第二章【ピリオドを】
第二章【ピリオドを】
ミーンミーンという蝉の声が薄く聞こえ始めて段々と大きくなっていく。
じんわりと体に絡みつく蒸し蒸しとした暑さと、背中に感じる少し温度の低い硬さに、どこかに寝そべっているのだと気がついた。
重い瞼をゆっくり開くと、うずらの卵のような模様の天井が目に入ってきた。
家庭には無いタイプの細長い蛍光灯が、均等に並んでいる。
右に目を向けると、銀枠の窓越しにもくもくとした夏の象徴の入道雲が見えた。
肘をついて起き上がり、自分の手と足を見る。カーキ色のポケットがいっぱい付いた半パンと、白地に紺のラインが入った半袖シャツを着ていた。
そこから覗く腕や足は細いが程よく日に焼けて筋肉がついていて、独特の匂いがする虫除けリングがついている。
そのリングを見た途端に、小学生の頃の夏の記憶がフラッシュバックして懐かしさに包まれる。
これいつからか付けなくなるんだよなと、少し浸りながら足を見ると、小学校で履く青のラインが入った上靴を履いていた。
体育館シューズは確か黄色だったかなんて思い出しながら、辺りを見回すとだいぶ年季の入った教室のようだと気がつく。
落書きのされた黒板と落ちて砕けているチョーク、荒らされたように散らかった穴ボコだらけの机と椅子はどこかで見覚えがあった。
立ち上がり少しホコリを払うと、黒板の近くの扉に向かって歩き出した。
いつもより低くから見える景色から考えるに、小学生くらいの体だろうか。
キィと嫌な音を立てて引っかかりながら開く扉を、なんとか開けて廊下に出て辺りを見まわした。
右を向くと下に続く階段があり、左を向くと廊下が続いていて教室がもう一部屋あった。
朧げな記憶を頼りに左隣の教室を覗くと、場違いな卓球台が置いてあるのを見て、ここがどこなのかわかった。
「やっぱりここ日の出センターだ。」
日の出センターとは、地域活性化の為に建てられたもので、廃校の備品を譲り受けて、簡易な授業や運動ができるようにした施設だ。
おもに学校帰りや休みの日の子どもが遊んでいることが多いが、ある時は季節ごとの行事が開かれて老若男女の交流を測ったり、ある時は保護者が集まり会議が開かれたりしている。
数十年後の僕の時代でも少子高齢化は進んでいたが、変わらず子どもの憩いの場になっていた。
そんな日の出センターで目覚めたのは運が良かった。僕の探している人物はよくここで遊んでいたらしく、会える確率も高い上に年齢も今の僕と変わらないはずだ。
子ども同士なら初めて接触するのにもおかしなことはない。本当に運が良かった。
とりあえず一階に降りてみよう。一階は自由スペースと図書室があるはずだ。そこなら人がいるかもしれない。
木の階段を降りて一階の自由スペースに降りると、壁にかけられた時計とカレンダーに目がいった。
今日は土曜日の十三時らしい。こんな子どもが一番集まる時間だというのに、自由スペースはオセロやバトミントンなどが散乱しているだけで、誰もいなかった。
ドア越しに見える図書室も二〜三人の座り姿が見えるだけで閑散としている。
何かイベントでもあるのかと思い玄関の下駄箱へ近づこうとした時に、遠くでピーーーという笛の音が聞こえた。
その音でふと思い出す。僕が利用していた時には壊れて閉鎖されていたが、確かこの敷地内にプールがあったはずだ。
それも子供用と大人用などといった三種類もある屋外プールが。
今の笛の音は多分、休憩開始か終了の合図だろう。
とりあえず行ってみるかと靴を探すがどれが自分のものかわからない。
困ったなと、明らかに室内にいる人数より多い靴に目を向ける。
プールにいる子たちがここで靴をビーチサンダルに履き替えたのだろう。
そもそも未来から来た余所者の自分の靴など無いかもしれない。
