ。あれの帰都は遅くなりすぎていました。あれは、昔から、目上の者にただ従うということをよしとしない子です。わたくしは、第一王子殿下、貴方様を主と仰ぐことに童のような反発心を覚えているのではと、その次に心配いたしましたの……ですが……」

 後宮を訪ねた二の王子は、ジルケに導かれてヤスミーン様の部屋へ入ってきた。母上と大事な話がある、とジルケを追い出してしまうと、やつはこれから話すことは全て内密に、と告げた。

 己は第一王子に下る気はない。父王から資金をもらっていて、その金でヤネッカー候の家に滞在するつもりである。そこから先はどうなるかわからぬが、星が次の王を決めるだろう。

 そうした話を聞かされ、ヤスミーン様は、星を持ち出すなど戦でもするつもりか、今すぐやめよと忠告しようとした。

 しかし、やつはさえぎって、

「これらを口外などなさらぬよう。既に術はかかりました」

 術とは、と問うと、

「ジルケにはまじないがかけてあります。……母上だからお話ししたのです。一言も漏らさぬが賢明というものですよ」

 彼が去ってしまった後、彼女は娘を呼んだ。

「見れば、ジルケのしている首飾りに、まじないの跡がございました。それからジルケはあれを手もとから離さず、いつも手に握って、風呂の時まで外さないと侍女がわたくしに言いに来もしました。わたくしはジルケの好きなようにさせておやりと命じました……。わたくしは怖かったのでございます。何がまじないの引き金となるかわかりませんでしたもの。ジルケの手から首飾りが離れたら? わたくしがあれの言った企みに関わる言葉を口にしてしまったら……?」

 ヤスミーン様は声を震わせた。細い体が小さく震えているのを見て、私はジルケの横にそえた手をぎゅっと握った。

「わたくしは何としてもジルケを守らねばなりませんでした。……あの子があんな反心を抱いていると知った以上、わたくしに残されているのは娘だけだと思ったのです……ですから、第三王子殿下があれのことについて尋ねにいらした時、」

 私は顔をお二方の方へ向けた。兄上の使いでヤスミーン様を訪ねた時のことだ。

「わたくしはお答えすることができませんでしたの……どの言葉がまじないを至らしめるかと、口を開くことさえ怖かったのですわ。わたくしには、あれが言った一人が確実に死ぬことになるという方法がわかっておりました。あれが一言口にするだけで、ジルケが……」

 言葉が詰まる。

「……申し訳ございませんでした、殿下。わたくしの頭には娘のことしかなかったのです……」

 白い頬にはらはらと涙が流れる。

 兄上は膝の上に拳を置きじっと聞いていたが、慈しみの目をして言った。

「……ジルケを守ってくださったのですね。ならば、私は何かを言うべき口を持ちません。子を想う故のことに非難などできようはずもございません」

「……あの人は、」

 細い声にぱっと振り返った。ジルケが目を開けていた。薄紫に悲しげな色を宿して、彼女はぽつりぽつりと言う。

「わたしに首かざりをかけて、これをはだみはなさず持っているように、と言いました。これはお守りだと……。ずっと大事に持っていれば、わたしとお母様を、あぶないことから守ってくれると……。だれからもらったと言わないことがかんじんだと、言ったのですわ」

 その手が胸の辺りをつかんでいた。

「あの人が……夜会で、彼こそが王にふさわしいと言った時……あぶないのは、わたしではなくて、お母様だと思いましたの。あれを身に着けていれば安全なのではなくて、ぎゃくに、あれを身に着けていなければお母様が守れないのではないかと思って……」

 私はそっと小さい手に触れた。ジルケは私と目を合わせて、

「あの石があんなものだとは、思っていませんでしたの! 火をおこすなんて、わたしあの時、わたしだけではなくてお兄様たちまでねらわれたのではないかと……」

 細い指が私の手をつかむ。私はそっと握り返した。

「わたし……わたし、悪い子でしたの、お兄様。体を大切にしなくてはいけないって、お医者様も言うのに。わからないことは聞かなくてはと、先生も言うのに……わたし、己の身なんて、お母様を守れないならいらないと思いました。わたしだけが苦しいのだと思いました……わたしのほかにどうにかできる方なんていないと思っていましたの」

 ジルケは目をうるませる。

「ごめんなさい、アレクシスお兄様、ヴィンフリートお兄様……あんな人の言うことを信じてしまいました。かえってたいへんなことにしてしまって……お母様も、ごめんなさい……わたし、何もできなかった」

「ジルケ! どうか謝らないで……何もできなかったのはわたくしも同じなのですもの……!」

 ヤスミーン様の頬を止めどなく雫が伝う。ジルケは私に抱きついて、

「あんなことをしてごめんなさい、ヴィンフリートお兄様……助けてくれてありがとう」

 私は顔がゆがむのを自覚した。私の方こそ謝りたかった。どんなに長い間、この子に苦しみを負わせたか!

 しかし、ジルケが謝られることなど望まないことを私は知っていた。傷ついた心には温かさが必要だということも。

「もう、よい。私はお前が無事に生きていてくれるということで、お前も神々の冷酷も許そう」

 彼女の背に手を回し、その心の臓が立てるわずかな音に、血の巡る音に耳をすませた。ジルケを失わずに済んだというだけで、私は本当にそんな心持ちだった。

「ヤスミーン様……これ以外に、後宮に不審な気配はありませぬでしょうね?」

 兄上が冷静な声で確認を取る。

「ございませんわ。後は、人と自然と、王宮の方の星の気配のみでございます」

 ヤスミーン様は波紋のやまぬ水のような声を静めようとしつつ答える。

「では、後は私にお任せください」

 言い、立ち上がると、兄上はこちらの間に入ってジルケの髪をなぜ、小さな額に接吻を落とした。

「ジルケ、お前の言ったことはお前の責任ではないよ。お前が母君を守り通したのだから」

 それでもジルケはごめんなさい、と小さく言う。兄上は苦いものを含んだ笑みを見せ、

「……そんな顔をしないでくれ。お前たちにそんな顔をさせているようでは、私など何の価値もないのだよ。……今は、後は私たちに任せて、ゆっくり休みなさい」

 と軽く焦げ茶の頭に手を置くと、間を出て行った。ヤスミーン様にもどうか休まれてくださいと声をかけ、廊下へ出てゆく。私はどうしたものかと思っていると、兄上の声が呼んだ。

