第39話 明日はきっと今日と違う1日⑦

 これから起こる運命に呑み込まれる準備は瞬時にできた。既に3日の乞食生活で覚悟はできている。


 今はただ、ディラの瞳を見ている。


 美しいその瞳に映る僕には、己の中にあるとがの分子達が身体から放出しているように見えた。


 人がこの世の役目を終えて、人でなくなるときはこういう感じなのだろう。


 仏教には人がこの世に生まれた理由について定義がある。やがては寺の墓地で眠る人の多くはここでつまずき先に進めないまま、一生を終える。


 仏教を学ぶということは、大学で学問を学ぶようなものだという解釈をしている。学ぶ学ばないは、自分で選ぶものであって、必須授業ではない。


 そして、大学側から僕に入学を求められるものもでもない。僕が大学の授業を理解できる基礎知識を得て、混沌たる情報の中からことわりを求めるものである。


 僕が穏やかにこのときを迎えられるのは、己の意志で仏教の書物を開いたからだ。おそらく寺の住職に説法を受けただけならば、まだ、後悔や迷いがあったろう。住職の解釈は僕の理でないし、僕の到達した理も他人の理ではない。”なぜなら”は最初の定義に戻ることになる。


 僕がこの惑星に飛ばされた理由は、乞食をしていた3日のうちに理路整然たる仮説が立てられ、それに自分が納得している。そのときなぜか、ニールに母国の言葉で声を掛けられた。


 仏教は外的な力が作用するものでない、全てが内なるものである。

 定義から躓くとこれは意味不明に聞こえる筈である。


 これは、量子力学で云う観測者に近いかもしれない。不確定性原理が示すように、運動と位置を人類は同時に観測して知り得る事ができないのだ。実体があるのではなく、観測して実体らしきものを確認したのだ。観測の精度が高いと感じるのは科学者達の傲慢だ。


 もう十分だ、ディラよ早く、速く、疾く僕を消しておくれ。


 思えば今日は劇的な1日だった。アントラセンの村人やヒフガの市民に笑顔をもらった。くすぐったいが英雄視されたようだ。英雄は人を堕落させる。僕がここで消える方がこの国の為だと思う。


 ディラは藤色の杖を亜空間に戻すと、笑顔と共に僕の手を引いて浴室にいざなった

「ウメの星の重力に近づけるために、引力の魔法を使った。今はこの星の倍ぐらいの重力がウメに掛かっている」

 理由を聞く気にはならなかった。ディラを押し倒して男女の関係を強行する決断もできなかった。


 湯船の上には煉瓦でできた貯水槽があり、水路で湯船にお湯を供給する仕組みのようだ。貯水槽は浴室の外で常時加熱されているのだろう。

 

 ディラは横を向いてかがむと湯船に手を入れる。

 僕は美しい絵画を見ているのだろうか。絵画には音も時間も自分達が認識している手段では得る事ができない。水面に木の葉が落ちる音が耳に届くような風景。静寂を描いた名画は、今まで経験したことを増幅させて、僕の身体の中に芸術を作り上げ、瞬く間にそれを消し去ってしまう。ここは絵画を見ている僕。僕の存在が絵画にねてしまった絵の具のようにあってはならない失敗に感じる。


 この国ではディラを美しいとしないことが不思議である。ディラの表情が湯温がぬるいことを知らせた。


 水路の上流に行くことに迷いは無かった。そこには木のせきが2つあった。下の湯船に流れるお湯を調整しているようだ。今はお湯が堰き止められている。堰き止める木は複数あり、開けられた穴の大きさの違うものだった。


 下流の凹溝に穴の大きな木の堰をはめ込むと、上流側の煉瓦の出口にある穴のない堰を上げた。湯気を伴ったお湯が水路を経て湯船に流れていく。流れを追うとディラと目があった。絵画の美女は裸体を隠すことなく僕に微笑みかけた。


 僕を始末するのだろう。微笑みに淀みがない。亜空間から刀を取り出して切りつける選択はあり得ない。


 ディラは僕の方にゆっくりと歩いて来る。どういう魔法で始末されるのだろう。

 ディラは両手を広げて僕を抱き込む。女性の冷たい身体を肌で感じる

「寒いよ、他の人は入らないからこのまま入っちゃおうか」

「えっ」

 ディラから感じていた殺気はなんだったのだろうか?

「ウメの身体は温かいね」

 ディラの背中に手を回していた。


 <つづく>




 



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