天と地の狭間でコーヒーを
霧の町だった。
新興の工業地帯から漏れ出る排気ガスが空を白く染めて、日の光を見ることはめったにない。たまに降る雨は黒く、暗い街でもあった。ただ多くの人々が住んでいる。古い町並みはレンガ造りの建物が並び歴史的な風景をそのまま今に伝えていた。
帽子をかぶった黒いコートを着た若い男性が歩いている。整った顔立ちで金髪の彼は手に持った手帳を見ながら何かを探しているようだった。手には白の手袋、下にはぴったりとしたスラックスを着ている。
彼は少し休もうととあるカフェに入った。からんとドアの鈴が音を鳴らす。店内は仄暗い。客は少ないようだった。だからこそ奥に座るその女性が見えた。
白い服を着た女性。青い髪がほのかに光っているような錯覚に男は自分の目を疑った。目をこすり次に見た時、光っているようにはみえず流石に気のせいかと胸に手を当てて息を吐いた。
彼女は手に持ったカップを口につけている。ちらりと彼を見た。水晶のような青い瞳。男は一瞬だけ足を止めた。ただはっと我に返り、男は帽子をとって胸に当て、にこりと笑う。そして彼女に近づいていった。
「お邪魔してしまいましたか? お嬢さん」
「いいえ。そんなことはないわ」
女性の発音は美しかった。男の耳に心地よく響いた。
「横に座っても?」
「どうぞ……でもその前に……ひとつ」
「……なんですか?」
「私の名前はアンジェリカ……あなたは?」
「ああ」
男は笑った。少し畏まって帽子を胸に当てて頭を下げる。
「僕はニコと言います。ニコ・テイラーです」
ニコはアンジェリカの横に座って店主に注文をする。彼女に不覚にも見とれて気が付くのが遅れてしまったが、店内にはコーヒーの良い香りがした。ニコはくくと笑う。下手に宣伝するよりただただ良い『香り』がするだけで飲みたくなってしまう。
「ニコさんはこの街に何をしに?」
「え? ああ、僕がよそ者だってわかってしまいますか」
アンジェリカはにやりと笑った。
「ただのカマかけよ」
いたずらっぽい笑み。白い歯を見せる彼女にニコも笑う。
「僕は一応警察なんですよ。……実はこの街に追っている犯罪者がいると聞きましてやってきたんです」
「ふーん……。じゃあ、本業の人を手玉に取ってしまったてわけね」
「面目ない……ふふ」
ニコとアンジェリカは笑った。ニコの手元には緩やかに湯気を立ち昇らせるコーヒーがあった。店主は初老の男で愛想はないが、口をつけるとニコは目を一度開いた。口当たりが柔らかいのにその後からゆっくり、ゆっくりと深い味が広がっていく。
「おいしいですね」
「そうでしょ?」
「なんでアンジェリカさんが自慢げなんですか?」
それでまた二人は笑う。他愛のない会話だった。アンジェリカはまた聞いた。
「警察さんはどうやってここに来たの?」
「どうやって……?」
ふと、答えることができなかった。代わりにアンジェリカが応えた。
「この街には大きな駅があるから……機関車できたんでしょ? 最近はみんなそうなの」
「そう……ですね。たぶん」
「思い出せないの?」
「……あんまり寝てないからかな。犯罪者を追うことで頭がいっぱいなのかもしれません」
「そういう時はちゃんと休むべきよ。人生はちゃんと振り返らないと損するわ」
「振り返らないと損する……そういうのは人生振り返らないものとかいうものではないですか」
「そうかしら? でも」
アンジェリカは手元にある少し冷えたコーヒーとそのカップを両手で持つ。
「せっかく主より……神様からいただいた時間なのだからちゃんと覚えていて、後で振り返ってみないと損しそうな気がするわ」