「ヴィンフリート、少し来なさい」

 私はジルケをそっと横たわらせ、寝ていなさいと言いつけて廊下へ出た。

「ヴィン、二人が落ち着くまでここにいてやってくれ。ただ夕餉には戻りなさい。私はもう一度王宮へ出る」

 兄上が厳しい顔で告げる。

「どうなさるのです?」

「私は星の丘へ行くことにした」

 きっぱりとした声。

「アレク様⁉」

 控えていたジークが声を上げる。しっ、と兄上は鋭くたしなめてから、

「ヴィン、実を言えばな……私は後宮を疑っていた。二の王子が反旗を翻す前に、人目につかず訪れた最後の場所だ。仕掛けがなされているとか、ヤスミーン様やジルケが利用されているとかいった可能性も考えたのだ」

 私はこくりとうなずいた。

「だが、ヤスミーン様のお話を聞けたことで、疑いは晴れた。あの方には嘘も隠し立てもない。……そして、二の王子についての証言の裏も取れた」

 兄上が言葉を続ける。

「あれが如何様にしてことを成そうとしているのか、わかってきたようだ。成される前に止めねばならぬ。本当に星の丘に現れたなら、正攻法でも策を弄してでもあれを捕える。……ジーク、首飾りは回収してきたな?」

「はい、ここに」

 ジークは袋を持ち上げた。

「これが解析されれば、十分な証拠品となる。ヴィン、よいか? 王子の一人が会議で決められたことに反対して、諸侯の土地に逃げ込んだからといって、罰することはできぬのだ。殊に我ら三人は、今のところ対等な身分。先の宰相にお前がしたように、臣下が王家に反逆したといって捕えることもできん。……だが、この首飾りにかけられたまじないがあれの命によるものと判別されたら、不当に、理由なく、幼子の命を狙ったという明白な罪が見えるわけだ。加えて武具を集めている証拠も得ているから、この首飾りと合わせて内乱を起こそうとしたものと認められたら、あやつの王位継承の正当性は全く消える。……私は理由を得たのだ、あれを捕え罰する、な」

 第二王子は捕えられねばならない。そして、罰せられねばならない。

 兄上を止める理由はない、と私は悟った。

「どうか、準備を万全になさってください。あやつがまことに姿を見せるか、星が使われるのかもわかっておりません。御身の無事だけは」

「そうしよう。戻るぞ、ジーク」

 兄上は一つうなずくと、上着をひるがえして立ち去った。ジークがそのすぐ後をついていく。

 橙の間に戻ると、ジルケの横にヤスミーン様が膝をついていた。私はヤスミーン様にクッションを使うよう押しつけた。ジルケの半分閉じられた目をのぞき込む。

「何かほしいものはないか、ジルケ? 取ってこさせよう」

 そっと手に触れると、彼女は私の指を取って、

「もう少し……このままでいてください」

「もちろん」

 冷えた指先に熱の伝わるよう、彼女の小さな手をくるむ。

「……お兄様の手は、温かいですね……」

 ジルケはうとうとと呟いた。

「そうか?」

 前に、ヘマにも同じことを言われた気がするな。少し微笑む。じっとそのままいると、いくらかしてまぶたが落ち、呼吸が規則正しくなった。寝入ったのを確かめて、そっと手を離す。

「ヤスミーン様もお休みになってください」

 と私はかの方を見上げたが、彼女は小さく首を振る。仕方ない。

 私は立ち上がって侍従を呼び、毛布やら水差しやらを持ってこさせて部屋を整え、それからカーリン様をお呼びしてもらった。

 カーリン様は赤の間にいらしたそうで、私を見ると一礼して、

「殿下……起こったことは聞きましたわ。あの子が怯えてしまうといけませんので、アルマは眠らせてしまいました」

「それで構いません」

 私はヤスミーン様とジルケがすぐそこの間にいて、ヤスミーン様はお休みになり難いようだから、様子を見て差し上げてほしいと頼んだ。

「わかりました。わたしの力がお役に立つかもしれませんし」

 とカーリン様は受け合ってくれる。

 降の鐘を聞いたので、私はジルケとヤスミーン様にあいさつし、カーリン様に後を頼んで、内宮へ戻った。

 兄上は例のごとく夕食に遅れた。これだから兄上は……! まあ、エルヴィラ様に叱られていたのだが。

 せっかくの料理長の味付けも、心が離れたところへ飛んでいってしまうので、何だか味気なく感じた。



 起きて朝食を取る頃には、すでに兄上は内宮にいなかったので、私は早足で執務室へ向かった。が、扉の前に立つベンノがあいさつして言うには、

「一の殿下は近衛の騎士団長と宰相閣下のところへ向かわれましたよ!」

 それで結局オイゲンを訪ねた。

 王宮全体がざわざわとしている気がする。丘へ向かう際の策を練っているのだろう。人々は興奮し、不安げにささやき合っている。

 宰相室の戸は開いていたが、兄上は腕を組み、ヘンドリックは背後に腕を回して直立し、オイゲンは謎の書類の束を抱えて、男三人が無言で考え込んでいた。

 ……この中に入っていくのは若干勇気がいるな。

 私は軽く戸を叩いた。兄上が振り返る。

「ヴィンか。どうしたのだ。執務室にはベンノがいただろう」

「いえ、資料室のことではなくて」

 ジルケの様子を見に行きたい、と告げる。今日の勉強は置いておいてもいいだろうか、と。あのまま放っておくのでは、気にかかって頁もめくれぬ気分だった。

「……そうか。後で見舞おうかと思っていたが、それなら、お前が見舞いの品を持っていってやってくれぬか? こやつらを説得して兵をまとめさせるのに時が入り用でな」

 兄上は、エルヴィラ様を訪ねるように、と言った。

 皆厳しい顔をしている。兄上は意志を貫こうとするだろうし、どう守るかを考えればよかろうに。……いや、それゆえか?

