?-1.夏の哀哭(#文披31題2024.Day1「夕涼み」より)

 私たちが「神」と呼ばれる存在になってから何度数えたか分からない夏が、また来たらしい。あの頃から随分と様変わりした人々の装いを、私はただゴシンボクとやらの枝先に座って眺めている。さらりと頬を撫でた山風から、不意に淋しげな霊力がふわりと香る。

「おや、珍しいね。お前が自分から山を降りてくるなんて」

「ん……」

 その昔私とともに神化された鬼――玄刃くろはが、目の前に音もなく降り立った。しかし、様子がおかしい。

「……なんじコそ、いまダ夜にもなラぬに、など外二たルか」

 絞り出したような声が、枝を小さく震わせる。黒く艶やかな髪は乱れ、首元の霊玉も光を失っている。

「この時期になるとね、このくらいの時間に外に出たくなるんだ」

 虚ろな瞳からでも何を考えているか分かるくらいには、私たちも付き合いが長い。恐らく今は「何故」と不思議に思っているのだろう。

「夕涼み、って聞いたことない? 人間は夏になると、涼を取るために夕方外に出ることがあるんだ」

 言いながら、玄刃の方へ寄る。お前はもう人間じゃないだろう、と返されることを想定していたのだが、返事がない。

「……そうか、今日はうんと暑かったから」

 きっと多くが命を落としたのだろう。フラフラと揺れながら立ち尽くす玄刃の、その冷たい頰に触れる。途端、彼は意識を手放した。

 私の唯一の友神ゆうじんであり、私が人間でなくなった原因そのものでもある彼は、この世に満ちる負の感情の全てをその身一つに背負っている。例えば誰かが亡くなったとか、悪政で不満が噴出するとか。どこにでも転がっているそれらを、玄刃はひとりで無限に味わい続けている。それが如何ほどの苦しみか、私では到底計り知れない。

「ごめんね」

 玄刃を抱えて末社へと向かう。古いながらも小綺麗に手入れされた扉をすり抜けて、私が生前使っていた結い紐の前で手を離した。

「せめて今夜くらいは、クロの心が休まるように」

 くうに浮かぶ玄刃の手に鈴の付いた結い紐を握らせて、彼の胸に手を当てる。玄刃が今日受けた傷、そしてこれから受ける傷を、いくらか肩代わりするためだ。私ではこんなことしかしてやれない。このもどかしさには、どうかこのまま慣れずにいたいと願う。

「あ、嗚呼、あ…………」

 間もなく湯水のように湧いてきた喪失感に耐えきれず、私はその場に崩れ落ちた。

「クロが今日、襲われた、悲しみには……これでも、遠く、及ばないのだろうな」

 立ち上がる気力もなく、流れる涙を拭うことすらできず、ただひとり床に蹲る。随分と古くなった木の隙間を抜けてゆく風に、全て攫い去ってほしいと願う。


 もうすぐ、夜が来る。

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