「…………アンジェリカさん」
「ああ、ごめんなさいね。変なことを言って」
「……では僕も変なことを聞きますが、もしもその大切な時間を誰かに奪われたのなら、どうやって取り返せばいいと思いますか?」
「…………さあ、どうかしら。それは捜査にかかわることかしら?」
「そうですね」
「……仮にその相手を捕まえても。失った時間を取り返すのは難しいんじゃないかしら」
「……残酷な話ですね」
「そうね……。そうだと思う」
ニコは押し黙り、コーヒーを飲むと立ち上がった。彼は数枚のコインをテーブルに乗せる。
「行くの?」
「ええ、僕には仕事があるので。……アンジェリカさん。僕の追っている犯罪者は僕の妹を殺したやつなんです」
「…………そう」
「仮に取り戻せなくても償いはさせなければいけません」
ニコはそう言って店を出ていく。からんからんと寂しげにドアのついた鈴が鳴った。
☆
霧の街を進む。少し先が見えない白い闇の中でニコは足を速めた。大きな街だからこそ大勢の人が行き来する。しかしそれぞれの表情は虚ろに見えた。それぞれが疲れているように見えた。
ニコは通りを歩く人たちに声をかけて調査をする。殺人犯を追ってるといえば多少は驚くだろう、しかし住民は質問には答えてくれた。それを彼は使い古されたメモ帳に書きなぐっていく。
ふと立ち止まる。空を見上げた彼は思った。昼のはずだ。白い霧で太陽が見えない。ただ、ここで立ち止まっているわけにはいかなかった。ニコの中にはただ警察である自分の公共心、そして個人的な怨恨が混ざり合って存在している。
それは明確な正義とは言えないのかもしれない。だが彼の行動原理を説明するには十分だった。
歩いた。
どれだけ歩いただろうか。大勢の人と出会った気もするが、あまり有用な情報は得られなかった気がする。なんとなく休みたいと思ったがホテルの位置がよくわからない。近くにあった標識を見るが知りもしない通りの名前が書かれているだけだった。
ぱらぱらと雨が降り始めた。さらにあたりが暗く、黒く塗りつぶされていく。ニコはその中で過去を思い出していた。
田舎といっていい自分の家。彼は遊びに出ていた。川遊びを友達として帰った来た時、すべては終わっていた。家の庭にできた血だまりとそこにあった妹の死体。両親が泣き叫ぶ中で自分だけが呆然と立っていたことを思い出した
吐き気に口を押える。もしもあの時自分が出かけて居なかったらと思ったことは何度あっただろうか。子供が一人いたことでそれが何の意味があるのか? という問いに意味はない。
妹を守ることのできなかった兄という自己を許すことが遂にできなかった。悲しむ権利も自分に認めることができなかった。あらゆる葛藤の中でも時は過ぎていく。無情に、わずかな思いやりも時の流れにはない。
彼が長じて警察に入った時、すでに過去の殺人事件は時効の期間を過ぎていた。
彼なりに答えを出した、妹を殺したものをこの手で必ず捕まえて公の裁きによって罪を償わせる。そのための努力も悲しみも葛藤もした。だが彼の『答え』は法の平等の前には効力を持たなかった。
それでも彼は独自に調査をつづけた。何も証拠の残っていない。誰の目撃証言もない状況での単独の調査は遅々として進まない。それでも当時の事件資料を漁ってみた時、いくつかの容疑者の名前を知ることができた。
すでに調べつくされているだろうと思いながらニコはひとりひとりに近づいた。時には暴力も使った。自白を強要するような手法も使った。最終的にそのせいで警官やめることになった。
――やめた?