「兄上……貴方様は次代の王なのですから、臣下が命を聞くべきことも当然でございますが、御身の安全が第一であるのもまた当然のことでございますよ」

 つい口を出してしまった。この方は、己が傷をいとわないところがある。私たち弟妹はいつも、兄上を慕いながらそれを心配しているのだ。

「……姫たちを泣かせるようなことは、さけてくださいませ」

「わかっているよ、ヴィン」

 兄上は苦笑いするようにして、軽く私の頭に手をのせた。しばし兄上を見上げたが、結果は変わらぬと知っていたので、失礼いたしますとだけ言って退出した。

 内宮へ戻り、王妃の部屋の戸を叩く。私や兄上の寝室とは反対の側にあるこの部屋は、今は空の王の部屋の隣にあった。

 侍従が出てきて用を問う。兄上の使いだと答えると戸は一度閉められ、少ししてエルヴィラ様が小さい籠を手に現れた。

「ヴィンフリート、二の妃様と王女殿下にわたくしからも見舞いを、とお伝えして」

 私はそうしましょうと受け合い、後宮へ向かった。


 侍従長が、ヤスミーン様がジルケの世話をして緑の間にいると教えてくれた。黄土色の髪をした若い侍女に案内される。

 ジルケは若葉色のソファに毛布にくるまって座り、横の一脚の木椅子にヤスミーン様が腰掛けていて、敷物の上でアルマが手まりをしていた。

 幼い姫はふと顔を上げて私を見ると、ぱあっと笑顔になる。

「あにうえさま!」

 腰の辺りに飛びついてくる彼女を抱きとめ、籠を掲げて部屋に入った。ジルケが小さく笑む。

「お兄様」

「兄上とエルヴィラ様からの使いだよ。これをヤスミーン様とお前たちに」

 ソファの前の低い卓に籠を置き、ふたをしてあった布をめくった。アルマが目を輝かせてのぞき込んでくる。中には果物や焼き菓子、小さな果実酒の瓶などが入っていた。ヤスミーン様が受け取って、

「あとでお茶に出してもらいましょう。さ、殿下、そちらにお座りになって」

 私はすすめられるままジルケの隣に座り、話しかけた。

「ジルケ、体は大丈夫か?」

「ええ。……お母様もアルマも、ずっといてくれますの。お医者様はもう少しお休みしなさいと言うけれど、もう起きていていいと思いますわ」

 と彼女はいつもの控えめな笑みを見せる。昨日の不安にさせるような色はもうなく、私はとりあえずほっとした。

「あにうえさまがきょうもきてくれるなんて! あのね、わたしきのうはいつのまにかねてしまったの。せっかくなのに会えなかったとおもいました!」

 アルマがはしゃいで言う。

「でも、あねうえさまのぐあいがよくないっていうから、おそばにいることにしたの! わたしはもう八つだから、さみしいなんて言わないのですっ」

 純真な言葉に私は顔をほころばせた。

「偉いな、アルマ。この兄が来たからには今日はもう寂しい思いなどせずにすむぞ」

 ほめるとアルマは嬉しそうに膝に飛びついてくる。……この子も心の中では寂しいのだ。胸が痛むのを笑みの下に隠した。私にはこうして訪ねる以外、何もできん。

「そうですっ、あにうえさまは三回もおつとめにこなかったのですから、もうそんなことしてはいけませんっ」

 アルマの愛らしい叱り方に、私ははは、と笑って、

「悪かったよ。許しておくれ、かわいい姫」

「そうだわ、お兄様、何日もどこへいらしてたのですか?」

 とジルケが問う。

「ハイスレイ領に。しばらく宮を出ていたのだ」

「ええ! 一人で⁉」

 アルマがどう勘違いしたのか目を丸くする。母上と、ということがもうないとはいえ、王子が一人で宮を出られるものか。

「そんなわけがなかろう。新しい宰相と公爵が協力してくれたのだよ」

 苦笑する。姫たちは顔を輝かせて、

「お兄様……そのお話をしてくださいませんか? ここでおとなしくしているだけでは、楽しくありませんもの」

「さいしょうとこうしゃくってだれですか? どんな人ですか? あにうえさまはその人たちとおはなしした? いっしょになにかしましたか?」

 姉姫のつつましやかな願いと、妹姫の矢継ぎ早の質問。私は笑い出してしまった。新しい経験がさっそく役に立ちそうだ。

「二人して外の景色がお望みと見えるな。下手な話でよければしてやろう」

 先の旅を思い起こし、最初から語り出した。

 オイゲンと一つの馬車に乗り、彼が学者だという話を聞きながら過ごしたこと。趣味のいい宿に泊まって、ジルケも気に入りそうな夜の灯火の美しいのを見たこと。たどり着いた館にはナターリエのような古い友人も、オリヴァーという新しい主もいたこと。

 オイゲンが孫をほしがっておじい様と呼ばせたがった話にアルマはきゃらきゃら笑い、美しい火に照らされた夜の風景にジルケはうっとりとした顔をした。

 姫たちが楽しめるよう、余計な、暗かったり悩んだりする話は省いた。私は私の話がしたいのではなく、見てきた外のことを聞かせてやりたかった。

 昼になっても、姫たちが

「もっとおはなししてください!」

「もう少しいてくださいませんか?」

 と引き留めるので、昼食を共にさせてもらった。

 お茶もはさんで、話は昇の刻が終わるまで続いた。がらんとした引っ越し直後の館を探検し、絵の山を発見したこと。館の庭はマルレン様式で、噴水があること。ホインという気立てのいい馬と友になったこと。領主館に立ち入り、街を駆け抜け、民の音を間近に聞いたこと。りんご畑の収穫を見に行って、二人と同じくらいの子らが手伝っていたのを見たこと、もらったりんごが美味かったこと。オリヴァーの気に入りだったという本に出てくる鳥を探して森へ入り、湖で遊んだこと。別れに際し、絵を勝手に飾って礼としたり、逆にりんご畑で話した少年から土産をもらったこと。ナターリエの、夫から手紙が来て帰ることにしたという、大人の恋の話。また都へ戻った時街の建物が見え、貴族街にも入ったこと。

