道化 その1

「は……? お前……いや嘘だ……。僕はしっかり確認した」


 ——呼吸も、脈もなかった……あの冷たさだって……。


 直後、確かな足音と共に大股で歩く男が薄闇の中から現れる。


「あ——ああ、なるほどそうか。姪っ子だ——見付かったんですね尾崎さん」




 佐藤は、鬼の逆鱗に触れた。

 はて、鬼は鱗など有してはいないが、ともかくも彼は動揺のあまり、大枚を叩いて尾崎の怒りを買った。


「佐藤てめぇ!! シラぁ切ってんじゃねぇぞ!!」


 尾崎は前傾すると生涯で後にも先にもない一番の力を右脚に込め、コンクリートの枕木を蹴飛ばした。大男はその体躯に反し、驚異的な速度で距離を詰める。


 その様はまさしく、猪突猛進と呼ぶ他ない圧倒的な走りだった。


 ——てめぇで手にかけておいて何が……!!




 佐藤は鬼の咆哮と殺意に気圧され、身の危険を察知した本能は慌てて拳銃を構えさせたが、照準は全く定まらない。


 ——いや、当たらなくてもいい……とにかく撃てばビビって止まる……!




 そして引き金が完全に絞られる直前。佐藤の脳は既にその動作の完了を命令し終え、後はその信号が指先に伝わるまでの、ごくごく限られた、瞬きよりも短いほんの僅かな隙。


 にわかに眼下から生気に欠けた線の細い腕が緩慢に伸びると、その先端は彼の手首を圧し折らんばかりの膂力で鷲掴みにした。


 撃鉄が薬莢を打擲する爆裂音。眼が眩むほどの発火炎。高速で螺旋を描きながら放たれた鉛塊。

 銀座線に轟く四度目の発砲は、冷静さを欠いたでたらめな銃撃であった。




 恐ろしく長いコンマ一秒を経た後、弾丸は発砲者の予想の遥か外縁に着弾していた。

 微量の火花を散らし、甲高い金属音が残響する。


「命中」


 美しく切り揃えられた漆色の前髪は衝撃によって大きく靡き、その下に隠れた皮を露わにする。


 凶弾は、シオリの額の中心で、路肩に吐き捨てられたガムよりも無惨にぐにゃりと歪んでいた。






「シオリぃ!!」


「うそ……」


 尾崎は本来ならただの威嚇射撃だったそれに動じず、故に勢いが衰えることはなかった。


 ところが、佐藤が撃ち抜いたのは尾崎ではなく、彼の眼前に立ち塞がるシオリの脳天だったことを認識すると、鬼の脚はそこに込められていた力を失った。


 あまりのできごとに、尾崎の視界が狭まってゆく。


 ——俺は……何も……。




 自らを突き飛ばし盾となった瀬谷に続いて、シオリまでもが尾崎を庇い犠牲となった。


 今、この地下トンネル内で起きていることは現実なのだろうかと、牧田の思考は負に囚われた。


 ——もしかすると全部……悪い夢なのかもしれない。佐藤くんが人殺しなのも、瀬谷さんが私を庇って撃たれたのも、シオリちゃんまで撃たれたのも、全部……。


 非現実的な空間に、信じるには酷過ぎる事象の数々。全てが嘘ならどれだけいいだろうか。






 構えた右腕は依然として現実離れした強さで掴まれたまま、硝煙立ち昇る銃口は眼前の少女の額を捉えて離さない。


 その延長線上では鉛が一枚目の頭蓋を砕き、脳漿を掻き混ぜ、やがて破かれた後頭部から、温かな真紅のブーケが噴き出している——はずだった。


 ——僕はどこを……何を撃った……?


 佐藤の双眸は、起こるべき惨劇を映し出してはいなかった。血液や脳漿はおろか、額には風穴すら開いていない。




 シオリは佐藤の腕の拘束を解くと、額にへばり付いた弾丸を摘む。それをしげしげと眺めた後、羽織っているダッフルコートのポケットに仕舞った。


 そして、無機質に艶めいた唇は空気を揺らす。


「わたしが“ジョーカー”。このゲーム、わたしの負けはもうあり得ない」


「な——何言ってやがる……お前、一体……!」


「わたしはシオリ。人間じゃない」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る