十字 その2
壁一枚を隔てた先を覗くと、くたくたのスーツや皺だらけのシャツをまとった大勢の人間が右へ左へと忙しなく動き続け、寒さが深まりつつある外気温を忘れてしまうほど、室内には熱気が籠っている。
その光景は瀬谷の抱いていた想像とそう違わなかった。唯一の違いといえば、薄いアルミかスチールでできた灰皿に山と積まれた吸い殻が存在しない点だった。
今日日喫煙者の肩身が狭まり続ける中、その影響はストレスの源泉たるこの場でさえ例外ではないようだ。
捜査一課に多田警視正が顔を覗かせると、猫背の若い刑事が煙草を咥えて退室しようとしていたところだった。
その刑事は多田の姿を認めると、慌てて煙草を胸ポケットに突っ込んだ。
「たっ、多田さん。お疲れ様です。あの、どうされました?」
「佐藤か。ご苦労様。尾崎いるか?」
多田はその肩書きが持つ仰々しさを欠片も見せず、穏やかにある人物の所在を訊ねる。
煙草をしまった佐藤と呼ばれた刑事は「うーん」と頭を捻った後、自信なさげに「今朝から見てませんね」と答えた。
「やっぱりか。引き留めてすまないね」
佐藤は「いえ」と言いつつ、その場を後にした。
彼が溜めに溜めた鬱憤を煙と共に吐き出すまであともう一息だった。
「尾崎って?」
「ああ、君たちと行動してもらいたい人だ。昔、私と組んでいたバカ真面目な大男だよ。デカになる為に産まれたような奴で……まぁまた今度改めて紹介しよう。いやはや、年をとると話が長くなるっていうのは本当だな。いらないことまで喋っちまう」
多田は自嘲を含みながら話を一度引き取った。
「さて、立ち話もなんだ。奥の部屋に案内しよう。着いてきてくれ」
二人が通されたのは小さな会議室だった。脚の短い長テーブルの上座と下座に一脚ずつ、左右には三人がけのソファがそれぞれ存在感を放っている。
使い込まれた数枚のホワイトボードは壁際に追いやられ、その隣には剥き出しのまま立てかけられたパイプ椅子が十脚ほど保管されていた。
実用性に重きを置いた結果、整った内装やそれがもたらす居心地は完全に度外視されている——というより、半分は倉庫扱いであろうことは想像に難くない。
瀬谷は、この殺風景極まりない部屋に既視感を覚えた。
廊下越しに聞こえる喧騒を除けば、眼前の環境は昨日までと——ASIOにある自分の部門とさほど変わらない。
多田は適当に腰を下ろすよう促すと、壁かけの内線電話であれやこれやと指示を飛ばした後、下座に落ち着いた。
「すまないが、今日はひとまずここで我慢してくれ。さすがに、一課の隅より余程落ち着くだろうから。大丈夫、掃除はさせてあるよ」
「さて。知っているかもしれないが、一週間——厳密には六日前だが、この近くにある寺の墓地で女性の遺体が見付かった。手前味噌だが日本の警察は優秀だ。もちろん、そこには君たちの組織の助力も大いにあるわけだが……お恥ずかしい話、今のところ犯人の手掛かりはゼロ。このままだと最悪、コールドケース行きだ。そこに、彼が君たちを連れてきた」
数十分前、新木に向けられたであろう気迫には及ばないが、それでも人が変わったかのような力強さの籠った声だった。備えられた物の少なさも手伝ってか、狭い室内でもよく響く。
「さっき、捜査資料をここへ寄越すように連絡した。もうしばらくすれば届く。是非、君たちの意見を聞かせてもらいたい」
それからすぐ、会議室の扉が二回ノックされる。入ってきたのは制服姿の若い男だった。その手に持たれたお盆には湯呑みが三つと、茶菓子らしき幾つかの袋が載っていた。
眼を引くのは、お盆の下のラップトップと紙束だった。この制服警官は随分と器用らしい。
多田が「ご苦労」と労いの言葉をかける中、彼は手際良く湯呑みと紙束をそれぞれに配って回る。最後に、ラップトップを警視正の前に置くと、「失礼します」と一言だけ残して去っていった。
瀬谷は自らを棚に上げ無口な男だなと思ったが、よくよく考えてみれば、普段お目にかかることなどない警視正が下座で応対する相手など、不気味以外の何者でもないだろう。
資料を読み終えた二人はしばらく黙り込み、それぞれ思案に没頭する。
多田は答えを催促することなく、その間ラップトップと向き合い何かを整えていた。
「……“死斑は確認されなかった”」瀬谷が呟く。
「血は? 残ってなかったの?」シオリも首を傾げる。
「やはり、気になるのはそこか」
多田の肺から重たい溜め息がまろび出る。吐き出されたそれは、もはや眼に見えるようだった。
「これが現場の写真だ。見ての通り、大きな血溜まりがあるわけでもない。それどころか小さな血飛沫一つすらも見付からなかった。殺害現場がここではないことは言うまでもないが、何の為に——有り体に言ってしまえば血抜きをしたのか……惨い話だよ」
ラップトップを二人に向け、数十枚もの現場や遺体の写真を見せる。
資料によると、死因は左右の頸動脈を切断されたことによる失血死。検死時、体内に残っていた血液は三百ミリリットルにも満たなかったと記されている。
それ以外の外傷は一切なく、遺留品も手付かずだったらしい。
「快楽殺人?」シオリはあからさまに不快感を露わにする。
「余程捕まらない自信があるようですね。あらゆる痕跡を消しているにも関わらず、敢えて目立つように遺体を棄てている。間違いなく常習犯でしょう」瀬谷の表情は変わらない。
それぞれの意見を聞いた警視正はかぶりを振った。
実のところ、捜査本部全体の見解もほとんど変わらなかった。事件発生から六日目、いよいよ手詰まりになりつつあったのだ。だからといって、次の被害者がでるまで指を咥えて待っているわけにもいかない。
彼の顔から、焦りの色が滲み出した。それを見かねてか、シオリがある提言をした。
「ねぇ多田警視正、わたし——現場見に行きたい」
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