 姫たちの質問にも答えながら、二人が満足ゆくまで話してやっていると、そんなに時間が経ってしまったのだった。

 ジルケは小籠の話が気になったらしく、

「わたしも見てみたいですわ。アルマくらいの子が作れるなんて、知りませんでした」

 と言っていた。私は明日持ってきてやろうか、と約束をしてしまったので、明日も何とかして暇を作り出さねば。

 アルマはお茶の後うつらうつらしてきてしまって、ついにはまぶたが落ちた。ジルケも最後にはうとうととしていたので、肩を貸すと、すとんと眠りに入ってしまった。

 部屋には夕日の穏やかな光が差し込み、姫たちの寝顔を優しくなぜていた。私は二人の眠るさまをじっとながめ、寝息に耳を傾けていた。やがて侍女とヤスミーン様が入ってきて、私たちを見ると微笑みを浮かべ、二人を抱き上げて運んでゆく。私を見送るヤスミーン様が言った。

「随分と久しぶりに、ジルケが声を立てて笑うのを聞いた気がいたしましたわ。……ありがとうございます、殿下」


 次に起きて食堂に歩み入った時、私は驚いて足を止めた。兄上が難しい顔をして朝食の席についている。

「おはよう、ヴィン。丁度よかった、お前に話しておきたいことがあってね。朝餉が済んだら宰相のところへ共に来てくれるか」

 私はいつもよりは急いでパンを口につめたが、その間中兄上は眉根を寄せて何か考えにふけっていた。

 話はあの首飾りのことだった。オイゲンが手配した学者やまじない師のざっとした調査によると、あのまじない石は火のまじないの他にも様々な術がかかっていたそうだ。

 ジルケ以外の魔力に多く触れると、魔術が発動するようになっていたようだと——なるほど。

 ヤスミーン様が言ったように、二の王子めはあの場でジルケに首飾りを外して誰かに渡せと命じれば、彼女の肌を火に触れさせることができたであろう。そしてジルケが考えたように、私や兄上があの石を取れば、他の王位継承者を傷つけることができたはずだ。

 あの明滅が始まったのは、私の風の魔力がもろに彼女と石を包んだせいか。兄上が手に取ったことでまじないは姿を現したのだ。——ぞっとした。

「……石のことを聞いておいてよかったな。あの手の魔力制限のまじないは、星を除けば他に見たことがない。対処できたのは幸運だったな……後宮にも手を入れておくべきだった」

 と兄上が呟く。

 あと少しで取り返しのつかぬことになるところだったのだ。あの男は何を考えていたというのだ? 妹をそのように利用するなど!

 怒りと恐ろしさに指先が震えるのを感じ、私はそっと手を袖の中に隠した。

「兄上……明日、本当に星の丘へ行かれるのですか」

 丘にも何があるかわかったものではない。兄上の魔力が関わることもあるかもしれん。

「行く。例えあれ自身を捕えられずとも、証拠は必要なのだ。危険に怯えて手を出さずにいるべき時ではない」

 兄上はきっぱりと答える。控えるジークら近衛が固い顔をしていた。

「貴方様の策もお気持ちもございましょう、止めはいたしません。ですが、どうか爪の先までも慎重に行動なされますよう……」

 私は言ったが、かの方の決心を変えることはできぬと知っていた。

 聖曜日なのに文官が何人もおり、騎士らと同様ぴりぴりとしていた。ハルトムートと兄上、それにジークらが議論するのを後に、退出する。


 久しぶりに料理長を訪ね、昼食前の忙しい時だったので慌ただしく短い歓迎をされ、クッキーの袋を分けてもらった。

 自室で簡単に昼食を取り、籠と袋を手に後宮へ向かった。今回の近衛はカスパーではない。今頃モニカと逢い引きでもできているとよいのだが、騎士団長に使われているかもしれん。誰にも余裕がないのだ。

 ジルケはヤスミーン様と今日も緑の間にいた。カーテンが開いていて、アルマが外で遊んでいるのが見えた。

「約束通り、持ってきたぞ」

 喜ぶジルケにあの小籠を手渡す。ヤスミーン様には手土産を渡し、すすめられるままジルケが丸まるソファに腰を下ろした。彼女は籠を指でなで、ふたを開けてみ、光に透かしなどして一通り観察すると、

「これには何を入れますの?」

 と聞いてくる。

「さあ……何にしようか。そうだ、お前ならよいものを思いつくかな?」

 きらきらした瞳に私は目を細めた。ジルケは楽しげに、

「わたしだったら、小物を入れますわ。髪かざりとか、くしとか……あ、でも、お兄様はそういうのは持ってないですものね。耳かざりでは、これ、きれいだけど目があらいから、失くしてしまいそうですし……ハンカチとか?」