もう上履きのままでいいかと諦めて、コンクリートに踏み出す。傘立てから溢れる色とりどりの傘を足で避けながら外に出て、少し離れたプールを目指した。
ほぼ真上にある太陽に髪が熱されて頭から汗が流れてくる。思わず眉間に皺がよる。室内に戻ろうかなんて弱音を吐きかけた時に、プールの青い柵越しの休憩用テントで、体育座りをする小さな背中が見えた。
その瞬間うるさかった蝉の声が止み、心臓が耳元にあるかのように大きく鼓動し始める。
「いた。」
目を離さずに、歩みを進めていく。
見間違うはずがない。あの白地に小さな黄色い花のワンピースは、僕の目に記憶にしっかりと焼き付いている。
プールの水で濡れて所々色の濃くなった石の階段を上がって行くと、ぱらぱらとプール内の子どもの顔がこちらへ向いた。
しまった。急に知らない子どもが入ってきて不審に思われてしまったのかもしれない。
でも今更引き返すわけにはいかないと、心臓をバクバクさせながら、プールサイドに建てられた休憩用のテントに近づいて行った。
テントの影に入る頃には、一瞬向けられた興味の視線も無くなっていた。
子どもの意識は移り変わりやすい。
その代わりといったタイミングで、テントの中にいる見張り役の保護者に声をかけられた。
「あら、こんにちは。」
麦わら帽子の下から少し皺の刻まれた目尻を緩ませて、視線を送られる。
くしゅくしゅとした白いブラウスに、レースの黄色いロングスカートが風になびいていた。
腕や顔に比べて少し赤黒い色をした足は素足で、爪には涼しげな水色のネイルが施されている。(水色の人)だ。
「こんにちは、ここいいですか?」
視界の端を掠める黄色い花柄を不自然にならないように見ながら、テントの日影を指差しいい子そうな笑みを浮かべて会話をする。
「どうぞどうぞ。」
おいでと手招きされたところに行き、黄色い花の彼女との距離が人二人分くらいの位置に腰を下ろす。
ザラザラして変な模様の入った地面に片手をつき体育座りをすると、日向とは違いテントの影で冷やされた冷たい感覚が伝わってきた。
そのままはしゃいで泳ぐ子どもを見ながら、頭でぐるぐる考える。まさかこんなに早く会えるなんて、どうすればいい?
まて、落ち着け焦らずに慎重にならないと。
あと1年ある、時間はある。博打じゃなくて確実な方法でいこう。
とりあえずバレない程度に深呼吸をしよう。
「ねぇ。」
そう息を吸ったところで声をかけられ、咽そうになるのをなんとか堪えながら、彼女と視線を合わせた。
「あなたも水着忘れちゃったの?」
膝を抱えて下から覗き込むような視線と共に、質問が投げかけられる。
「うん。」
たった二文字で必要なことだけシンプルに答えると、彼女は小さく笑いながら良かったと言った。
どうやら水着を忘れて、羨ましそうに水面を見るだけの間抜けが、一人じゃなくなったことが嬉しいらしい。
「私、みゆき。」
知っている。
美しい幸せと書いて美幸なのも、親がその名前に込めた意味もよく知っている。
それはそうとして自分の名前はどう答えようか。本名を名乗るわけにはいかないと考えて、少し変えて伝えることにした。
「こう、ひらがなでこう。」
「こうくんね!」
元気に名前を呼ばれて少し罪悪感が湧くのを感じたが、気が付かなかったことにして蓋をした。
ここで本来なら名前を呼び返すのが普通だが、胸の奥がザワザワと騒ぎだし腹の奥がふつふつとして、口を開けば叫んでしまいそうだから黙ることにした。
無愛想な僕を気にも止めずに、彼女は聞いたことのない曲の鼻歌を歌い出す。
その声を聞きながら、改めて目的を心で唱える。
必ず殺す。
手段は選ばずに、自分にできる限り最大のことをする。
もう大切な人を死なせない。
絶対に同じ轍は踏ませない。
