枝葉 その7
「さすがにやり過ぎじゃないのか」
部屋を出てすぐに、シオリは咎められた。
「そうかなぁ」
「指輪は何なんだ」
「結婚して何年って言ってたっけ?」
「今年で八年目だそうだ」
「ふんふん、じゃあ間違いないね。あのデザインの指輪は去年発売されたものだよ。傷も汚れも少なすぎたしね。結婚したのが去年じゃないのなら、結婚指輪どころか婚約指輪ですらない。交換するのを忘れてきたか、そもそもバレると思ってなかったか。どちらにしても面白い。大体、旦那さんの訃報を知ってからの行動がおかしいよ。呑気にばっちり化粧してから来るなんて。しかもあの格好」
「つまり夫人も誰かと不倫関係にあり、今着けている指輪は不倫相手からの贈り物だと」
「六十七パーセント。自分で買った可能性もある」
「十字殺人の方も気になるけど、わたしの考えが正しくて、かつその条件が揃えば第三の被害者はこの事件の犯人になるかもしれない。よし、現状分かってることを確認しに行こう」
シオリはカードがよほど気に入ったのか、必要以上に見せびらかせながら廊下の真ん中を堂々と歩き始めた。
署内は制服も背広も私服も、混ぜこぜでごった返しており、すれ違う人間は全員強烈なストレスを無遠慮に放っている。
そんな中シオリが声をかけた相手は、中でも一際くたびれた雰囲気を纏う、肩の丸まった男だった。
「佐藤巡査」
「あれ、CIAの子だ。ここにも現れるなんて、CIAがどこにでもいるってのは本当かもね。何のご用かな?」
佐藤は、数日前まではきちんと整えられていたであろう髪をわしわしと掻きながら、気怠さを残しつつも快く応対した。
「今度はCIAか。よくもまぁ次々と出てくるものだ」瀬谷の口から皮肉が漏れ出る。
「ご遺族の方ですか?」
瀬谷とシオリの背後から、低く落ち着いたバリトンボイスがかけられる。
二人が振り返ると、瀬谷より少しばかり背の低い男が缶コーヒーの中身を撹拌させながら近付いて来ていた。
「あ、稲川さん。お客さんです。えーっと……あれ。そういえばあなた方は?」
佐藤は二人を紹介しようとしたが、その直前に自らもこの奇妙な二人組について何も知らないことに気が付き、バツの悪そうな目線でシオリに助け舟——もとい名乗りを求めた。
瀬谷はまたしても探偵だと誤魔化して挨拶を済ませる。
一方のシオリは今回、稲川に対して「自分は百歳だ」という嘘を吐いた。
これを聞いた瀬谷は、「そもそも探偵が嘘なんだからそれでいいだろう」と思わず咎めそうになったのを何とか堪えた。
「なるほど、探偵さんですか。俺は稲川といいます。こっちは相方の佐藤です」
「どうも」
稲川の態度や表情は、尾崎が抱いていたような探偵に対する排他的な感情に比べれば、随分柔らかいものである。
佐藤はというと、常にうっすらと笑みを貼り付けていて、正直何を考えているか読み取り難い男だった。
「それで、探偵さんが何のご用でしょう?」稲川は二人に席に座るよう促し、佐藤にお茶を用意させた。
「今朝の事件のことで、分かってること全部教えてほしいの」
若干だが、稲川の顔色が変わった。
やはり無意識的に探偵という存在を快く思っていない部分があるようだが、こればかりは職業柄致し方のないことなのだろう——と、瀬谷も次第にこのような応対に慣れつつあった。
佐藤が口の広い陶器の湯呑みを四つ、長テーブルの上に順番に置いたのを見届けた後、稲川は小さく息を吐き出す。
「まぁ……尾崎さんに着いてるなら大丈夫か」
彼は自分に言い聞かせるように呟くと、一呼吸置いてからこと細かな説明を始めた。
「まず被害者が、古屋 城さん。四十歳。全国展開している大手スーパーチェーンの店長や地区マネージャーとしての手腕を買われて、東京本社の企画営業部へ栄転。明石から上京していたそうです。職場での問題もなく優秀な人だったそうなのですが、生活環境が一変したせいかどうやら火遊びをしていたようで、その辺のいざこざは何度かあったそうです」
「やっぱりタラシだったかー」
「茶々を入れるな」
「マンションの防犯カメラに映っていた女は現在追跡中。付近に落ちていた包丁に付着していた血液は被害者のものと一致。検出された指紋は被害者のもののみ。ただ、被害者の爪の間には皮膚片、手の甲には何かを殴ったような炎症も発見されています。それから、現場には女性のものと思われる毛髪が数本見付かっているので、それらが分かり次第、まずはそこから攻める形になりそうです」
「夫婦関係はどうだったか分かる?」
シオリが訊ねると、稲川は首を傾げた。
それに対する答えよりも、そもそも質問の意図が分からないといった顔で「いいや」と弱々しく返す。
「我々は夫人が一枚噛んでいると踏んでいまして」
「奥さん? 兵庫にいたんじゃないんですか?」稲川の首は更に横に倒れる。
「別に、自分の手じゃなくても人は殺せるでしょ?」
無垢な唇が常識という概念を容易く蹴飛ばす。
その先を遮るように、激しい喧騒の中で電子音が鳴る。稲川のスマートフォンからだった。彼は煮え切らない、怪訝な面持ちで断りを入れると、席を立ち電話に出た。
残された佐藤は中途半端な間を埋めるべく、前のめりになって個人的な疑問を話題として切り出した。
「日本の探偵も刑事事件当たったりするんですね。結構多いんですか?」
視線は当然のように瀬谷に向けられている。
瀬谷は出されたお茶を一口含む。彼はまたしてもどう返すべきかしばらく悩まされることになった。
「いえ、今回が初めてです。働き次第では今後もお世話になるかもしれませんが」
「なるほどなるほど。でも、いいですねぇ探偵って。あんまり大きい声じゃ言えませんけど、何となく刑事って名乗るよりかっこいいし、僕も子どもの頃は憧れたものです」
そういうものなのだろうか、と瀬谷が疑問に思っていると、電話を終えた稲川は戻ってくるなり佐藤を呼び付けた。
「おい佐藤、出るぞ。お二人とも申し訳ない。お茶はそのままにしておいてもらって構わないので、適当にしていってください」
稲川はパイプ椅子の背もたれにかけていたジャケットを素早く羽織ると、急いでいながらも律儀に頭を下げて無礼を詫びた。
上司に急かされた佐藤は慌てて緑茶を最後に一口啜ると、「それじゃ、また」とへらへらしながら去っていった。
「さて。今欲しいものはある程度手に入ったし、この犯人は刑事さんたちに任せよう。多分今日中に捕まえてくれるから、わたしは十字殺人の資料でも読み込みながら待機。もうあのおばちゃんには合わせてもらえないだろうしね。瀬谷はお茶の時間?」
「お前が待機なら僕もそうするしかないだろう。眼を離すわけにはいかない」
「まーたそうやって。わたしは子どもじゃないって言ってるじゃん」
「まさにそういうところだ。それと、お前の作戦で行くならもう一つ、やり残していることがあるだろう」
瀬谷はまだ湯気の立つ湯呑みをぐいっとしゃくり上げて残った緑茶を飲み干し、胸の前で静かに掌を揃えた。
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