「ああ、それはよいな」

「これ、とても温かいですもの。きっと温もりのありそうなものがにあいますわね。……想いがこめられたのでしょう、そういうものは、温かな魔力を帯びていますわ」

 優しく姫は籠を見つめる。

「やはりお前はいい目をしているよ、ジルケ」

 微笑んで答える。と、彼女はじっと私を見つめ、

「……お兄様……どうかなさいましたの?」

「え?」

 私は目をまたたかせた。

「くらいお顔を……していらっしゃいますわ」

「……そうか? そんなに疲れたように見えたかな」

 心配そうにする彼女をはぐらかそうとする。重い話を伝えようと思ってきたわけではなかったのに。

 ジルケは少しうつむいた。

「……わたしには知らせられませんか?」

 ぽつりと小さな声が問う。

「わからないままは……つらいものですわ」

 私は目を見開いた。

 ——知っていた。この子もまた、その母と同じように強い子だと。……あなどられるべきは私の方だったか。

 ちらとヤスミーン様を見やる。かの方も覚悟を秘めたまなざしでうなずかれた。

「そうだったな……すまん。私は相変わらず目を閉ざしていたようだよ」

 ふ、と息を吐く。初めて受けた時には知らなかった。この役目は重いものだ。

「兄上は星の丘へ行きなさるのだ。……あの石にかけられたまじないがわかったからと言っていた」

 魔力に関わるまじないだったこと。最初は、ヤネッカー候領の細工師の間違いがもとだったのだろうということを伝える。

「そうでしたの……。わたし、助かって、本当に運がよかったのですわね」

 ジルケは肩にかけた毛布を引き寄せ呟く。

「ああ。……私にはわからぬよ、お前は確かそう言ったが」

 私は目を伏せ、独り言のように言った。

「私たちとあの男と……何が違ったのだろうな」

 ヤスミーン様が膝の上の手を握るのを、視界の端に捉えた。

「お母様?」

 ジルケが顔を上げる。

「……あの子は、陛下の子ですわ」

 ヤスミーン様は低く言った。

「陛下のことばかりを見て……。殿下……どうか第一王子殿下にくれぐれもご注意をと、申し上げてくださいまし。この上あの方にまで危険が及んでは、宮は揺れますわ……」

 かしこまりました、と私は応えたが、その言葉の真意は測れずにいた。

 陛下の子。……私は……母上の子だった。

 それぞれ想いに沈んで、部屋はしんとした。外から、アルマのかすかな笑い声がする。

 ……姫たち、妃様方を守るための後宮であるはずだった。本当にそうなのだろうか? 後宮に閉じ込めるようにして、限られた情報しか与えず、それでジルケの苦しみを見逃したりして!

「……私は時々、後宮はもっと開かれているべきだった、と思うことがあるよ」

 口に出してみると、ジルケは聡い光を宿す目で、

「わたしも、そう思いますわ。……いいえ、もしかしたら、もうとざす意味はないのかもしれません」

 私は不意を突かれた気がして彼女を見つめた。

「……そうか」

 確かに……閉ざすことで得られたはずの利は、もうここにはない。ならば……?

 アルマとも遊んでやり、夕刻には後宮を辞したが、私はずっとそのことを考えていた。



 しきたりも、約束も。守られるべきもの……そうであるのに、片や我らを固く縛り、片や簡単に破られる。

 しきたりに囚われるか、改革を志すか。約束を守り通すか、打ち捨てるか。どちらがよいのかは明白であるはずだった。

 ——正門前に近衛兵の一隊が列を連ねていた。命があればいつでも出られるよう整えられた態勢をして。空を灰色の雲が一面におおい、細い数条の光だけが隙間をついて、連なる丘のところどころを白く染めていた。

 兄上は玄関広間に乗馬服を着て立っていたが、私はついてゆくことを許されなかった。オイゲンに捕まえられ、宰相室の木椅子に座らされている。せめてと思って扉を開け、先ほどまで廊下から見ていた光景に想いをはせながら、じっと耳をすましていた。