ニコは思い出したように思った。自分は警官のはずだ。そのはずで調査でこの街にやってきたのだ。
「この街」
黒い雨の降る街、白い霧に包まれたこの街。
「ここはどこだ?」
足を止めることなく彼は進んだ。どこに行くべきかもわからないまま、わからないまま、わからないまま。
雨が彼を濡らした。
「ああ……」
空を見上げて嘆いた。雨音が地面をたたく。空から落ちてくる冷たい雨が顔をうった。
☆
からんからんと鈴のなる音がした。アンジェリカはその音の方を見るとずぶぬれになった一人の男がたたずんでいるのが見えた。ニコだとわかった時、彼女は立ち上がった。
カフェの中は良いコーヒーの匂いが立ち込めている。
「どうしたの? そんなに濡れて」
「…………」
ニコは何も言わない。アンジェリカは店主にタオルを借りて彼を拭いてあげた。濡れたコートと帽子を脱がせた。厚手のコートのおかげで中のスーツは少しだけ濡れている程度だった。
アンジェリカは彼の手を取ってカウンターに座らせた。そして一杯のコーヒーを頼んだ。何も言わないニコの前にコーヒーカップが置かれる。黒いコーヒーの入ったそこからは優しく湯気がたちのぼった。
「……思い出した」
「なにを?」
ニコが口を開いたときアンジェリカは彼の言葉を待った。
「僕は……数日前に死んだ……。拳銃をこめかみに当てた感触を思い出した」
「…………」
「妹を殺した犯人を僕は見つけることができなかった……! ……自分を許すことができなかったんだ……、なのにどうして僕は生きているんだ?」
「……生きているわけじゃないわ」
「……ここは、どこなんだ?」
ニコの見たアンジェリカは少し悲しそうに、それでいて優し気な瞳をしていた。彼女の桃色の唇がゆっくりと動く。
「ここは現世と冥界の狭間。天と地の間の世界よ……生きているうちに忘れ物をしてしまった人が迷い込んでくる場所よ」
「迷い込んだ?」
「そう、ニコはここにきて私と何度も会話したわ。そのたびに妹を殺した犯人を捜すといって出て行った。数日すると初めましてと私に挨拶をしてくれる。それを繰り返していたの」
「……バカな……、そんな、そんなことがあるわけがない。ぼくは、ぼくはここにいて。ちゃんと……」
「そう、貴方はここにいる」
アンジェリカはゆっくりと話す。
「ずっと苦しんでいる」
「あ……ああ……」
「この世界にはそんな人たちが暮らしている。強い思いを持ったまま死んで……それを繰り返してる。ここはそんな街。白い霧の向こう側に行きたいのに、向こう側の景色が見えない……」
「地獄……なのか?」
「そんなに悪いところじゃないかもしれない……でも誰かの救いがあるわけでもない」
「……君は何者なんだ」
「私?」
アンジェリカは寂しげに視線を落とす。
「私は天使。……何もできない天使。迷い込んだ人たちが……できるだけ、この街から離れることのできるように話をするだけの」
「………天……使? じゃ、じゃあ。神様と話ができるのか?」
ニコはアンジェリカの肩を掴んで揺さぶった。必死な形相だった。
「僕は地獄に行ってもいい! だけど妹を殺した犯人も地獄に落としてくれ! それだけでいいんだ」
「……ごめんなさい」
アンジェリカの瞳に涙を浮かぶ。
「私には何もできない」
「……なにが、何が天使だ! 悪党を生かしておいてなんでそんなひどいことが言えるんだ! 僕がどんな気持ちで、生きてきたのかわかっているのか!」
「……あなたから聞いたわ。貴方の苦しさも」
「僕の覚えてない話をするな!」
ニコは懐に手を入れた。そこにあるのは自殺の時に使った小型のリボルバー。撃鉄を起こして、アンジェリカに向けた。アンジェリカは彼を見ながら両手を広げた。
「…………!」
「私はこの世界に堕とされた天使。羽も何もないわ。だけど大勢人達の苦しみを聞いてきた。……救う力は私にはない。ただ、もしもその銃であなたの中の何かに決着をつけることができるならいいわ」
ニコの手は震えていた。
「何も為せずに……僕は死んだ。復讐もできない、警察としての立場も守れず、ただただおろかにもがいて死んだ!」