絶対にだ。
塩素の匂いに包まれながら、眩く光る水面を見つめる。
誰かが沈めて遊んでいたのであろうビート板が勢い良く飛び出し、バシャと音を立てて水面に浮かぶのを見ていると、怒りがしぼみ心が落ち着き始めてしまった。
やっぱり怒りという感情は長く持たないというのは本当なんだなと思う。
いつもなら強気のまま保てたメンタルが、自分の子ども独特の高い体温と、耳に届く夏の音と、楽しげに遊ぶ声に飲まれていく。
この体くらいの幼かった頃は体力が尽きることなんて気にせず走り回り、息がどれだけきれようとも、たとえ十分しかない休み時間でも楽しかった。
今の僕は休憩時間が十分いや三十分あろうとも、疲れるのを気にして走ったりはしないだろう。
外に行かずにゆっくり時間をかけてご飯を食べて、トイレに行き手洗いの後に残った水で切れ毛を抑える。そして、椅子が冷える前に戻ってきて腰を落ち着ける。
流れるようにスマホを取り出せば、時間はあっという間に過ぎていく。
そんな毎日に慣れた僕には、この時代の全てが眩く、羨ましく見えて思わず目を細めた。
「なんで上履きなの?」
大人独特の感傷に打ちのめされかけていると、彼女の不思議そうな声が聞こえた。
「靴なくなった。」
未来から来たから靴を持ってないなんて言えるはずがなく、苦し紛れに事実をぼかして答える。
僕の返答を聞いた彼女の黒目がちな目が、大きく見開かれる。それと同時に背後で水色の人が息を呑む気配を感じた。
言ってから少しして、僕がいじめられているかもしれないと勘違いされたのだと気がついた。
誤解を解こうと考えるが、靴が無いことには変わりないしどう言えば良いのか分からずに、困って固まってしまう。
「もしかして、玄関のとこでなくなった?」
考えこんでいると、彼女から思わぬ助け舟が出て、すぐさま頷いて肯定をした。
「うん、たぶん。」
僕がそういうと彼女は納得したような顔でこくこくと頷いた。
「よくあるよ。」
「え?」
どうやらみんな一度は経験することで、自分もこの前無くして借りたのだと言う。
そのあと彼女は急に立ち上がり、僕を見下ろしながら手を差し出してきた。
一瞬何の手なのかわからなかったが、どうやら一緒に探しに行こうということらしい。
彼女が立ち上がる重みで、パンダのキャラクターが描かれたサンダルから、キュピっとアニメの効果音のような音が鳴った。
その急展開と、ニコニコ笑いながら差し伸べられた手に困惑する僕に、水色の人が言葉を付け足すようにして話す。
「あそこね、よく誰かが間違えて履いて帰ったり、下駄箱のすみに埋もれたりしやすいの。」
「よく探して、もし無ければ中にいる人に言ってみて。」
いじめの可能性が小さくなったからか、水色の人は少し安心した顔をして、彼女の手を見つめる僕の様子を伺っている。
「うん、わかった。」
僕は頷き、両手を地面について大袈裟に立ち上がる動作をする。
立ち上がった後にさも手が汚れてますよと言ったふうを装って、手に付いた砂をパンパンと払う。
さり気なく体とつま先を階段に向けながら、彼女に早口で行こうと言った。
「うん!」
動き出した僕に大きく頷くと差し出していた手を引っ込め、ビーチサンダルをキュピキュピ、パタパタと鳴らしながら先に石の階段を降りていった。
その姿に安堵の息を吐き出す。上手くいって良かった。
なんとか手を繋ぐなんてことは回避できたようだ。
ひらひら揺れるワンピースの裾を追って階段を降りて行く。
いつの間にか蝉の声も心臓の鼓動も元通りになっている。
そんな僕を咎めるように、ぬるく強い風が髪と服を膨らませながらびゅうと通り抜けた。
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