 戸の向こうの文官たちも、今日は口数少なく落ち着かない。仕事が手につかぬのを、オイゲンもダーフィトも叱ろうとはしていなかった。

 ハルトムートが一番手前の窓を開け放ち、外を見ているのが目に入る。私はそこへ行きたくてじりじりしていたが、オイゲンの目が光っているのだった。

 口に入れたはずの昼食の味など覚えがなく、夕食を取ることなど考えつきもしなかった。降の鐘が鳴っても、誰もその場を動こうとしなかった。

 兄上の命はまだのようだった。きっとあの鋭い目線で丘を見すえているのだろう。

 やがて日が暮れたのか、部屋が薄暗くなり、門の方から灯火を持て、という声が聞こえるようになった。文官たちの方では皆私と同じように耳をそばだて、火も灯さなかった。

 そして命が下る。騎馬隊の去る音が耳に届いた。ぼんやりとした暗さの向こうに誰かが呟く。

「水の神よ、この国の流れを違えさせたもうな」

 私は勝手に椅子を持って立ち上がり、ハルトムートの横に腰を下ろした。影の中で黄緑の目が驚いたさまでこちらを見やる。

 見つめ返し、私たちは同じ結論を得た。そろって窓の外を向く。天を雲がおおい、月がなく暗い夜空に輝いているはずの星は、ちらほらとしか見えなかった。

「……星がない」

 呟いて、そっと窓の外に手を伸ばす。夜の空気はひやりとして冷たかった。ぐっと風を引き寄せる。

 蹄が地を蹴る音が届く。人馬の群れが一体となり、この連なった丘々の最も北にある星の丘へ、一直線に走っているのが伝わってくる。ぞくりと肌が泡立った。

 しばらくして音が少なくなってゆく。隊が足を止めたのだ。吐息や馬の身動きする音、吹く風の音の中のかすかな声に、懸命に耳をこらす。

 途切れがちに、求めた声がした。

「……り……」


 ◦◦◦◆◆◆◦◦◦


「やはり、あれは来ておらぬようだな」

 アレクシスは眼前の星の丘の頂を見つめ、言った。彼の忠実な騎士が不安そうに告げる。

「殿下、そう前へ出なさるものではありません。私が先鋒へ参りましょう」

「そうはいかん。先から何度打ち合わせた?」

「アレク様!」

 側近は焦ったように主の名を呼んだ。アレクシスは落ち着いて彼を振り返り、

「いきなり襲われることはなさそうに見えるがな。だが……そうだな、一度様子を見てきてもらおうか。斥候を出せるか、シャウエテ騎士団長」

「はっ、支度はできておりますれば」

 金髪の偉丈夫は馬上で右手を胸に当て騎士の礼を示すと、その手を振り兵の幾人かを丘へ向かわせた。

 身の軽そうな兵士たちは背の高い草と夜闇に紛れてするすると丘を登り、すぐに戻ってきて報告するには、

「この周囲に、我らの目の届く限り、他に人影はございません」

 アレクシスが一つ息を吐く。落胆とも安堵ともつかぬそれはすぐに消え、彼は星の指輪をはめた手を振り、命じた。

「松明をもつ兵は私たちの後ろにつけ。ジーク、ヘンドリック、私のすぐ後をついてこい。……何があるかわからん。決して私の前には出るな。一歩ずつ馬を進めよ」

 騎士たちは彼らの王の命に従い、ゆっくり、ゆっくりと道を進んだ。心の臓の痛くなるような時間が過ぎ、丘の頂上に到着する。

「……何も起こらぬな」

 と王子は呟いた。背後の騎士たちの緊張が彼の背に伝わっていた。彼は振り向こうとした。

 ふいに、雲が切れた。星の丘の上にだけ、幾百もの小さな輝きが黒の上に散った、星空が現れる。

 ちかりと、アレクシスの右手の星が、その小さな光を反射したかのようにまたたいた。

 ごっ、と、この世ならぬ風の音がした。アレクシスはとっさに馬首を返し、長い上衣が空中に揺れ、その端に切れ目が入った。

「アレク様!」

 ジークベルトが叫び、その身を主であり親友である男の前に晒す。その右腕を見えぬ刃が切り裂き、鮮血が散った。

 アレクシスが目を見開く。

「……ジーク!」

 悲鳴が夜を裂いた。


 ◦◦◦◆◆◆◦◦◦


「……ジーク!」

 ひどい風の音がして、届いた悲鳴が兄上のものだとわかった瞬間、私は椅子を蹴って立ち上がっていた。

「ジーク……⁉」

 何があったのだ⁉

 見えもせぬとわかっているのに、いたずらに窓の外に身を乗り出し、丘の方角へ顔を向けた。一心にそちらへ集中したので、風が引き寄せられて切れ切れに声を届けた。

「……隊列を崩すな!」

 ヘンドリックのとどろくような声。

「駆け……ろ!」

 どっと駆け足の音に何も聞こえなくなる。やきもきしてぎり、と奥歯を噛みしめると、

「殿下! 第三王子殿下、何事です⁉」

 ハルトムートが強風にあおられる髪をおさえて問うてきた。はっとして風を弱める。

「今……兄上の声がした。ジーク、と」

 応えはまとまっていなかった。それだけ告げて、また風を引き寄せる。

「……こやつを……ゆけ! 他に怪我……は⁉」

 兄上の声だ! 私はほっとして視界がにじみそうになった。

「ございませぬ、殿下!」

 ヘンドリックのよく響く声が応じる。

「ここは封鎖だ! ——、宮へ戻るぞ!」

 再び騎馬の大きな音。

「殿下」

 強く肩をつかまれて、振り向くとオイゲンが立っていた。

「殿下、どうなさいました? 第一王子殿下に何かございましたか?」

 彼の落ち着いた声に、私はやっと息を止めていたのに気がついた。すう、と息を吸い込む。

「あ、兄上は……兄上はご無事だ」

 心臓がばくばくと鳴っていた。知らず衣の胸の辺りをきつくつかむ。

 兄上の無事に、皆の緊張に安堵が混ざったが、私はそれに気づいても動揺が治まらなかった。

「だが、ひどい風が……たぶんジークが傷を負ったのだ。きっと今から隊が戻ってくるはずだが……何だ、あれは、あんなひどい……!」

 聞いたこともないような音だった。——風が、泣き叫んでいた。

「殿下、落ち着かれてください」

 オイゲンが私の肩に手を置き、暗青の目がこちらをのぞき込んだ。

「負傷したのは、一の殿下の近衛のフォレーヌ殿ですね?」

「あ、ああ……たぶんそうだ」

「では、迎えるように指示を出しましょう。お前たち、誰か一人、武棟へ走ってくれ」

「はいっ!」

 若い侍従が飛び上がって、走り出してゆく。

「殿下、その他に損害は?」

「……ない……ようだった」

「では、大丈夫です。一の殿下はご無事であらせられる。失われた命もございません。問題ありません。王宮の治癒師は優秀です」

 オイゲンが言い聞かせてくる。心臓の音は次第に治まっていった。こくりとつばを飲む。

「……わかった」

 うなずいてその目を見返すと、オイゲンは手を離した。ハルトムートがこちらを気づかわしげに見つつ、問う。

「今のは、殿下のお力なのですか?」

「……ああ。私の風は、音を運んでくれるのだ。だが……」

 私は口をつぐんだ。

 今のは、風の魔術だった。それも恐ろしく残虐な! ジークは、兄上は本当に無事なのか?

 騎士隊が戻り、人の声がわっと起こると、私はすぐに玄関へ走り出した。オイゲンとハルトムートもついてくる。

 金の髪を乱し、上着も整えぬ格好で、兄上がこちらへ歩いてきていた。

「兄上!」

 その膝もとへ駆け寄ると、兄上は息を整えながら、

「ヴィン? まだ残っておったのか。大人しくしていなさいと言ったはずだが」

「こんなことがあって、大人しくしておれますか!」

 思わず叫ぶと、兄上の顔に苦い笑みがひらめいた。兄上は軽く私の頭に手を置いて、

「悪い。——オイゲン、お前まで来たのか。まあ都合はよいな、ヘンドリック! こちらへ! そこの、王宮騎士団長を呼んで来てくれ」

 次々と指示を出し、重臣たちと会話しながら奥へ歩いてゆく。

 私はその背を見送って、小さく拳を握った。……私など、何の役にも立たん。知っていても、悔しく、己に失望しそうだった。

 帰ってきた近衛たちは殺気立っており、ぞろぞろと兵舎へ戻ってゆくのにも近づき難い。どうしようかと途方にくれて、はっとジークのことで確かめねばならぬことがあったと思って、兄上を追った。

 声をかけようかというところで、兄上が臣たちから離れ、回廊へ出てゆくのが見える。私は慌てて残っていたオイゲンに問いかけた。

「兄上はどちらへ? ジークは?」

「おや、まさにその者に会いにゆかれるとおっしゃっていましたが」

 とオイゲンは言う。礼を言う間も惜しく、ありがとう、と言うと同時に駆け出して兄上を追いかけた。しかし兄上は強行軍のごとき早足で、ともすると姿を見失う。その上入った武棟は変わらず複雑だった。四つ角でしまいには影も見逃してしまって、きょろきょろとしていると、背後から足音がした。