「愚かじゃないわ」
「……何を言うんだっ」
「貴方は必死に生きた。その結果が求めているものにたどり着かなかったとしても……愚かなんかじゃないわ。……この世界にとどまる人たちは懸命に生きたのよ。それは貴方も同じ」
アンジェリカはニコに近づいた。両手を広げたままその胸に銃口が向いていても。彼女はゆっくりとニコの背に手をまわしてゆっくりと力を入れて抱きしめた。
「この世界はね。立ち止まって思い出すための場所。霧の向こうに行くために。霧の中で迷い続けないように」
「……僕の……過去を思い出すこと以上に苦しいことなんてなかった」
「それでもね……それでも貴方の歩んできた道を思い出してあげて、貴方が懸命に歩いてきたことは誰にも否定させないで……貴方自身にも」
ニコの手から拳銃が落ちる。かちゃんと床で音を立てて、それは砂のようになって消えた。
「……僕はどうすればこの街から出ていける?」
「……駅に行って、列車に乗るの。切符を買うのを忘れないで」
「……わかった……アンジェリカさん」
「なぁに?」
「僕は霧の向こうにいけるんだろうか……?」
それは縋るような声だった。アンジェリカはただただ優しく言った。彼女は耳元で語りかける。決して忘れないように。
「行けるわ。霧の向こうに、辛いことも悲しいことがあっても、貴方は向こう側に行ける。もしも迷ったらまたこの店に来て……ね」
ニコは一度だけ、頷いた。それから目を閉じて「もう、行きます」と小さく言った。アンジェリカはその言葉に「気を付けてね」と笑顔で返す。彼が背を向けるとその背中を少しだけ押してあげた。
からんからんとドアの鈴が鳴る。
アンジェリカは椅子に座ってそこにある湯気を立てるコーヒーカップを見た。店長を見れば、黙々と洗い物をしている。彼もまたここに捕らわれている一人でもあった。
彼女はこの街が好きだった。
悲しい街ではあった、だけどここに来た人たちの心が癒えるまでの間ずっと待ってくれている。死者たちは過去の記憶をたどって行動を繰り返す。いつか霧の向こうに行くことができるようにそれぞれが歩んだ道を振り返り続ける。
ただ、彼らの死んだ後に出会ったアンジェリカはすぐに忘れられてしまう。次に出会った時に「はじめまして」から始まるのだった。彼女もこのカフェで店主と何度も『出会った』。そのたびに彼の言葉を聞いて会話をした。
終わりのない螺旋ではない。
いつかどこかに続く長い道がこの街なのだろう。
アンジェリカは物思いにふける。立ち上がろうとしてからんからんと入り口の鈴がなったことに気が付いた。
コートを着た金髪の青年がたたずんでいる。手には古びた手帳を持っていた。彼は店の中に入ってくるとアンジェリカに声をかけた。
「お嬢さん。少しだけお話をしたいのですが……いいですか?」
「……」
アンジェリカは一度だけ彼に表情が見られないように顔を背ける、悲し気に顔を一瞬だけゆがめた。でも彼女は振り返った。いつものように。美しい笑顔だった。
「ええ、もちろん。……その前に私はアンジェリカ。貴方は?」
「ああ、失礼、僕はニコ。ニコ・テイラーと言います」
柔和に笑う彼。それに優しく微笑みかけるアンジェリカ。
その時彼は何かに気が付いたようにはっとした。
「あれ? お連れさんがいますか?」
「いえ……どうして?」
「貴方の横の席にコーヒーがあるので……」
それは冷えてしまったコーヒーカップ。ニコが手を付けずに出て行ったから、そこにあった。アンジェリカははっとして、困ったように笑った。
「これは……さっきまで友達と一緒に居たの。でもね、もう帰ったの。駅に行くって言ってね……これはもう冷えているから、貴方の分を淹れてもらいましょう」
アンジェリカは彼に手を差し伸べる。
「さあ、座って。ゆっくりお話をしましょう?」
何度でも、
何度でも、
その心に寄り添うことが彼女の在り方だった。
運ばれてきた新しいコーヒーの香りが二人を包む頃に、二人はすっかりとまた友達になっていた――
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