「! ……ハルトムート」

 栗毛の若い文官が後をつけてきていた。彼も兄上のことを案じているのだろうか。私は彼を見上げ、

「あの、救護室はこの方で合っていたかな」

「そうですね……左の方では」

 ハルトムートは自信なさげに通路を指差す。そうか、こやつもここへ来てまだ数週だった。慣れぬはずだ。

「確かそうだ」

 私はうなずいて見せ、彼を引き連れて廊下を進んだ。

 記憶は正しく、救護室前の廊下にたどり着いた。そこへ扉から医師の白い衣を着た男性が放り出されるところへ出くわす。

「えっ……メルツェー殿」

 王宮付き医師の名を呼ぶ。彼は顔を上げると、私を見てくいと片眉を上げた。

「おお、第三王子殿下」

「兄上を追ってきたのだが……ジーク、負傷した近衛兵はここか?」

 問うと、彼は衣のほこりを払いつつ、

「ええ。ですが、只今追い出されてしまったところでしてね。入らぬ方がよろしいかと……」

 と歪んでかかっていた眼鏡を直す。普段救護室などめったに行かぬので知り合いという程度なのだが、この医師は話し好きだ。

「そうなのか? では、貴殿に聞きたいのだが」

 逆にここで聞く方が早いかと思って話を切り出そうとした時、

「——馬鹿者! 前に出るなと言っただろう!」

 戸の向こうからくぐもった怒声がして、私たちはぴたりと動きを止めた。

 兄上か? どういうことだ?

 風に耳を傾ける。はっきりしない声が続いた。

「……ございません、アレク様」

「何故あんなことを。言っただろう、あれが仕掛けを用いるなら、私の魔力に関わるものであろうと。ほんの一歩で起こるものなら身を引けばよいだけ、私を庇うのではなく引き戻す用意をしておけと言ったではないか」

「はい……」

「どうしてあのような考えのないことを、ジーク」

「……」

 声が途切れる。

 ジークは兄上の命を聞かなかったのか? あのジークが?

 首を傾げつつ、医師に問いかける。

「ジークの傷はどんなものなのだ? 手当ては?」

「ああ、右腕に裂傷を負っておられますね。それ程深くはありませぬよ。薬と包帯で手当てを致しましたが」

「湿布は?」

「え?」

 え? はこちらの台詞だ。

「だから」

 言おうとした時、再び声がする。

「ジーク、答えてくれ。私は幾度も考えてあの結論を出したのだぞ。お前たちにもその頭に染み込ませるよう何度も注意したというのに」

「……」

「お前の軽率な行動のせいで、お前が……よいか、こんなことで私は無二の親友を失うところだったのだぞ! 答えぬか!」

「……すみません」

「ジーク!」

 また怒鳴る声。

 これはちょっと……まずいな。兄上は、ジークのことを想うあまり、彼を追いつめていることに気づいておられぬようだ。

 眉をひそめて、私はもう一度医師に聞いた。

「魔護の湿布か、薬は?」

「へ、ええと……使用しておりませぬが」

「……はあ⁉」

 私までも叫んでしまった。何ということだ、これは私も説教に乱入すべき流れだな⁉

 勢いよく救護室の戸を叩き、思いきり戸を開ける。寝台に寝かされていたジークとその傍に立つ兄上が、目を丸くしてこちらを見た。

「失礼します! メルツェー殿、」

 医師の背を無理やり押して部屋へ入れる。

「貴殿は前々から魔術の探知は不得手なのだから、誰か一人挟まぬか! 外での負傷なのだぞ! あれはまじないどころではない、のろいだ! 急いで取ってこい!」

「へえ⁉ は、はいっ」

 医師はよろよろしながら奥へ消える。私は振り向いてジークをにらみつけ、

「ジーク! お前もだ!」

「はい⁉」

 騎士は反射的に姿勢を正そうとする。たくましい右腕に巻かれた痛々しい包帯が目についた。

「なぜ魔術にやられたと言わん! わかっておったろう、あの風に込められた悪意を? 呪いにやられて清めもせぬとは、私が来なければどうなっておったことか……」

 ぶつぶつ言っていると、兄上が厳しい顔をして、

「ヴィン、あれが呪いというのはまことか?」

「ええ」

 私はうなずいた。

「私はまじない師ではございませぬゆえ、正確なことは申せませぬが……あのような風の音、は……初めて聞きました。あの風は泣いておりました」

 普通の魔術でどんな風の刃を作り出しても、あんな暴力的になりはしない。あの風は、苦しみにあえいでいた。

 袖の下できつく手を握る。兄上がうなずいた。

「風の使い手であるお前がいうなら、きっとそうであろう。やはりまじない師を呼ぶべきか、いや……」

 と言って黙ってしまう。

 メルツェー医師が盥に薬液と手布を持ってきて、手当てをし直す。これで一安心だ。ジークの傷が術の悪い影響を受けることはなかろう。

 ほっと息をつく。ジークが手当てされているのを見つめ、兄上が深く息を吐くのがわかった。

「……ヴィンフリート、もう内宮へ戻りなさい。今夜はもう遅い。助かったよ、ありがとう」

 はい、と私は一礼した。

「ハルト、お前も何故そのような隅にいるのだ? 来るならオイゲンを……」

 言って兄上はぴたりと口をつぐむ。すぐに軽く首を振って、

「……いや。文官たちを帰らせてやってくれぬか。こんな時間まで迷惑をかけたようだ。明日は六刻に呼ぶと、オイゲンに伝えてくれ。お前もちゃんと休めよ」

 かしこまりました、とハルトムートは微笑んで、私たちはそろって退出した。

 目を見交わす。私たちは同時に扉に近寄り、聞き耳を立てた。

「やれ、そんな厄介な代物だったとは……フォレーヌ殿、やはり明後日まではここにいていただきましょう。では準備を致しますよ」

 医師はカチャカチャと道具を鳴らして、奥へ引っ込んだらしい。少しあって、兄上の落ち着いた声が言った。

「……強く言い過ぎたな。すまん」

「……いえ。おっしゃる通りですよ。私の弱さでしたね、これは」

 ジークが静かに口を開く。

「貴方が危ないと思った時……とっさに、体が動きました。決してあなたを失うような真似だけはと、ここ数日、思い続けていたものですから……申し訳ありません」

「数日?」

「……三日前に、貴方に手の届かないところへ離れてしまった時から」

 はっと私は目を見開いた。あの首飾りから火が上がった時、カスパーは私の傍にいたが、そうだ、ジークの声が少し離れてした。兄上が守ってくださったのだとばかり思っていた。違う。兄上は守られるべき方だったのに、その近衛が誤ったのだ。……だからジークは、あんなぴりぴりした顔をしていたのか。

 私が、カスパーにさせたのと同じことだ……。私が彼を悩ませてしまったように、兄上もジークを、いやもしかするともっと苦しませてしまったのかもしれん。

「そうだったか……。酷なことを命じてしまったね。お前の顔さえ見えていなかったとは、どうやら全く余裕を欠いていたらしい」

 苦い笑みを含んだ声。

「私も同じです。……ヴィン様には助けられましたね。不思議な方です、貴方以上に無茶苦茶やるのに、皆あの方に負ったところがありますよ」

 私はすす、と扉を離れた。乱入がほめられようとは。

 兄上の笑い声がして、

「そうだな、あの子がいなかった間のレームクールやダーフィトめを見せてやりたかったよ。それにエッボや若い騎士たちもな」

 何と……。

 思わず逃げ腰になる私を、ハルトムートが見てくすりとした。こやつ!

 扉の向こうでは抑えた笑い声が収まっていって、

「……私も、変えるべきところは変えねばな。少し考えるよ。お前とさえ仲違いしそうになっているようでは、ヴィンの成長具合に置いてゆかれそうだ」

 と兄上の声は柔らかい。

「私はどちらへでも従って参りますよ。お許しくださいますね、アレク様? これでも浅はかだったと反省しているのですから」

 とジークはきっと困り顔をしているのだろう声音で言う。

「許さぬはずがないよ、ジーク、我が友」

 兄上がいつものしっかりした、凛とした調子で答えるのを聞いて、私はそっと扉を離れた。これ以上の心配も立ち聞きも無用だ。

 ハルトムートがついてくる。私は歩きながら彼を見上げて、

「ハルトムート、お前はよかったのか? 兄上とジークを気にかけていたのだろう」

「あれで十分ですよ。……殿下のお力は便利ですね」

 その見下ろす若葉色の目の中に、実は私を追いかけてきたのだといういたずらっぽい光を見てとって、私は目を細めた。この男は滑らかに回る口より目の方がよくしゃべるらしい。これはおもしろい発見だ。

「そう率直にほめてくれたのはお前が初めてだな。……ありがとう」

 様々な意味を込めて礼を言うと、ハルトムートは少し頭を下げて小さく笑う。彼が書棟へ行くのを見送り、内宮へ帰ると、緊張が解けたのもあってか、寝台に倒れるようにして寝てしまった。



 日が昇ってしまってから、空腹で目が覚めた。侍従たちが笑うようないつくしむような態度で、いつもより長く支度に時間をかけて、いつもより量の多い朝食をくれる。

 そのわけがわかっていたので、私は丁寧に礼を言い、久々にまっすぐ執務室へ向かった。兄上がお一人で書類整理をしていたが、おはようのあいさつもそこそこに、これから会議だからそろそろ勉強をしなさい、と資料室へ放り込まれる。

 しっかり勉強しようという気にならぬな……。代わりに、ごたついてすっかり頭から消し飛んでいた大事な用をすることにした。ヘマへの手紙を出すのだ。どうすれば今の状況を伝えつつ変な心労をかけぬようにできるかと苦心するうちに、昼は過ぎてしまう。

 そして昼食を取っていると、先に済ませたらしい兄上に、ことを後宮にも伝えて十刻には戻ってきなさいと言われる。慌ただしく後宮へ向かい、兄上の無事と丘にあった謎の風の魔術のことを話し、妃様方の質問に答えた。

 ジルケは昨日よりは顔色がよくなったようで、アルマの相手をしていた。次の聖曜日にと約束し兄上のもとへ戻ると、まだ会議中だと待たされたあげく、よくわからぬまま夕餉へ連れ帰られた。

 そして食後の茶を飲み干そうかという時に言うには、

星姫ほしひめ様をお呼びすることにした。それで、ヴィン、明日から忙しくなるから覚悟しておいてくれ」

「はい……?」

 何が何やらさっぱりわからん。兄上はまたしても新しい計画を決めてしまわれたようだ。

 よくわからぬが、そういうことなら、と手紙を書き上げた。明日の早いうちに出しに行くことにする。

『親愛なるヘマ

 返事が遅くなってすまん。あまりにも色々なことがあって、書く機会をすっかり逃してしまった。

 まずは、やっと宮へ帰ってくることができたよ。貴方の手紙も、仕え人たちの歓迎も、とても嬉しいものだった。外に滞在した経験は得難くおもしろいものだったが、ここに記すととても早い返事は出せそうにないゆえ、またいつか語ろう。

 色々あったと言ったが、第二王子の件が進展したのだ。二つ事件があった。一つは、第一王女ジルケがあれにだまされて、危険な魔術のかかった首飾りを持っていたこと。もう一つは、あれが兄上と会おうと指定した星の丘に、本人は現れず、呪いのようなものを残していたこと、これらが発覚したのだ。

 まことにこれらがあやつの仕業なら、あれが冠を被ることはできぬだろう。こんな悪鬼のごとき所業、星姫様が許されまいよ。

 私は本当にジルケとその母君のことが心配だ。何かなぐさめる方法があるとよいのだが。少なくとも、兄上が星姫様をお呼びするとおっしゃったから、かの方は真実を知りなさるだろうが。

 そういえば、星の話をした時、今のユーザルの話はしていなかったな。星姫様というのは、現在ユーザルの文化を保とうとしている人々の長のような方だ。ユースフェルトの王位にも関わりがある。私はほとんど会ったことがなく、よくは知らぬのだが、今度お会いできたら手紙で知らせよう。貴方のように、身分とは違う意味で位の高い方だから、きっとすてきな方だと思うよ。楽しみにしていてくれ。

 兄上がおっしゃるには、私はこれから忙しくなるそうだが、また暇を見つけて文を送ろう。ヘマ、貴方の返事を待っている。

 地祭月の初めに、愛を込めて       

 ヴィン』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る